第2話 再会

 ―発見―

 姉の画策かくさくでナカツノ国の王夫妻が殺害され、同国に送り込まれた弟のナウカワ公爵が最初に行ったことは、クド王に近い人間をすべて排除はいじょすることからだった。

 その手段は苛烈かれつきわめ、そうするように仕向けた姉である呂之国国王のシュリも眉をひそめるほどの残虐さであった。

 毎日のように前王と近い王族、貴族、親戚、そしてクド王を支持していた者たちが処刑され、王都であるタカキの街角々まちかどかどさらされ、新王であるナウカワにそむけば同じような目に遭うことを国民に見せしめたのである。

 宮中の不安材料を排除したナウカワ公爵は鉱業でうるおっている国力と富をさらに増やすために、未探索地みたんさくちが多い北西の山脈地帯に目を付けた。峻険しゅんけんな峰々が連なる山の中ほどまで鉱物を探査する山師やましの集団を多数派遣し、鉱物の有り無しを調査し始めた。

 そうする内に幾つかの新たな鉱脈こうみゃくが発見され、三カ所の有望な鉱脈が鉱山として稼働を開始したのである。新しい鉱山はそれなりの収入を国にもたらし始めたが、ナウカウ公爵は納得していなかった。

 王にき十二年後、各所に派遣されていた山師たちの一つが山をつらぬく洞窟を発見した。入り口は土砂でほとんどをおおわれていたものの、わずかな隙間を見つけた山師たちは、洞窟の探査を開始した。

 入ってみると洞窟内は広く、長大なものであった。暫くは真っすぐに延びていた洞内は、やがで小さく左に折れたが、すぐさま直線に戻る。そこからはどこまでも奥へと延び続けていた。

 洞窟の形は見たこと無いような筒状で、硬質で滑らかな人工の石で壁は組み上げられており、びて朽ちかけてはいるものの等間隔に並んだ四本ある鉄製の軌道が続いていることにも山師たちは驚愕した。

 何かが洞窟を通っていたのではないかと思われた。

 奥へと進んだところでさらに思わぬものを発見した。巨大な金属製の人工物が横転したように洞窟をふさぎかけていた。そして、その人工物の周りには二百体を超える人骨が累々るいるいと散らばっていたのである。

 白骨の数十体はまだ衣装を身に着けていた。衣装はちてはいるものの、僅かながら残っており、これら夥しい白骨が身に纏っていた衣装は、これまで見た事のない物であった。また、白骨の多くは黒く四角い札状の板を持っていた。山師たちは、それを何かの通行手形ではないかと思った。

 新しい洞窟の発見の知らせを受け、ナウカワ公爵は本格的な洞窟探査の命を発した。

 その洞窟は「やまもの」という魔物が古くから住むといわれるエグと呼ばれる地域に繋がっているのではないかと思われた。洞窟をふさいでいた人工物を乗り越え、何者かは分からぬ人骨を処理しないまま、さらに奥へと探査は続いた。

 どうやら鉱物は発見できなさそうであったが、長い長い洞窟の先に僅かな明かりを見つけた山師たちと同じく洞窟調査に派遣された公国軍の先遣部隊は我先にエグと呼ばれる土地に足を踏み出した。

 それが誤りであったことを、ナウカワ公国は後日嫌というほど思い知ることになる。

 ナウカワ公国が送り込んだ探索部隊は二度と国に戻ってはこなかった。そして、探索部隊が戻らなかった代わりに、血に飢えた「山の者」がナカツに侵入するようになったのである。


 ―殺しの余韻―

 巨大な灰色の馬であった。

 足は太く、胴体も大きい。その馬は、モローの武器や家財道具を仕舞しまった幌付ほろつきの馬車を、ゆっくりとだが力強く着実に引いている。

 馬車はナウカワ公国と亥之国を繋ぐ街道ではなく、山賊が跋扈ばっこする山側の丘陵きゅうりょう地帯を進んでいた。

 今居る所より東側を通る街道沿いには、小国のオスダ王国があり、このオスダ王国の街道と重なる国境は番所ばんしょがあって、街道を通る人に目を光らせている。

 それがうるさいのでモローは山賊が住みひそむエナ平原を通っているのだ。

 うねうねとした丘陵が続く土地だが、草原と森が延々と重なっており、治安も悪いためか人家は見当たらない。

 モローが進む西側は山脈が横たわっていて、季節は晩春ばんしゅんとなっていたが、山の頂きにはまだ雪が乗っている。そんな山々が春霞はるがすみで淡い藍色あいいろに見えた。

