第5話 「山の者」

 十日前、ナウカワ公国の首都タカキが、突如とつじょ北西から現れた千を超える「山の者」に襲われ、ほぼ全壊ぜんかいする被害を受けた。ナウカワ公国がさきに見つけた洞窟を通って、「山の者」はナウカワ公国に侵入したと思われた。

 洞窟が発見された当初から、その出口がエグに通じていることをナウカウ公国は知っていたようだ。発見当時、ナウカワ公爵は大掛おおがかかりな探索たんさく部隊を複数送り込んだのだが、誰一人戻らず消息を絶ってしまっている。

 そのことでエグには魔物である「山の者」が生息していると言われていたのが、真実であることを証明する事となり、ナウカワ公国はエグと続く洞窟をそのままにしている事の危険性を認めていた。

 だが、未統治であるエグへの領地拡大や資源の探索を優先させたがために、度重たびかさなるナウカウ公国からの侵入は、「山の者」自体に洞窟を抜けるとアマツという餌場えさばがあることに気付かせてしまったようだ。

 「山の者」の生態は良く分かっていない。その存在は知られていたものの、洞窟発見前まではアマツに現れた個体が少なかったからである。

 彼らは人の姿に似ており、非常に力が強く残虐で人を捕食ほしょくする習性を持っている。

 また、生殖せいしょく能力は無いと思われているが、これだけの数がアマツのナウカウ公国領に侵入してきた事を考えると、何らかの生殖形態せいしょくけいたいがあると思われた。

 タカキに侵入した「山の者」は街の人々を殺戮さつりくしつつ王宮に迫り、一気に宮殿などの主要施設を破壊した。特にその際に、国の王であるナウカワ公爵や国中枢ちゅうすうの官僚の多くは混乱の中で「山の者」に襲われ、無残むざんな死をげてしまったことから、軍および国の指揮系統しきけいとう支障ししょうがでていた。

 指揮系統を失った軍は、それでも首都であるタカキから「山の者」を押し出すことは成功したが、それらを追撃ついげきする兵を失ってしまったため、それ以上「山の者」を掃討そうとうすることは出来なかった。

 ナウカウ公国軍はタカキを再び侵入してこないよう「山の者」から守りを固めるしかなかったのである。

 呂之国のシュリ女王がナウカワ公国での異変を耳にしたのは、「山の者」がタカキに侵入した翌日だった。

 「山の者」に襲撃され、弟であるナウカワ公爵が殺害されたことを受け、シュリは救援部隊きゅうえんぶたい急遽派遣きゅうきょはけんしたが、「山の者」の集団は次の得物えものを求めて移動してしていた。

 彼らは、タカキ周辺の街、集落を襲い、そして南下していった。その方向には亥之国とオスダ王国があった。

 「山の者」の進行が呂之国ではなく、オスダ王国、亥之国がある南だという報告を受け、シュリはホッと胸を撫で下ろしていた。

 だが、自分の弟であるナウカワを統治者とうちしゃとして送り込み、傀儡国かいらいこくとしてきたナウカワ公国の屋台骨やたいぼねが、弟のナウカワの死とタカキの甚大じんだいな被害と共にくずれたことは大きかった。

 呂之国の宰相さいしょうであるコズミがいつもよりさらに陰鬱な表情のまま、シュリの執務室で「山の者」が通り過ぎたナウカワの状況を報告しにきた。

 報告を聞きながら、シュリは執務室から望む庭園の鮮やかな花の色に目をやっていた。彼女が花や庭に気をかれる事は珍しいことで、コズミはよほど弟であるナウカワ公爵の死が女王にはこたえているのだろうと思っていた。

「陛下」

 一通りの状況説明を終え、シュリにコズミが声をかけると、彼女は視線をこちらに戻し、コズミを厳しい視線で見つめた。

「被害が大きいタカキですが、まだ遺体いたいの処理が終わっておらず、復旧ふっきゅうにはかなりの日数をようすると存じます。……それより、王の不在が問題となってまいりました」

