第10話 ナウカワ公国へ

 ここしばらくく、オスダ王国は穏やかな空気に満たされている。ナウカワ公国を襲い、オスダの国境に迫ってきた「山の者」の動向も話題に上らないようになり、タキは平穏そのもののように見えた。

 その中、モローは王宮に居るウルバンから呼び出しを受けた。

 小雨じりの昼過ぎの事である。午後の生徒が来るまで教練所の控処ひかえしょで弁当を採っていると、ウルバンの使いだという三十過ぎの男がやってきた。見たところその体型からウルバンの執務しつむを手伝う官吏の一人だろうとモローは思った。

「ウルバン殿下がお呼びです」

 この男は、ウルバンの名を出せばその一声で言うなりになるとでも思っているらしいことが分かる。

「午後の教練があるのですが」

 モローはモクレンが持たせてくれた弁当のふたを閉めながら答えた。男はそんな返答をもらうとは思っていなかったようで、何かぼうでも飲まされたような顔をした。

「いや、ウルバン殿下があなたを呼んでいるのですが……」

「だから、俺には午後の教練があると言っている」

「殿下の呼び出しに応えられない、……ということですか」

 男は顔を次第しだいに青ざめさせ始めている。男にとってウルバンの命は絶対であるかもしれないが、モローは違う。彼を嫌いではないが自分は家来でもない、それより今の自分は仕事を優先したいのだ。やっと最近になって、子どもに教えることが楽しくなってきている。教える子供たちも、「山の者」掃討そうとうにおけるモローの活躍を知っているらしく、日に日に素直になってきていた。

「違う、午後の教練が終わってからではだめかという事だ」

「殿下はお忙しい人です。教練が終わってからだと、もう別の要件に係っておられると思いますので」

「では、日を改めてということにしていただきましょうかな」

 モローの返答はにべもないものだった。

「いや、……それは困るのです」

 今度は顔を赤く染め、額の辺りにはうっすらと汗をかき始めていた。モローは少し、この男があわれになってきた。

 二人のやり取りを控処の外で聞いていたらしい、赤ら顔のジソマ所長が扉の前に立っていた。何時からそこにいたのか、モローも分からなかったくらい、彼は気配を消していた。

「モロー先生。午後の教練は私が受け持ちます。ですので、ウルバン殿下の所へうかがってください。ここは王室が運営している所でもありますしな、殿下の命は聞かねばなりませぬぞ」

 そう静かな口調で所長はモローをウルバンに会うよううながした。

「はあ、所長がそう言われるのでしたら」

 モローは小さく頭を下げた。

「よろしく頼みます。ウルバン殿下直々じきじきにお呼びという事は、そういう事ですのでな」

「分かりました。ならば一つお伝えしたいことがあります、午後の教練にサッシュが参りますが、昨日の教練で足をひねっております。無理は禁物きんもつと思われます」

 モローは教え子の一人が怪我をしていることをジソマに告げた。

「サッシュですな。分かりました、注意しておきましょ」

 そう言い、「では」とジソマは控処を出ていった。

「それじゃ、殿下のもとに案内してください」

 モローは思わぬ味方の出現にホッとした表情を浮べている男にそう言った。

 

 ―ウルバンの命令―

 モローが呼ばれた理由は「山の者」の探索たんさく調査であった。

 その日の夕刻遅く、モローが自宅に戻ってきて、いつものようにモクレンから暖かい出迎えを受けるや、彼女に何故だが申し訳なく感じ、何も言わずにナウカワへ向かってしまおうかと考えてしまっていた。

 食卓で夕飯を囲んでいると、モクレンが黙々と食事をとっているモローに「何かあった」と聞いてきた。

「ん、何もないが」

「ふーん、違うと思う……。あったんでしょう、本当は」

 モクレンが真剣な表情を浮かべ、自分の顔を覗き込んでいる。最近モクレンは、モローの感情を読むようになり、また、それがはずれないのだ。彼女も自分と同じ能力持ちかともモローは思ったが、彼がモクレンの両親を殺した人間だとは気付いていないので、彼のちょっとした表情の変化や声の調子で見極めているようである。