 三十を超えたモローは殺しの稼業かぎょうからはしばらく手を退くようにしており、故郷のハンからは要人ようじん警護や屋敷の警護などの任務を時折与えられ、アマツ内を動き回っている。

 十三年前に遂行すいこうしたナカツノ国王夫妻暗殺を含め、三十になるまでで行った殺しの仕事は十数件であった。腕は落ちてはいないと思うものの、歳をるに従い血生臭ちなまぐさい仕事に対し、心情的しんじょうてきに拒否感が出始めていた。

 ガタガタとした荒れた道を進み、丘と丘の谷間で馬の休憩場所を見つけ、馬車を停めた。馬は疲れた様子は見せていないが、喉が渇いたのか泡をくつわはしに浮かべている。

「喉が渇いたか」

 モローは汗をかいた馬の首を軽く叩いてやりながらそう話しかけた。

 巨大な馬は優し気な瞳でモローを見つめ、叩いてくれた事が嬉しいのか、首を小さく上下させ、大きく鼻を鳴らした。

 馬車から馬を外してやり、近くに流れる小川まで馬を連れて行った。んだ流れの中で、小魚が春の日を浴びて、きらりきらりと光るのが見える。

 馬が小川の水を静かに飲み始め、その横でモローは同じように頭巾ずきんを外し、直接流れに顔を付けて喉をうるおし始めた。

 元々もともとこの辺りは肥沃ひよくな土地で、治安さえ良ければ広大な農作地となり得るのだが、なぜかオスダ王国を始め、亥之国やナウカワ公国も手を出さないでいる。アマツ内で悪事に手を染める者達が入り込みやすいような地域をわざと設けているのではという説もあるのだ。

 数が増えたら悪さをして潜んでいるやから一網打尽いちもうだじん討伐とうばつしてしまう。そんな事が定期的にオスダ王国や亥之国では行われていた。

 長閑のどかな昼過ぎである、モローはここで野営やえいしようと思い始めていた。別段急ぐ旅ではないのだ。彼はこの先、ゆっくりと西に進み、亥之国を通過し、西の国境を抜けて「スオウ」という名で呼ばれている地域をのぞいてくるつもりだった。

 馬を自由にさせたまま、日当たりのよい草地に横になると、モローは小川のせせらぎを聞きながらまどろみ始めた。

 日が暮れた。辺りの枯れ枝を集めて火を起こし、干し肉と干し果物で簡単な夕食をモローは済ませた。春とはいえ暗くなるとさすがに寒い、彼は早々に馬車に乗り込むと毛布にくるまった。

 馬が時折足踏みして草をむ音や、鼻を鳴らす音がする以外、せせらぎや木々の若葉が風に吹かれて鳴らす音だけが聞こえている。寝馴ねなれた馬車の上で、モローはたちまち熟睡した。

 夜半やはんを過ぎたあたりだろうか、かすかな人の気配でモローは目が覚めた。

 馬車の外では馬が同じように聞き耳を立てているようだ。静かにモローは馬車の床板をずらし、細身で片刃の剣を手にすると躊躇ためらわず鯉口こいぐちを切った。

 焚火たきびは完全に消えているようで、炭になった薪の焦げた匂いしかしていない。

 気配が濃くなり始めていた。

 少なくとも三人ほどの気配があった。気配は西の方から漂ってきている。そしてゆっくりと確実に近づいてきていた。馬車のほろり上げると、音もなくモローは馬車を降り刀を抱えたままうずくまった。

(三人ではなく六人か)

 最初に感じた三人の気配の後ろに、もう三人ほどの気配が加わっている。短弓たんきゅうが一人に剣が五人てとこか、弓を持つ者は、剣の五人より少し後ろにいて、五人を援護えんごできる態勢たいせいを取っていた。小川を飛び越える音がし、六人はもう間近まぢかに迫ってきている。

夜盗やとうだろうな、関わりたくないのだが)