「というと……」

「公爵の側近の一人であるコウリという者がおるのですが、その者が公爵の跡をごうと画策かくさくしているようです」

「コウリという者はどんな人物だ。こちらから送った人物ではないな」

 シュリの美しい容貌ようぼうが、雲間くもまから差しこむ日の光を受けている。

「切れ者とは聞いておりますが、この事態の発端とされております洞窟探査の命はコウリと公爵の二人で発令したもので、特にコウリは洞窟の先にあるエグの一部を自国領土に組み入れたいと公爵に申し上げたと聞いております」

「ふむ、ナウカワの者なら、山の向こうに何が居ると言うことは薄々知っておったのであろう」

「左様です。元々はナカツノ国の官僚として務めておりますので、時折、山を越えて現れる者のことを知らない筈がございません。にも関わらず、洞窟の向こうの探索を具申ぐしんしております。で、本人は『山の者』襲撃時、別の都市に出張と称して滞在いたしており、そのため、公爵殿下でんかの側近が一掃いっそうされた中で一人生き残るという幸運を得ております。が、一部では『山の者』の出現を知り、密かに避難したのだともうわされましております」

「その者はこれを知った上での避難ということか」

 シュリの目が、きらりと光った。

「そう考えざるを得ませぬ。エグのことは、まずコウリに情報が届きますので」

「つまりは、弟の死はその者の遠回とおまわしな謀略ぼうりゃくだと」

「……そこまでは、ただ、漁夫ぎょふを狙ったとも考えられます」

 シュリは暫く黙っていたが、やがて口を開いた。

「国防大臣に伝えよ。コウリと申す者の監視を強め、もし謀略がまことなれば捕縛ほばくもしくは斬れ。それと、『山の者』の動向監視も続けよ。今回はこちらに向かってこなかったから良かったものの、奴らが向かった先のオスダ、亥之国の動きが知りたい」

 一気に命令を下せるのがシュリの特徴である。

 そうかといって亡くなった公爵の跡を誰に引き継ぐかであるが、残念ながら良い案が、今のシュリには思い浮かばなかった。

(いっそのこと、自分がナウカワの王も務めようか)

 とさえ思っていた。これがもっとも現実的である。ナウカワ公国が呂之国の完全なる属国ぞっこくであるのは周知しゅうちの事実なのだ。

 彼女はナウカウの事態とは少し違う点で大きな心配事がある。モローがオスダに滞在していることである。彼からは定時連絡として極秘の飛脚ひきゃくが直接シュリの許へ手紙が届く。彼女はそれが待ち遠しくて仕方がない。

 彼の事であるので大丈夫だと理性では思っているが、万が一ということがある。わが国に避難せよと伝えたいが、その気にならなければモローは動かないということもシュリは承知していた。

 彼と最後に会ってから、もう一年が過ぎようとしていた。モローが何故、オスダに長く留まっているのか心穏やかではない。

 だが、このサフランがナカツノ国国王の娘モクレンだと言うことを彼女は知らない。国王夫婦を殺害したものの、モクレンをどうしたのかを、彼は報告しなかった。ただ、この十年以上、モクレンの動静どうせいや噂などを聞いた事はない。恐らく死んだものと思われている。

 モローと会う度、冷酷な殺人者とは正反対な面も彼が併せ持っている事はシュリは分かってきた。その落差がシュリには魅力と感じる。そこから導き出される推測は、クド国王夫妻の娘をモローは殺さなかったのではないかであった。

 それならそれで良いとシュリは思っている。


 話に出たコウリという官僚が捕縛され死刑にしょせられたのは、これから二週間後であった。


 ―西の草原から―

 モローはその日も教練所で子供相手に武術の基礎を教えていた。

 最近は暑い日が続いている。その日も地面をがすほどの日照ひでりで、窓を開け放ち、風の通りを良くしている道場でも、子供達は汗まみれになってモローの指導を受けていた。

 ようやく午前の稽古が終わり、これから家や屋敷に戻って昼食を採る子供達の挨拶あいさつを背中で聞きながら、狭く細長い造りをした助教控ひかしょに入りサフランが持たせてくれた弁当を開けた。