「あった」

「なに、どうしたの」

 今回は多分、何十日、長ければ何百日も不在となるし、生きてここへ戻れないかも分からない。無理な依頼も受けてしまうのは、ハン出身のさがなのかもしれないと、モローは思った。

「ナウカワに行くことになった。少し長引く」

 そうポツリとモローが話した。それを聞いたモクレンが固まった。

「……なんで」

「殿下からな、頼まれた」

 モローの言う「殿下」とは、ウルバンを指している。

「長くなるって言ったよね……。どのくらい」

 おずおずと浮かび上がった懸念をモクレンは訊ねた。

「分からん、早く帰ってきたいのだが、長丁場ながちょうばになりそうだ」

 そうモローが答えた。

「誰かと行くの」

 モクレンは「山の者」との戦いで、モローがアマリと行動を共にしたことを気にしているのかもしれない。以前にモクレンはモローの知らない所でアマリと休戦協定きゅうせんきょうていのようなものをむすんだのだが、それでもモクレンがアマリを意識していないという訳ではない。「友達になった」とはモローに説明したものの、心の中ではやはりアマリを警戒している。

「いや、一人だ」

 そうモローが答えると、モクレンは少し安心したというような表情を浮かべた。

「……帰ってくるよね」

「当たり前だ」

 とモローはモクレンを見つめた。彼女が自分に依存気味いぞんぎみであるのは知っている。また、自分もモクレンに心のやすらぎを求め、そして肉体関係無しに安らぎを与えられている事を知っていた。いつしかモクレンはモローにとってえのない肉親と思えるようになっていたのである。彼女の全てがいとしく、彼女の幸せを本気で願っていた。

(いつかは、俺が両親をあやめた奴だと気づくだろう)

 その日が何時いつになるのか、モローにも分からない。それを知りモクレンが自分をかたきと思うのなら、たれる覚悟はしていた。

「ほれ、夕飯が冷めてしまうぞ」

 去来きょらいする想いを振りほどくように、モローは口調をくだけた調子に変えてそうモクレンを促した。だが、モクレンは食事を前にしたまま、それに手を付けようとはしなかった。

「ナウカワで何をするの、出掛でかけるのは何時いつになるの」

 モクレンの言葉の端々はしばしに、行ってくれるなという想いが込められているが、モローはそれを無視した。

「何をしに行くのかは言えないぞ。めいの出所は殿下で、出掛けるのは明後日みょうごにちの朝だ」

「明後日。……すぐじゃない」

 それを非難するようにモクレンが口をとがらせた。本当の父親に対するような遠慮のない態度を、最近の彼女は見せることが増えていた。それもモローには可愛く思える。

「すまん」

 そうモローが答えると、暫く黙り込んでいたモクレンは静かに息をいた。反対したって、この人は行ってしまうということを、モクレンは良く分かっていた。

「……分かった。……待ってる。だから、無事に戻ってきて」

「ああ、戻ってくる。それにな俺が居ない間、ガラム殿がお前を護ってくれるそうだぞ」

 モクレンが顔をサッと赤くし、それに気づいたモローは少し複雑な表情を浮かべている。

「あれが好きなのか」

「そんなことない。好きなのは叔父さんだけだよ」

 若干じゃっかんあわて気味にモクレンが答えた。

「しかし、顔に出てるようだが」

「ないない、そんなこと、絶対ない」

 妙にむきになるのがますます怪しいと思いつつ、モローはモクレンがガラムと結ばれるならそれで良いと思う。前提としてはモクレンが幸せになるのならではあるが、ガラムならば彼女を大事にしてくれるだろう。だが、モクレンがどんな生活をしてきたかを考え、当のモクレンがそのことをガラムに話していることをモローはまだ知らない。隠していてもいつかはばれる、同時に非常に高い壁が二人の前に立ちふさがるはずだ。

 そのことでモクレンが苦しむのは見たくないというのもモローの正直な気持ちである。唯一ゆいいつ娼婦しょうふだったモクレンが壁を乗り越えられるとするならば、彼女の正体をかす事だ。今は滅んでしまったが、まだ由緒ゆいしょ正しい王族の正当な跡継ぎであることを提示すれば、彼女への見方が変わるかもしれない。

