第9話 モクレン
―ガラムの場合―
朝夕は
夏の終わりを間近にした季節だが、太陽が高く昇ると
ふと、見覚えのある人影が手に何かを下げてこちらに歩んでくるのを見つけた。長身で肩幅が広いその姿はガラムであった。
彼は腰に剣を
ガラムはモクレンとモローが
「モクレン殿、ここにお
ガラムは騎士らしくない満面の笑みを浮かべて近づいていた。
「暑いですな」
本当に暑いのか、モクレンを前にすると照れてしまうのか、ガラムは顔を
「ええ、本当に。今日はお休みですか」
「はい、久方ぶりに頂きまして、ご
少し
モクレンはクスクスと声を上げて笑った。何も無沙汰をしていたとしても、モローの勤める教練所には行かずに、こちらに来るという理由は一つしかない。彼女はガラムのその単純さと素直さを好ましく思った。
「いつも足をお
「いや、……ああ、お気になさらずに」
「ありがとうございます。嬉しい」
「いやいや、失礼だとは思っているのですが、……どうしてもお目にかかりたくて、まあ、こうして
ガラムはモクレンに「嬉しい」といった言葉をもらったことで舞い上がったのか、彼女に会いたくて訪ねてきたことを思わず話してしまい、自分でも気づいたのか「あっ」という顔をした。
「……でも、わたしが以前何をしていたのか、ガラム殿は知ってますよね」
自分が身体を売って生きてきたことを、ガラムに思い出させるよう、モクレンは静かに伝えた。
「知っています。だが、今のあなたには関係のない話だと、私は思うが」
「いいえ、関係ありますよ。そうして生きてきたこと、それは変えようもない事実ですから」
「いや、昔のことなどどうでも良い。私はモロー殿の娘としてここに居るあなたが気に入っているのだ」
ガラムの言葉にモクレンの心は柔らかくなり、救われた気持ちにもなる。だが、現実はそんなに甘くないだろうとも彼女は思うのだ。いつかこの事が
ガラムは「言ってしまおう」と小さく
「サフラン殿。あなたを愛している。初めて会った時からそうだ。……そして、あなたを妻として迎えたい」
そうガラムは一気に自分の想いを告げた。
モクレンはそう告げたガラムの顔を見上げるように見つめている。彼女の瞳が揺れていた。
「嬉しい」
「でも無理です。わたしを愛人として迎えるというのなら違うかもしれないけど、妻は無理です」
「サフラン殿、愛人ではない。わたしの妻になってほしいのだ」
「……」
モクレンは力なく首を横に振るだけで、視線をガラムから
「わたしが嫌いか、意にそぐわないか」
すがるようにガラムは身を屈めてモクレンの顔を覗き見ようとした。彼女はこの時も首を横に振ってみせた。
「わたしに任せてくれないか。サフラン殿を不幸にはさせぬ」
そう言って、ガラムは大きな手で細いモクレンの肩を掴んだ。
「このわたしとガラム様だけの問題ではありませんよ」
「殿下にもお
モクレンはそう告げるガラムの手に自分の手を重ねた。
「ガラム様、本当に嬉しいです。わたしも
そう告げ、モクレンはガラムの手から自分の手を放した。
「サフラン殿、わたしはだ、あなたを妻に迎えたいのだ。愛人になってくれと頼んでいるのではない。……わたしが嫌いか」
容易くモクレンの方に手を置いた事や告白は余りにも
「そうではありません」
「なら、なぜ、そんな事を言うのです」
「もう一度、良くお考え下さい。愛人ならばすぐにでもあなたの物になります」
モクレンの瞳に揺らぎが消えた。言っている内に腹が
一方でガラムの方は、モクレンが彼の「愛人」にはなると言った事が、自分を本当に嫌っている訳ではないことを確信した。
「ガラム様、
そうなだめる様に言い、近くにあった
彼女の取り出した
「その刀はサフラン殿の物だろうか」
「ええ、何故か子供の頃から持っているもので、これだけは手元に残ったのです」
そうモクレンは答えた。
「その刀は、かなりの
そんな刀を
「身体を売っていたただの女ですわ。叔父さんのお蔭で、そこから引っ張り上げてもらいましたけれど、そういう女だったことは変わりません」