 モローはそう思いながらも立膝たてひざの姿勢で刀を左脇に添えた。

 辺りの剣呑けんのんな雰囲気が気にくわないのか馬が大きく鼻息を鳴らして、モローに警戒をうながしている。モローは馬のすぐ脇にまで進み、馬の腹を軽く叩いてやった。

「それ以上、俺に近づくな」

 身をかがめたまま、モローが警告した。賊たちの足音が止まった。

「……おめえ、一人か」

 闇の底から、なんとも間抜まぬけた質問がなされた。その声も気に入らない。

「一人だが」

 賊は自分たちの姿が見えないと思っている。そして多分、賊達はこの自分が見えているのだろうとモローは思っていた。奴らも夜目よめくのである。だが、こちらも明瞭めいりょうに見えていることを奴らは知らないはずだと彼は確信していた。

「馬車ごと荷物を置いていけば、見逃してやるぞ」

 もちろん賊達はそんな気は持ち合わせてはいない、モローを八つ裂きにする気なのだ。

「馬鹿じゃないのか、それで俺が荷物をほいほいと渡すと思っているんじゃないだろうな」

 と、モローはさげすみの気持ちを込めてそう言い、刀も抜かずに立ち上がった。

 それが誘いだとは感づかない賊の短弓がうなり、夜を走った。モローは刀を抜きざま、弓を両断し大きく跳躍ちょうやくした。断ち切られた矢の一片が馬に当たったらしい、痛かったのであろう馬が怒りを込めていなないた。

 やじりの部分が当たったのでは無ければよいのだがと跳躍しながらモローは思った。

 考えられない距離を跳躍し、着地した所は賊達の背後で弓を構えている男の前であった。着地しながら、弓の男を刀を切り下げた。

 何が起こったのか分からぬ内に、男の身体が頭から二つに割れ、血がしぶく。

 賊達が背後の弓の男が斬られたのに驚き一斉に振り向いたところを、モローはその間をうよう次々に男五人を切り裂いていった。たまぎる悲鳴の中、刀は必ず男たちに双太刀ふたたちずつ当て確実にモローは賊を殺していく。

 すべてを斬り終えた時、最後から二人目に斬った男が崩れ落ち、そして最後の男も変な唸り声を上げて転がった。その声から、男がモローに呼び掛けてきた奴だと分かった。

 刀を構えたまま賊達のむくろに振り向いた時、モローは自分の息が上がっているのに気づいた。

(いかん、身体がなまっている)

 なかなか息は治まらない。足元から濃密な血の匂いが吹き上がっている。

 賊達が皆息絶えているのを確認すると、モローは最後に斬った男が身に着けていた帷子のような衣装で、血に濡れた刃を拭い鞘に納めた。

 馬の所に戻り、傷つけたであろう後ろ足の大きな筋肉の箇所を見ると、僅かに血がにじんでいるが、もう落ち着いたらしく、じっとモローを何か言いたげに見つめてきた。

「痛かったか、少し待っていろ」

 そう馬に話しかけ、モローは馬車の中から薬などが入っている巾着袋きんちゃくぶくろを持って戻ってきた。

人用ひとようだが、まあ、お前にも効くだろう」

 けものの油に血止めと炎症止めが調合された塗り薬のツボを巾着から取り出し、馬の傷にその薬を塗りこんでいく。

 馬はそうされても痛くないようで、モローの頭に鼻面をこすりつけて甘えてきた。

「髪はやめろよ、最近、少し薄くなってきたからな」

 モローの長い髪に甘噛あまがみをしてくる馬にそう言いながら、その首筋を叩いてやった。

 死体が転がっているところで夜が明けるのを待つ気もしないので、少し早いが亥之国国境に向かうつもりにモローはなっていた。

 馬を馬車につなぎ、手綱を軽く馬に当てると、元気よく歩き出した。傷が悪くなるのを気にし、モローは休み休み進むつもりだ。それでも夕刻には亥之国国境の街であるオクタに着けるだろうと思っていた。

 賊の死体はそのままである。奴らをとむらってやるような優しさをモローは持ち合わせていない。それよりも賊を殺した感触がまだ、手に残っている。何度経験しても気持ちのよい物ではない。

