第8話 揺らぎ
モローを乗せた馬車は、サフランの待つ家に近づいていた。国境の西で激しい戦いがあった深夜である、昼間の霧のような雨はすで止み、
抱きはしなかったが、「戦勝の食」の準備が整う短い間にアマリの唇を奪っていた。それを待っていたのであろう、アマリは積極的にモローの口づけに応えたので、危うくその場に押し倒しかけたのだが、折り悪く離宮の
高くこんもりとした木立の下にある我が家が見えてきた。家の窓からは明かりがこぼれていて、サフランはまだ起きているようだ。ゆっくりと馬車を前庭に乗り入れさせた。
馬車が止まる前に、家の扉が勢いよく開き、家の明かりを背景にサフランの影が現れた。彼女は声も出さず駆け寄ると御者台を降りて来たモローに飛びつくような勢いで抱き付いた。
「良かった……」
泣いているのか笑っているのかが判別できない声でサフランはモローの首に腕を回し、両足を彼の腰に巻き付けてきた。
モローは暖かいサフランの身体とその声を感じ、暖かい
「すまん、すまん」
そうモローはサフランを抱き付かせたまま、その身体を二度三度、くるくると振り回した。
「本当よ、おじさん、もう会えないって何度も思ったの」
耳元で囁くようなサフランの声が心地よかった。
「分かった、分かった。こうして帰ってきたではないか」
まだ抱き付いていたそうなサフランを降ろすと、ポンポンといつものように彼女の頭を叩き、笑って見せた。するとサフランもとびっきりの泣き笑いの顔を見せてくれた。
「……お帰りなさい」
「うん、今帰った」
この娘といると、どうしてこう心が柔らかくなるのだろうとモローは思いながら、二人をじっと見つめている馬に顔を向けた。
「さっ、こいつも疲れている、休ませてやらんと」
馬は久しぶりにサフランに会えたのを喜んでいるらしく、
馬は盛んにサフランの服の匂いを
その夜のサフランはモローから片時も離れたくないらしく、とうとうモローの
「だめだぞ」
とモローがたしなめた。
「分かってる。一緒に居るだけ……」
薄い
「家にこうして一緒に居るではないか」
「それはそうだけど、叔父さんをこの手で触れていたいの」
サフランはそう答えた。
「狭いし、こちらは
「平気……」
それほど広くないモローの寝台の上に二人で横になると、サフランは額を彼の肩に預け、ぴたりと身体を寄せてきた。
モローと共に暮らし始め、サフランはそういった日常がとても新鮮で、夢にも
夜が明けるとともに起き、モローの食事の用意をし、彼を送り出すと家の
何も
だからこうしてモローと一緒に寝る事は、父親がすぐ横にいる安堵感と喜びとなり、それは
(あたしは、モクレンという名を持っている。気持ちだけは
彼女はそう決めた。
―モクレンを取り巻く者達―
思い思いに教練の終わった子供達が帰っていくのを見送り、モローは最後まで残っていた
やがて、ガラムと同じような雰囲気を持つ護衛の騎士が皇太子の息子を迎えに来て、騎士は彼の腕を
「アダカ殿下は帰られましたか」
教練所の門までアダカを見送りに出ていたモローに教練所の
「何か、ついていますか」
わずかに顔を染めたアマリはまるで
「いや」
彼女から視線を外し、自分の気持ちを落ち着かせるためか、少し
「今日はまた、いつもと違った出で立ちですな」
「……たまには、……これでも女でありますので」
身に着けている服がいつもと違うことに気づいてくれたことが嬉しいらしく、少し
「誰かの
「いいえ」
アマリの返事はつんけんした調子が含まれている。
「なかなか、良いですな」
「山の者」との戦いでは互いに
生き死にのやり取りをしている
「……どう、良いのです」
「大変、美しい」
そう答えたモローに、アマリは嬉しさのあまり笑いだしてしまった。
「ありがとう」
「それよりも、傷の
モローは照れたように話題を変えてきた。