 モローが控え処に戻ってくるのを見ていたのであろう、アマリが彼の隣に腰を降ろした。

 黄色に染められた騎士の教導服きょうどうふくを身に着け、相変わらず短く切った薄茶色の髪とそばかすの浮いた化粧気けしょうけのない顔だったが、やはり生い立ちがそうさせるのか、およそ女性らしい出で立ちではないのに上品さが見え隠れしている。

 彼女は少し遠慮がちに、モローが弁当の包みを解くのを見つめていた。

「お聞きになりましたか」

 そうアマリは訊ねた。モローは細い竹ひごで編んだ弁当箱のふたを開けながら彼女を見つめた。

「何をです」

「ナウカワを壊滅させた山の者の集団が国境に入り込もうとしたことをです」

ですか」

 「山の者」は、オスダの国境と接するエナ平原に現れたというのだ。

「第一騎士団に大きな被害がでたそうです。そのため、亥之国側を警備している第二騎士団が討伐とうばつに当たることになりました」

 アマリはそう力んだように言い、唇を何故なぜくやし気に固く引きむすんでみせた。

「第二騎士団というと、アマリ殿が所属する騎士団ですな」

「そうなのですが、わたしは山の者討伐に選ばれなかった。女であるから、らしいです」

 アマリは選ばれなかった事が余程よほど納得できなかったようである。女であるから、という部分を語調を荒げて答えた。いや違うだろう、アマリが地位の高い貴族の娘だからだろうとモローは思っていた。

 聞くところによると、彼女はオスダ王の弟に当たる、マシエ侯爵の娘だという話だ。

「それは残念でしたな」

 と、モローがあまり気の乗らなそうな口調で答えたのだが、アマリはその事に気付かない程に、選に漏れたことにどうしても納得がいかないようだった。

「まったくです。さらにですよ、ここの助教達も選ばれるようです。先ほどウルバン王子が参られて所長と話し合っていると聞きます」

「ほう、王子自らですか。騎士がよほどにひっ迫してしまったのですかな。ならば、あなたを選ばぬ手はない」

 珍しくモローは追従つじゅうのような言葉を発した。この憤懣ふんまんやるかたないような顔をしている女騎士が少し可哀想に思えたのである。

「そうだと、良いのですが……」

 少し嬉しそうにアマリが答えたのだが、そのお追従によって、この状況で何になると気づいてしまったようだ。

「何しろ、女ですから。わたしは……、はあ、なぜ、女に生まれたかな」

 そう言うアマリは、中々モローにサフラン手製の弁当を使わせてくれない。

 今日の弁当は高級鹿肉を少し厚めに塩焼きし、小麦を練って成形し窯で焼き上げたものに挟んだ主食と、先日訪ねて来たという騎士が、甘瓜のお返しだと持ってきたという紅苺べにいちご色添いろぞえとして入れてくれてあった。

「自分でもわたしは、任官したての騎士よりは剣が使えると思っているのですが」

 再びアマリはモローに同意を求めてきた。

 そうですなとしかモローは答えようがない。

 確かにアマリの剣捌きは中々の物であることは理解していたが、訓練と実戦は違うと言うことを彼は知り尽くしている。

「第二騎士団が第一騎士団と同じような目には遭わないという保証はありません。そうなった時に、アマリ殿の力が……」

 そう言い終わる前に、所長の付き人が控え処に現れると、ジソマ所長がモローを呼んでいると告げにきた。

「……なんでしょう。所長の所と言うと、まだ王子がいらっしゃる筈ですが」

「まあ。大した用事ではないでしょう」

 立ち上がったモローは、ちらりと手を着けていない弁当を残念そうに目を落としながらそう言った。アマリは好奇に満ちた瞳を彼に向けている。その視線を受けながらモローは付き人と共に控え処を出ていった。