 無性に女を抱きたくなっていた。


 ―オクタ―

 亥之国の北に位置する都市オクタは、国境防衛の最前線でもあり、かなり大きな街である。

 人口は二万人ほどで、その約半数が兵士だ。そのため、街は酒場や売春宿が林立りんりつし、歓楽かんらく都市としても名をせていた。

 厚く頑丈に造られた城壁を見上げながら、城門の番所で通行札を提示し、モローはその足で外からやってきた馬車などを管理する溜まり場で馬と馬車を預けた。

 手近の酒場で酒と夕食を採ることにした。三日ぶりの文化的な食事である。

 国境警備の兵士や各地からか流れてきたモローと同類のような男たちにじり酒を飲み食事をし、酒が回ってくると、今まで以上に女の肌が恋しくなってくる。

 金を払い、のんびりと売春街に足を踏み入れた。木造で二階建ての宿が連なる道を歩き、客寄せの女たちの声を聴きながら、モローはどこに入ろうか迷っていた。

 女なら誰でもいいのだが、病気を移されてはたまらないので、小綺麗こぎれいで小ざっぱりした店構みせがまえの宿を探していた。娼婦しょうふたちの上げる嬌声きょうせいや客寄せが露骨ろこつな所は避けながら、売春宿の外れ近くで一軒の宿が目に留まった。

 飾り窓に並ぶ女達の衣装も質素で、あからさまにびる態度も取らない女たちが、窓を覗き込んだモローに視線を返してくる。また、客寄せの女も店の入り口に立って、通り過ぎる男たちに微笑ほほえむだけで、男の腕を摑んで店の中に引っ張りこもうとはしないのも気に入った。

 何かの紋章もんしょうのようなしるしが入った暖簾のれんを分けてモローが店内に入ると、五十がらみの白髪の男が近づいてくる。その奥には太った亭主らしい男が椅子に座っており、モローを値踏ねぶみするよう見つめている。

「お泊りでしょうか、一刻いっこくでしょうか」

 と男がたずねた。どうやら男はここの番頭ばんとうのようだ。

「泊りだ、水を浴びられる部屋はあるか」

「ええ、ございます。水ではなく湯でございまして。女はどういたしましょう」

「誰でもいい、あんたが見繕みつくろってくれ」

 そう答えながら、モローは男に銀貨一枚を握らせた。銀貨一枚で女が数人買える、それをしげもなく与えたのだから、男の相好そうこうが一層にこやかになる。

「はいはい、では、可愛い女を向かわせますので、まずはお部屋でご休憩なさってくださいませ」

 そして他の者に部屋を案内させるのかと思ったが、男が自ら案内してくれるようだった。

 男について二階に登り、磨き抜かれた廊下の奥の部屋を案内された。部屋は意外に広く清潔で、部屋の四隅に油の充たされた行燈あんどんともされ、大きな寝台を中心に娼婦用の化粧机などが配置されており、部屋の入り口右手が湯殿ゆどのであるようだった。

「お客様、湯はオクタの町はずれからく温泉を引いてございます。疲れが一遍いっぺんで飛びますですよ」

 男が自慢げに説明した。

「分かった。先に湯に入るから、女は少し間を置いて寄こしてくれ。……ああ、それと酒も頼む」

「はいはい、承知いたしました。では、ごゆっくり」

 そう言い残し、男は部屋を出ていった。

 三日ぶりに身体と髪を洗うことができた。湯につかっているうちに身体の凝りがほぐれたのを感じながら、身体を拭いた布を腰に巻いたまま部屋に戻ってみると、まだ女は来ていなかった。

 寝台に湯で温まった身体を横たえ女が来るのを待っていると、モローが湯から上がるのをはかっていたらしく部屋の扉が開き、盆に酒の入ったつぼと木製のさかずきを乗せた若い女が入ってきた。

 薄暗い明かりの中で、地味な顔つきで髪の長い娘だと分かる。

「お待たせ」

 明るく張りのある声で、ぺたぺたと近づいてくるはだしの娘はベッド脇の小机の上に盆を置いた。彼女は胸と下の部分を小さな布きれで隠し、それを背中で結んであるだけで、ほぼ全裸である。