 そうは思うが、逆にモクレンが要らぬ争いに巻き込まれる恐れも考えられる。

 モクレンの不幸は、自分がシュリの依頼を受けたことに始まる。それは変えられない事実だ。彼女がその事実を知った時、彼女はどうしたいのか、モローは彼女の意思に従う、どうしても考えはそこに行き着いてしまう。


 ―出立―

 その日の朝、モローは首都である「タキ」の城壁に沿って引かれている外周がいしゅう道路を使って、北の国境近くにある小都市「シンラ」に入った。北の国境を抜けるには「シンラ」の国境検問所けんもんじょ検問けんもんを受けねばならない。

 ウルバン王子から通行手形は発給してしてもらっているので問題はないのだが、今までそういった正規の手立てだてで国境を抜けた事がないので、モローにはひどく不便に思えた。国境というものは気にせず単にどこでも好きな場所で越えれば良い、これまでそうやってきた。検問所などの所を通って国境を越えるなど無駄な事だとも彼は思っている。

 だが、ウルバンから手形を発給はっきゅうしてもらっている手前、ことオスダ国内ではそう思い通りの行動は控えた方が良いだろうという算段さんだんもモローはできるようになっていた。モクレンを残しての移動だ、彼女の事も考えなければならない。

 シンラは本当に小さな街だ。どちらかというと、国境を警備する兵士のための街であり、国境沿いに大きな営舎がある以外、高級貴族の控え屋敷が目立つだけで、商家や民家なども少ない。別にとどまる必要もないので、モローはシンラの街を突っ切るように検問所に向かった。

 検問所は石組みの大きな門の脇にあり、門を抜けるとナウカワ公国方向に向かう街道が続いている。

 普段ならばナウカワへ続く街道の交通量は多く、盛んに旅人や荷駄車にだしゃが行き交っているのが、ナウカワ公国が「山の者」に蹂躙じゅうりんされてからは、めっきりと寂しくなった。そのせいか、ナウカワへ向かうため検問所は順番を待つ人の姿もまばらとなっている。

 その検問所の脇にアマリが立っていた。アマリは旅に向かうまちの娘のようなちで、剣などを入れたと思われる大きな麻袋が足元に置いている。

(なんでこんなところに彼女が)

 とモローが思う間もなく、彼女は麻袋のひもを肩に背負うと、モローの馬車に駆け寄ってきた。

「私も一緒に同道どうどうします」

 モローが停めた馬車の御者台に近づくと、馬車を手で押さえるようにして言った。

「あなたが同行するとは聞かされていないが」

 アマリを見つめていたモローは、少しぶっきら棒に言った。

「はい、そうだと思います。私がウルバン殿下に願い出て許可を頂いたのです」

「この旅は危険だ。めておいた方が良い」

「そう言われると思い、ここでモロー殿を待っていました」

 アマリはそれが何かというように答えた。

「どのくらい、ここで待ったれていたのだ」

「そう、二日になりましょうか」

 二日の間、彼女はここでモローを待っていたらしい。

「覚悟はしているのでしょうな」

 モローは面倒くさい気分になっていた。アマリの場合、自分がこうと決めると中々その決断を止めさせることは難しい。それは、「山の者」の一件で分かっている。

「はい、覚悟して参りました。私はこの国の騎士を務める者、本来国の者がやらなければならない任務です。それを国の者ではないモロー殿一人がかれるのは正しくないと思いましたので」

 彼女はてこでも動かないつもりだ。そう決めたのなら、彼女は一人でも向かうだろう。ここで、あれこれ言い合っていても仕方ないとも思う。この先、生き死にを決めるのは彼女である。