「それよりもですか……」
アマリが騎士らしくなく少し
「あ、いや、怪我の具合が気になりまして」
「御心配には
そうアマリは答えたが、「激しく動かなければ」と言ってしまった自分の言葉に、別の意味が含まれていることに気づき、さっと顔を赤らめる。
「もう一緒に湯に入れましてよ」
この機会にしかないとでも言うように、彼女は声を落とし早口でそう囁いた。離宮での約束を、アマリは忘れていないし、できればその約束を
教練所正門の内側で立ち話をしている二人の脇を教練所の人間が何人か
「さて、わたしは失礼しようかな」
モローはアマリの言葉は聞かなかった
「モロー殿は、これからどうされるのです」
「家に戻る前に、
「……市場へ、ですか」
「
そう答えたモローを、彼女は意外だというように見つめてきた。
「
何か含みがありそうな言葉だった。
「左様、待っている」
「では、お気を付けて」
なぜか自分が
「ああ、アマリ殿、良ければ一緒に市場に行きませんかな」
彼女にモローがそう声をかけた。
「はい、参りましょう」
その言葉を待っていたかのような即答だった。そしてアマリは王国騎士らしくない満面の笑みを浮かべた。
オスダの王都に開かれる市場は朝市と夕市があり、周囲の大国に比べれば規模は小さいものの、出店する店の種類や
モローとアマリは小さな露店が
モローは露店と人とでごった返す中を泳ぐように進み、まず肉屋で豚の
アマリはモローの別の一面を見た気がした。彼は貴族階級の
(
サフランと言うモローの娘に、アマリは嫉妬し、
(なんと、あさましい人間に成り下がったものだ)
そう自分の心を
芋と小麦の
背後の露店は、女性向けの飾り物、主に庶民を対象とした飾り物を売っている店であった。
貴族の娘であるのだから、その手の
アマリは輝くような色を放つ鳥の羽で花の形にあしらった耳飾りに目をやっていた。
「何か気になる物がありますかな」
練り物屋で買い物を終えたモローが飾り物を眺めていたアマリの横に立っていた。
「あっ、いえ」
彼女は慌ててその場を離れようとしたのを、モローが止めた。
「綺麗な
モローは耳飾りとアマリを
「ええ、本当に」
アマリの心臓の鼓動が跳ね上がった。何故かモローが自分の
モローはもう一度、彼女と耳飾りを見比べ、そして
「いろいろ世話になっている、ちょっとしたお礼です。受け取っては頂けぬか」
モローは銀貨一枚と銅銭五枚を店員の
「いけませぬ、そんなことして貰っては。わたし、受け取れません」
男性から物を貰ったのも初めてで、それも
「いや、とりあえずの
そう無理やりモローはアマリの手に買い求めた耳飾りを押し付けた。
「……本当に良いのですか。……
手渡された薄紫の耳飾りに惹きつけられながら、何んとかそう言った。
「あれにはこの前買ったので、お気になさらずに」
「本当に……」
「本当に」
モローは顔を染めているアマリに軽く笑って見せた。
「……今着けても、よろしいか」
とアマリは泣きたくなるほど嬉しいのを堪えてそう訊ねる。
「もちろん」
アマリはその同意が消えない内にとでも言うかの様に、慌て気味に耳飾りを両の耳に着けた。モローがくれた耳飾りは木製の細い軸を
飾りを着けたアマリを見て、モローは「ほう」という表情を浮かべた。
「良く
「……この、男のような女に……ですか」
そうアマリはいつも男のような出で立ちをしている自分を
「アマリ殿をそう思った事はないが」
モローが「何を言っている」とでも言うように答えた。
「ありがとう」
アマリはモローからそう言われ、素直に嬉しかったし、彼の娘に嫉妬を覚えてしまった自分を恥じた。
「いつも自分を
「そうですか。お礼はともかく、モロー殿を
二人は人の流れに身を
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