 所長室は道場を除いた教練所の部屋ではもっとも広くできている。相変わらずきちんと整頓され、窓から強い日差しが差し込む中、所長であるジソマは自分の執務机しつむづくえには着いておらず、広い机の脇に直立不動で立っていた。そして所長の代わりに机には、どこかで会った覚えのある長髪の若い男が納まっている。入ってきた扉の脇にはガラムが控えていた。

 入室してきたモローに、ジソマは目を向けた。

「ウルバン殿下である。モロー、そこになおれ」

 ジソマがそう言ったが、モローは王族に対する礼義と言われている片膝を着いてて額ずくことはせず、頭を下げただけであった。

「モロー、なおれと言ったはずだ」

 とジソマがモローをとがめた。

「ああ、よい。そのまま、そのまま。モローだな」

 ウルバンはジソマにそう告げ、興味深げに長身のモローを見上げた。良く通る声でもあった。

「はっ」

「ウルバンだ。……俺を覚えているようだな」

 とウルバンが尋ねた。

「はっ、いつぞや、道場の外でお会いしました。……あちらの方とご一緒だったはず」

 所長室の扉脇に立っているガラムの巨躯をちらりと見て、モローはそう答えた。盗賊崩れの四人組が教練所に押し掛けてきた時を指していた。

「ほう、流石さすがだな。良く周囲をみている」

 ウルバンがそう言うのを、モローは黙って聞いていた。

「なら、話は早い。国の第一騎士団がやられたのは聞いておろう」

「つい先ほど耳にいたしました」

「今、第二騎士団を中心に編成をし直し、国境に向かわせた」

 そう言い、ウルバンは表情を引き締めた。

「第一騎士団は国の主力。兵員も多い。それを失った形だ。再編成するには時間がかかる。向かわせた第二騎士団は戦力的にかなり劣っているというのが正直な話だ」

 何を言いたいのだとモローは思っていた。オスダ王国の兵員が少ないなど、知ったことではないのだ。

「お前の力が借りたい。いや、貸せ」

「お待ちください。私の力など、騎士団に比べれば取るに足らないものです」

 そうモローが答えた。

「いいや、俺は知ってるぞ。ここではわざと腕前うでまえを見せていないのだろう。本来ならば、騎士二十人、三十人ほどの力量があるはずだ。のう、ジソマ。お前もそう見ておるな」

 とウルバンはジソマに話を振った。

「はっ。この国で彼にする者は少のうございます」

 ジソマはかしこまって答えた。

「なっ、モロー聞いたであろう。今、王国は人手不足だ、どうしてもお前が欲しい。俺に策がある、そのためにはお前が必要なのだ。それにお前のサフランという娘も知っておる。あの娘をいつまであんな家に閉じ込めておくつもりだ。お前たちの住まいはこのタカで俺が見つけてやる、そこから娘を嫁にでも出すが良い。幸い、サフランに想いを寄せておる者もいると聞いたぞ」

 悪戯いたずらめいた色をたたえた瞳を、扉の脇で控えているガラムにウルバンは向けた。まるで、モローが加わるのは決まっているというような口ぶりであった。

(そうか、あの果物はウルバンが手を回したか)

 とモローは思った。となると、サフランが言っていた二人の内一人はウルバンだったと考えられた。  

 さっさと、この国から逃げ出すかとモローは思案し始めていていたのだが、急に所長室の扉が開いた。つかつかとアマリが入室してきた。どうやら部屋の外で聞き耳を立てていたらしい。