「この先、どうなるが分からないぞ」

 もう一度、モローはねんを押した。

「構いませぬ。騎士としての務めを果たしたいと存じますゆえ」

 モローを見上げるアマリの表情には、固い決意に加え、それとは違う感情も現れているように見えた。

「分かった。乗って」

 そう突き放すようにモローが告げると、「はい」とアマリは頷き、荷台の後部に回り自分の荷物を載せ、御者台の空いた部分によじ登ってきた。

「世話になりまする」

 そう礼を述べたアマリはどこか嬉しそうであった。

 通行手形を見せ、検問所の衛兵から好奇心とからかうような視線に送られ、二人は国境を抜けた。たちまち辺りは森と畑、そして幾重いくえにも山が重なる山脈が見渡せるようになった。薄曇りの中、山脈から吹き下ろされてくる風が、二人の頭上を覆う雲を厚くしていくようである。

 ゆっくりと街道を進むモローとアマリは年の離れた農家の夫婦にも見えた。夫が手綱を持ち馬車を歩ませ、その隣でほっそりとした若い妻が幸せそうに夫に寄り添っている、はたから見た者はそう見えるだろう。

 それに普段は騎士の堅苦しい平服姿で街を闊歩かっぽしているアマリだが、今日の彼女は胸元が少し緩く開き、裾が足首にまである丈の長い質素な衣装を着け、いつもより短く刈った栗色の癖毛くせげやわらかに、風と馬車の振動で波打っている。そして耳には、モローが買い与えた耳飾りが揺れ、色を添えていた。

 国境をかなり離れ、人通りが途絶とだえるようになり、街道を進むのはモローとアマリだけとなった。モローは普段から無口だし、アマリは「山の者」との国境防衛戦の時とは違い、二人で旅をしていることから、尚更なおさら意識してしまいしゃべることに臆病となっていた。

「どれくらい聞いておられます、エグのことを」

 沈黙に耐えられなかったのか、アマリは意を決したように、「山の者」が生息せいそくするエグについてモローに訊ねた。

「あまり良くは知っておらん、アマリ殿はどうだ」

「私も同じようなものでしょうが、一応、王宮の偵察係ていさつがかりから聞いてはおります」

 偵察係ていさつがかりというのは、オスダ王国が各地に放っている間者かんじゃ諜報員ちょうほういん)をたばねている組織で、ここに集まってくる情報を整理・解析かいせきを行っている部署である。

 モローは馬車周辺に視線を走らせている。そして、彼女の続きに言葉を待った。

「ナウカワ公国の北東に位置する国境線が引かれている山脈をはさんでエグと呼ばれる地域になることはご存知でしょう。そのエグに奴らが生息していることも以前から分かっていました。我らの住むアマツと『山の者』が棲むエグ一帯をへだてているのはけわしい山の連なりがあり、そのために奴らが侵入してくるのをほぼふせいでいたようです」

 アマリは戦った事のある「山の者」を思い浮かべたのか、表情を強張こわばらせ、続けた。

「以前は、ナウカワ公国北東の山を越えて『山の者』が侵入してきたので、その数はごく少数で、処理するには問題なかったと聞いていますが、アマツとエグを繋ぐ洞窟をナウカウ公国が発見してから様相ようそうが変わってきました。ナウカウの人間がエグへ行けるのなら、奴らも容易くこちらへ侵入してこれるようになったということです」

「オスダの国境に現れたのは多数だったが、やはり、ナウカワが見つけた洞窟を伝って侵入しナウカワで暴れた山の者の仲間だったということか」

 オスダから見ると、ナウカワ公国は北北東の位置にあり、「山の者」が国境に迫ったのは西の国境である。少し位置が違うとモローは思い、そのことをアマリに訊ねた。

「それに関しては、山に沿って南下したと考えられるそうです。その過程で我が国の存在に気付いたのではないかということです」

「あれの正体は、掴んでいるのか」

 モローはそう訊ねながら、道に視線を戻した。一方ではこの先暫くは昇りが多くなる、どこか適当な所で馬に水と休息を与えねばと考えていた。

「そこは、まだです。ご存知ぞんじのように我らのような姿形をしておりますが、かなり違う部分があるという話です」

 「山の者」の行動は各自の考えで動いているとは思えない動き方をしていた。ナウカウ公国から南下したのなら、オスダより遥かに大きな亥之国いのくにの国境に向かうのが普通だろうし、実際地形的にはオスダの国境を頭越しに越えてエナ平原を突っ切り亥之国国境にぶつかっている。彼らは何かの拍子ひょうしに真っ直ぐ進めば良いものを、途中東とちゅうひがし転進てんしんし、オスダの国境に迫ったのだ。そのため亥之国は無事で、オスダ王国は大きな人的被害をこうむっている。