四つに切り分け密集している種の部分を取り除くと赤い果肉の甘瓜の一切れをモクレンはガラムに差し出した。そして自分も一切れを手にし、草の上に腰を下ろした。ガラムより先に、甘瓜に口を付け「甘い」と彼に微笑みかけた。ガラムはそんなモクレンが、いじらしく、可愛く思えて仕方がなかった。
モクレンに
ウルバン王子といった
「わたしの考えは変わらない。必ずあなたを妻に迎える。だから、わたしを信じて欲しい」
彼はそう話すのと同時に、絶対にモクレンを自分の妻にすると告白した時よりも強く決意していた。
ガラムの横で彼の言葉を聞いていたモクレンは、やはりどこか覚めている。モクレンは人並みに幸せを得る事などはできないと思い続けているのだ。それに自分はモローと暮らせていれば、それで良いと彼女は思っている。
青い抜けるような青空に千切れたような綿雲が右から左へ流れていく。晩夏の暑い昼間である、辺りは鳥のさえずる声が聞こえていた。
―アマリの場合―
アマリの部屋からは薄曇りの空の下、王宮の
(どんな娘なのか)
自分より四つ年下の十七だと聞いているが、モローの歳が三十後半と思われるので、二十歳に成るかならないかでもうけた子という事になる。それが怪しい。
どうしても考えてしまうのは、彼の愛人、もしくは妻同様の存在だということだ。
アマリはサフランという娘に嫉妬と強い対抗心を持っている。「山の者」と
馬を進めたこの辺りは、森と丘、畑の広がる中に農家の屋根がちらほらと見えていて、アマリの勘では、モローの家は近いのではないかと感じていたが確証はない。馬車一台が通れるほどの細い道をさらに進む、豊富な澄んだ水が流れている小川を何本か越えたが、薄い雲が高く覆う景色は長閑なままでアマリは妙に落ち着かない気分になり始めていた。
畑には作業する農民の姿を見かけた、皆、
見事な
思わずアマリはその農婦に声を掛けた。
「これ、ちょっと道をお聞きしたい」
真っ黒に日焼けした農夫は、
「この辺りに、モロー殿という
とアマリはモローの住まいを
「……モロー、……ああ、サフランさんの
「そうか、助かった。どこにお住まいだ、教えてくれ」
農夫は「ええっとだな……」と呟きながら、ぐるりと周りを見渡した。
「あそこ見えるかね、あの背の高い木が何本か経つ脇に、屋根が見えるだろ。あそこが、サフランさんと
農夫が指し示す方向に、大きくはないが杉の樹皮を葺いた屋根と白い漆喰の壁でできた家が見えた。
「すまない、
会釈をし、懐の財布から銀貨を農夫に掴ませた。
「ああ、こりゃどうも」
と農夫は銀貨を握らせてきたアマリに
「こんなもん、貴方様の口に合わないかもしれねえが、わっしの気持ちだと思って受け取ってくだせえ」
「いや、済まぬ。
軽く
「今家に居るのはサフランさんだけじゃぞ、親父さんは朝早くタキへ行ったはず」
「ああ、分かってる。わたしはサフラン殿に用があるのだ」
そう答え、アマリはまだ道端に立っている農夫を残して道を馬と歩み始めた。
着いてみるとモローとサフランが住み暮らす家は、古ぼけて小さなものだが住みやすそうな家であった。家の裏側に大きな木が生えているため、晴れた日は屋根にほど良い具合に
馬の手綱を家の扉近くにある杭に
「はい」
と綺麗な声が応え、ぱたぱたと家の中から扉に近づてくる足音がした。
扉が開いた。平凡な容貌だが、日に焼けた肌が輝くようなサフランをアマリは初めて見た。長い毛質の良い髪を後ろで束ねただけで、辺りの農婦のような出で立ちだが
扉を挟んで互いを
「どちらさんでしょう」
サフランが綺麗な声でそう訊ねた。その声を改めて聞いたアマリは、女としては低い
「私、教練所でモロー殿と同じ助教を務めておりますアマリと申します」
「
「はい、この間の戦いでもご一緒させていただきました」
戦いを一緒に戦ったという部分を少し強調してアマリが答えたのだが、モクレンの方にはあまり響かなかったようだ。逆にモローを「叔父さん」とサフランが呼んだことにアマリはいぶかしんだ。