 彼女は入ってくるや、モローの横まで進み、片膝を立てて額ずき「殿下、本日もおすこやかで」と神妙しんみょうな声で述べた。

「アマリではないか。いかがいたした」

 ウルバンの声が親し気な色合いに変わった。二人は顔見知りのようだった。

「外でお話をうかがいました。私も殿下の指揮する部隊に加わりとうございます」

「ほう、モローと共に働きたいと、それにお前が聞き耳を立てるなど珍しいではないか」

 軽やかに声を上げてウルバンが笑った。アマリの顔に、「あっ」という表情が浮かんだ。

「はあ……はい」

 どうやらアマリは自分を騎士として加わらせてほしいという意味で直談判じかだんぱんをしにきたようである。それが、モローと共にというウルバンの言葉に慌てながらも、そう返答をしてしまった。

「俺が考えている策は、危険だぞ」

 アマリを覗き込むようにウルバンが言った。

「殿下の意のままに」

 もはやそう答えるしかアマリにはないようだった。何をさせられるのだろうという不安が彼女から現れている。

あわて者なのだな)

 とモローは目を白黒させている、細身のアマリを見つめた。

「どうだ、両名。力を貸してはくれぬか」

 ウルバンは二人が断ることなど、つゆとも思っていない。そしてアマリはともかく、モローも断りづらい気持ちになっている。

 持って生まれたものであろうが、呂之国の女王であるシュリと同じく、かたわらにいるだけで人を魅了みりょうする何かをウルバンも持っているようだ。

「はっ、命に代えましても」

 とアマリは力みかえって大げさな言葉を発した。


 ―前夜―

 サフランの待つ家にモローが戻ったのは、まだ日の高い頃だった。前庭に足を踏み入れ、そのまま馬車が収まっている納屋兼馬小屋なやけんうまごやに向かった。

 モローが来たことを知った馬が、嬉しそうに何度も首を縦に振り、高くいななくので軽く首を叩いてやり、彼は馬車の荷台に昇った。

 五カ月近く馬車を動かしていないのでその点検も兼ねて、サフランを伴ってタカの街まで馬車ででかけようと思ったのだ。馬車の荷台は綺麗に片付いているし、車輪や車軸周りも問題なさそうである。馬車をく馬の世話もサフランが一手に引き受けてくれており、健康状態も良好のようだ。

 モローは一通り見終わると、今一度荷台に昇り、後輪の車軸しゃじく受けあたりの床板を剥がし、中を覗き込んだ。そこには透明な布に覆われた大きな黒い矢筒のような物が納まっている。

 この黒い矢筒と同じように厳重に封をしてある剣とは違う角ばった包みがもう二つあった。そして、不思議な文字が記され金属でできた深い緑色に塗装された箱も、それらの奥に見える。

 それを確認したモローは床板を元に戻し、荷台から降り納屋を出た。彼が帰ってきたことに気付いたのであろう、サフランが母屋の前に立ち、モローに微笑みかけている。

「お帰りなさい。今日は早いんだ」

 と薄桃色の服に前掛けをしたサフランが嬉しそうに訊ねた。モローはそれには答えず、通り過ぎがてら彼女の腕に軽く触れ、母屋に入っていった。

 今日はなんか違う、モローはとても機嫌が良いみたいだと感じ、サフランはねるように彼の後を追った。

「まだ早いから、湯の用意してないし、夕飯の用意もまだだよ」

 モローに続いて母屋に入ってきたサフランが言った。

「うん、まあいい。それより久しぶりだ、街の飯屋で夕食を採ろう」

「嘘っ……」

 サフランが喜色満面きしょくまんめんの色を浮かべ、モローを見上げてきた。

「何が嘘だ。行くぞ」

 と入ってきたばかりの母屋から出ようとするので、サフランはあわてた。

「ちょっと待って。こんなりじゃ、恥ずかしい。着替えてくる」

 そう叫ぶように言うと、サフランはモローの返事も待たず、自分の部屋に駆け込んでいった。

 街に来てひと月立ったころ、モローはサフランを街に連れ出し、遠慮する彼女を女性服専門の仕立したて屋をおとなっている。そこで、彼女の普段着や外着などを一通り注文したのだが、サフランは一度も「もったいないから」とその服に袖を通さず、箪笥に仕舞われたままである筈だ。その服を初めて着てくれるのかなとモローは思った。