 ウルバン達、国の上層部は、ほぼ壊滅かいめつしてしまった第一騎士団の働きにより、何とか押しのけた「山の者」が西の国境だけではなく、北やそれ以外の国境からでも再び侵入してくるのではと警戒した。一時的にもいちじるしく戦力が低下したオスダ軍は、二方面からの侵略をこころみられれば手もなく侵入を許してしまったかもしれない。だが、「山の者」は西の国境にとどまり固執こしつし、再び同じように侵入をしようとしたため、かろうじて彼らを殲滅せんめつできたのだ。

 オスダにとって非常に幸運だったのだ。何故「山の者」が攻撃地点を変えずに、前にならったように西の国境に迫ってきたのか、ウルバン達も首をひねったのである。「山の者」の集団に指揮をする者がおらず、ただ戦闘における本能から、他の侵入場所を探す事も無く、再び西の国境に迫ってきたのではと思われていた。

「ふうむ、良く分からないというのが本当のようだな」

「そうです、残念ながらそうなのです。敵の詳細しょうさいが分からなければどうにもなりません、だから王子は我々に探査を命じたのだと思います」

 何時の間にか、エグへの探索は二人に命じられたようにアマリは話し始めていた。

 小高い山が迫っている。間もなく上り坂が連続するはずだ、モローは馬を休ませることにした。

「まあ、行ってみての話だ」

「ですね、洞窟へどう簡単に侵入するかが問題ですね」

「アマツのどこの国でも通れる手形をもらっているが」

 とモローは辺りに視線を走らせながら言った。

「はい、国境や街の出入りなら使えますが、エグに通ずる洞窟周辺には軍部隊の駐屯処ちゅうとんしょが複数あるそうで、果たしてすんなりと通してもらえるかどうか。……ですのでタカキに居る我が国の偵察係と打ち合わせをするよう命じられていますが、モロー殿もそれは聞かれておりますよね」

「ああ、聞いているが、俺はいつものようにこっそりと抜けようと思っていた」

「いつものよう……、これまでそうされていたのですか」

 驚きとあきれがないぜになったような口調でアマリは答えた。

「まあ、そうだ」

 モローはそう答えながら、馬の水やりに丁度ちょうど良い場所を見つけた。街道沿いに馬車一台分の空地があり、その脇、街道の横を流れている小さな川があった。

「あと十二陸里でナウカワの領土に入る。ここで馬に休息をとらそう」

 そう言い、モローは馬車を街道脇の空き地に入れた。ここらは小領主が共同して統治している土地で、オスダやナウカワのように国境に目を光らせてはおらず、自由に行き来できる土地であった。

「腹が減ったな、もうじき宿場しゅくばに着くはず、そこで昼食をろう」

 とモローは馬車を降りながらアマリに告げると、アマリは彼に続きねるように馬車を降りて来た。

「モロー殿、弁当を持ってまいりました、二人分ほど。……お食べになりませんか」

 馬を馬車から外しているモローへ、そう誘った。二日間自分を待っていたというアマリが、どうして弁当を用意できたのかは聞かないでおいた。アマリの実家程になると、各街に屋敷を構えているものである、大方、そこの使用人にでも作らせたのだろうとモローは思ったのだ。

「いいのか、すまないな」

 馬を街道下の川辺に連れて降りつつ、モローは微かに笑みをアマリに向けた。それが彼女にはひどく嬉しかった。


 ―ナウカワ公国―

 その日の夕刻、モローとアマリはナウカワ公国に入った。国境の検問所は無人で、当然誰にも誰何すいかされずに入国できてしまった。

 先の「山の者」襲撃で多くの兵士を失い、国の体制が大きくらいでいるとは聞いていたが、国境の警備すらまともに出来ていないほど衰退すいたいしているようだった。検問所はヨイリという街の外れにあり、首都であるタカキまで約十陸里ほどある。