「ああ、そうですか」
モクレンはそう答え続けた。
「あの、叔父さんは教練所に出てますけど」
すこし首を傾げ気味にモクレンが言うと、アマリは一つ頷いた。
「ええ、存じてます。今日はあなたにお会いしたくて
何だか剣での
「そう。じゃあ、入ってくださいな。ちょうどご近所から頂いた
そうモクレンが言ったが、アマリは
(ものすごく苦いのじゃないか)
モクレンに導かれて家の
二人の住む家はアマリが暮らす屋敷のように広く
アマリは抱き続けてきた敵愾心が揺らぎそうになるのを感じた。彼女の思っていたサフラン像とは大きく違っているのを認めざるを得ない気分になる。
「すぐに用意ができるから、座っていてください」
身体からあふれ出す品とは違い、モクレンの言葉遣いは庶民のそれである。日に焼けて化粧気のない顔だが、吸い込まれそうな澄んだ瞳が平凡ともいえる彼女の
(この人が、モロー殿の娘で良かった。そうでなければ、わたしの喰い込む余地はなかったな)
アマリは武術に
「どうぞ」
モクレンが大麦と
「少し苦いから、このお菓子と一緒に飲んでみて。結構いけるよ」
そう笑みを浮かべながらモクレンは言い、遠慮がちのアマリに気を使い、自分から先に練り菓子を口に運んだ。
「かたじけない」
アマリは椀に入った薄い黄金色の茶を覗き込んだ。これはお茶と言うより、やはり
練り菓子を摘まみ口にアマリが運んだ。ざらりとした触感の後に、
「あっ、おいしい」
「でしょっ、あたし、叔父さんに会うまで、こんなお茶があるの知らなかったの。最初は苦くてしかたなかったんだけど、甘いものと一緒に飲むと美味いって教えてもらったの」
モクレンは朗らかな声でそう言った。
「叔父さんとは、モロー殿のことか」
「ええ、そう」
なんだ、どうしたのというような顔をしてモクレンは答えた。
「……あなたのお父様とは違うのか」
「違うよ。叔父さんはあたしを救い出してくれた人」
「では、……あなたはモロー殿の
胸が締め付けられそうな想いで、アマリはそう訊ねた。
「それも違うの。あたしが叔父さんの奥さんに成れる訳ないから」
「じゃあ、何だ。娘でも奥方でもないのに、なぜ、一緒に居る」
アマリの口調が
「なんでだろう。……今でも不思議なの、どうしてこんな安楽な生活を私にさせてくれるのだろうって」
そうモクレンは首を僅かに
「その、あなたとモロー殿は、愛人関係だとでもいうのか」
「違うと思う。出会った時は、叔父さんはあたしのお客だったから、あたしは叔父さんに抱かれたよ。それ一回だけ。こんなあたしを何故か
嫉妬と衝撃、それに伴う胸の苦しみでアマリの頭はふらついていた。モローと身体の関係もあったというサフランに対して、自分は勝てないかもしれないと思った。
(ならば、この場でこの人を斬ってしまおうか……)
その方が諦めは付く、このまま二人が
「騎士さんも分かっていると思うけど、叔父さんは何故か人を
そう言い、モクレンはゆっくりとお茶に口を付けた。「もしここで」とアマリは思った。もしここでサフランを斬ったのなら、わたしはモローの娘を殺した女になってしまう。恋敵を
「騎士さん。あたしはあなたが
不思議な人だとアマリはサフランを思った。自分と同じくらいモローが好きなはずなのに、彼女は女として求める地位を自ら降りているからだ。逆に言えば、それだけサフランはモローからの
「あなたも叔父さんが好きなんでしょ」
アマリは頷いてしまった。身に
「じゃあ、同志ね」
そう言い、モクレンは朗らかな笑みを浮かべた。それに
「お友達になりましょ。あたし、友達って持ったこと無いの」
この人は、何かを隠している。どんな過去を経てきたのだろう、そうアマリは思った。
前庭に待たせているアマリの馬が主人の不在を不安がり、彼女を呼んでいる声がする。
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