 サフランの部屋の中で、ばたばたと動き回る気配が盛んにし、そして悲痛なうめき声が漏れてきた。

「どうした」

 聞いた事のない声だったので思わずモローは問いかけてしまった。

「……最悪、太ったみたい。……服が、ちょっときつい」

 サフランは小さな声でそう答えてきた。

「フフ、どれ、見せてみろ」

 とドア越しにモローが笑った。

「……笑ってる。笑ってるでしょ」

「いや、笑っていない」

 そう言い、モローは急いで笑みを引っ込めた。

「本当に笑わない」

「ああ、笑わない」

 そんなやり取りが数度あり、おずおずと顔を染めたサフランが扉から現れた。

「……なんだ」

「何だって、何」

 と彼女は顔をさらに赤くしている。

「変わらんぞ、以前と。まあ、なんだ、胸の所が、うん、少し張っているかな」

 仕立て屋で仕立ててもらった外着を選んだサフランの姿は相変わらず均整が取れているが、胸の所が少し強調されているように見えた。そういった服ではなかったのだが、ツンと突き出た胸が衣装の意味合いを代えてしまいそうである。

「でしょ、ああ、太っちゃった」

「そんなことはない、大丈夫だ。俺から見ても、淑女しゅくじょに見える」

 といい加減な事を言ってしまったが、サフランはモローに「大丈夫だ」と言われた事で、「それなら良い、変だと言われたらどうしようかと思った」とホッとしている。

「さあ、行くぞ」

 といつもより増して魅力があふれているサフランに背を向けた。

「あっ、帽子被かぶってくる」

 そう言い、サフランは自室に駆け戻っていった。夜の女をしていた頃の影は、表面上消えたようだなとモローは思った。


 王都の中心まで半分ほど進んだ時、モローはサフランに暫く留守をすると告げた。

 緑豊かで緩やかな起伏を繰り返す田舎道の先に城壁が見え、あたりは茜色あかねいろに染まった空と深い藍色あいいろと変わった木々の影とが際立って見えた。のどかな夏の夕刻で、西の国境に脅威が迫っているなど見えない。だが、一度国境線が崩れれば、あたりは山の者に蹂躙じゅうりんされてしまうかもしれなかった。

「どこへ行くの」

 なぜかサフランの返答には、それを覚悟していたような響きがあった。一人置いて行かれると思ったのかもしれない。

「西の国境だ。済めば戻ってくる」

「……西の国境、どうして」

 サフランの言葉には、まだ警戒感が残っている。

「聞いてないか、西の国境に『山の者』が現れた。大きな集団らしくてな、国は苦戦しているようだ。そこで俺に討伐軍に加われとめいがきた」

「討伐に、叔父さんが」

「そうだ」

「どうして、そりゃあ教練所で教えているくらいだから叔父さんは強いと思うけど……」

 モローはサフランの食い入るような視線を感じた。「行かないでくれ」と視線は言っているようだ。

一宿一飯いっしゅくいっぱん恩義おんぎだろうな。恩を返せということだ」

「嫌よっ」

 とサフランは叫んだ。

「……嫌っ、相手は『山の者』でしょ。叔父さん、死んじゃうかもしれないよ」

 手綱を持つモローにサフランがしがみついてきた。モローは馬車を曳く馬の背を見つめ、布地を通して熱く柔らかなサフランの肌を感じていた。

「死にはしない」

「……だから、今日、外で食事をしようと言ったのね」

「急に決まったからな、お前と外に出掛けたくなったんだ」

 そうモローが答えると、サフランは諦めたように肩を若干じゃっかん落とし、被っていた花をあしらった帽子の鍔が折れるのも構わず、彼の肩に頭を預けてきた。

「……死んじゃ、嫌よ。お願いだから」

 肩に頭を預けたまま、サフランはそう言った。

「ああ、死なないよ」

 サフランが自分を見上げている。

 城門が近づいていた。

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