 このヨイリで二人は宿を取ることにした。

 宿はすぐに見つかったが、どうやら首都タカキが大きな被害を被っているため、そこに用事がある商人達の荷駄隊にだたいいくつかが足止めを食っていて結構混んでいる。さらには昨日、ヨイリからタカキの間で「山の者」の残党が出没し、タカキへ続く本街道ほんかいどうは通行止めとなっているとのことだった。

 したがって一人一人に部屋をあてがう事ができず、多くが相部屋あいべやとなっていた。モローとアマリも別々に部屋を確保できず、一部屋に押し込められることになった。農家の夫婦のような出で立ちであるためか、モローとアマリの他に泊まり客を入れられなかっただけましと思われた。

 同室をはにかみながらひそかに喜んだのはアマリである。宿屋近くの居酒屋で夕食を取り、宿に二人して戻った。アマリは自分の身体の匂いが気になり始めていた。

 二人の部屋はそれほど広くなく、そなえ付けの寝台も狭いものだった。夜に何かが起こることは確実だとアマリは期待した。それを考えるだけで身体が熱くなる。

 夕食を採り終え、宿の明かりが乏しい廊下を進むと自分達の部屋が見えてきた。部屋の扉を開け、モローを先に入れる為、後ろに下がったアマリだが、彼は部屋に入ろうとはしなかった。

「……どうしました」

「部屋はアマリ殿一人で使ってくれ、馬車が盗まれる恐れがあるので俺はそこで寝る」

 アマリにとっては落胆らくたんする言葉であった。それほど、自分に魅力がないのかと思ってしまう。

「私とでは、お嫌ですか」

 思わずアマリの口から本音が出た。それほどまでに、自分は駄目なのかとさえ思ってしまう。自分はまったく女として見てもらえていないのではないかと感じていた。

「何を言っている。嫌なはずがない」

「では、一緒に部屋を……」

「違う、どうも宿に泊まっている人間が気に食わない。良からぬ者がざっているようだ」

「なれば、私が馬車に」

「いや、これは俺がやらねばならないことだ。アマリ殿はゆっくり身体を休めてくれ」

「しかし……」

「良いのだ。ここで馬車がどうかなれば、この先の予定が狂う。万が一の措置そちだ」

 そう言い、モローはアマリの肩を掴み部屋の中に押し込んでいく。

 反射的に彼女は自分が想いもしない行動を取っていた。肩を掴まれたことを利用し、アマリは身体をモローに寄せ、彼の首に腕を回して唇を重ねた。身体が匂うのではないかと言う懸念は、唇が重なったことでの快感で消し飛んでいる。

「……分かって、……わたしは」

 一瞬唇を離し、擦れた声でアマリはそうささやいた。

「分かっている。俺も同じ気持ちだ。だが、今夜は止めておこう、そうなる機会は今後結構ある」

 二人の唾液が混ざり合い、唇を離すと糸が引いていた。陶然とうぜんとした気持ちの中、アマリはモローの言葉を聞いていた。今夜は我慢がまんだ、彼女はそう自分を納得させた。

 一人になったアマリは固い宿の寝台に腰を掛け、口づけとモローの言葉の余韻よいんひたっていた。モローと抱き合う、その時どうなるのか自分でも分からない。男は初めてではない、すでに知っている。騎士になるに際し、男を知らない事でおくれを取る訳には行かないと思い、アマリはつまらぬ男に身体を開いた。痛みと後悔、それだけだった。人の言う快感などは全くなかった。そのようなきざしの要素もない。男女の交わりは、彼女にとって無味乾燥むみかんそうで、ただ肌を合わせているだけのものだった。

 それがモローを知って、変わっていった。肌を重ねることが無駄なものから、モローとなら何か意味があることが起こるのではと思い始めていた。

(でも、なかなかそうならない)

 不完全燃焼ねんしょうのような身体からだを持て余し、アマリは再びモローとの口づけの感覚を呼び起こしては悶々もんもんとしていた。

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