 良く見ると布だと思っていたものが、白いごわごわした紙であることも分かった。

「サフランです。……お客さん、どこからいらしたの」

 と注ぎ口の付いた壺から盃に白い酒を注ぎながら、女は自分の名を告げ、酒に満たされた盃をモローに手渡した。

「……ナウカワだ」

 そう答え、モローは手渡された酒を一気に飲み干した。するとサフランという娘はベッドの上に移り、身体をモローに寄せてくる。

 普段は結っているだろう長い髪が彼の方に流れてきた。彼女の胸は隠している紙で見えなかったが、なかなか形良く張っている。触るだけで傷つけてしまいそうな柔らかな肌の感触と、下腹部を覆っている紙から覗いたスラリとした太腿ふとももが目に入った。

「お客さん、今夜は泊まっていけるんでしょ。……たくさん、可愛かあいがってくださいね」

 こびの奥に少し疲れた様な色をたたえているサフランを、モローは珍しく可愛いと感じた。同時にシュリの事を思った。

 呂之国の女王であるシュリとは、間欠的かんけつてきにだが今でも関係が続いていた。間もなく四十を迎える彼女もまた、疲れた表情を強面こわおもての後ろにいつも隠している。

 嫌がるかと思ったが、サフランの胸を紙の下から探ると、柔らかで反発するような膨らみと固くとがった乳首が感じられる。

 「ハッ」と彼女が息を止めた。そのまま寝台に押し倒し、身体を乗せていく。少し強張こわばっていたサフランの四肢ししがモローを受け入れようと柔らかくなった。


 寝台の枕に顔を埋め、甲高いあえぎを上げているサフランの、思いの外大きく張った尻を抱きながら、モローは二度目の頂点を迎えた。サフランを背中から抱き締め寝台に横たわったモローが、彼女の汗ばんだ背中に頬を付けて息を整えた後、その背中から降りた。

 二人して寝台に横たわった形になり、サフランがモローの胸に頭を預けてくる。

 その様が、何故か何年もの恋人同士のような関係が感じられ、普段はしないが、モローはサフランの頭に手を乗せたのである。小さな形良い頭だった。彼女の記憶が流れ込んできた、その中に気になる一場面があった。

 そのまま、身を起こすと彼はサフランの顔を覗き込む。彼の瞳にサフランは下から引きつったような微笑み返してきた。

(……この娘)

 本能的にサフランの思念をモローは読んだのである。そしてモローの脳裏に映し出された彼女の思念には、頭巾を被った巨大な者がいた。

 目深に被った頭巾に隠れ見えない顔が、おおかぶさるようにサフランをのぞき込んでいた。サフランは父親と母親を呼んでいた。だが、その一方で彼女は父親も母親も、もう生きていないと感じている。

 殺さないで、と思ったのが最後だった。彼女の記憶がそこで途切れているからだ。

(この娘、モクレン王女ではないか)

 そうモローは思った。サフランの記憶に映し出された頭巾の男は明らかに自分だった。彼女の記憶はナカツノ国の国王夫妻を殺害した時の光景と一致している。

 やはり、安易あんいな情を掛けてはいけなかったのだとモローは思った。モクレンは悲劇の王女として名誉を保持ほじしたまま死ぬ代わりに、中途半端の温情おんじょうをモローがかけたことでサフランと名乗る娼婦にを落としてしまったことになる。

(やはり、殺すべきだった)

 そう思い、甘やかな匂いをさせているサフランからモローは身体を離し、仰向けに横たわった。

 このような衝撃は、初めて人を殺した時以来だった。混乱と欲望、苛立いらだちとも判らぬ感情にモローは支配されていた。

「……ねえ、……どうしたの」

 と急に身体を離してしまったモローにサフランは、身体を起こし彼の胸に身体を預けてくる。

「何か、いけないこと、した……」

 そう言いながらサフランの指が、モローの下半身に降りていく。

「もう、いい」

 彼女の手が優しく彼を撫でるのを感じながら、そう答えた。

「あたしは、一夜の妻や想い人としてお客さんに奉仕ほうしする女ですよ。そうやって生きてきたの。それならお客さんも、この夜だけはあたしを奥さんや想い人と想っていてくれないかな」

 サフランの指使いが激しくなる。

「お客さん、……もう一回抱いて」

 変化のないモローに痺れを切らしたのか、サフランは長い髪をかき上げ、モローの右の乳首に吸い付いた。


 ―オスダ―

 サフランの素性を知ったモローはその三日後、彼女を身請みうけした。サフランを買い戻すには百六十枚の金貨が必要だったのだが、彼はその額を即金そっきんで支払っている。

 この日の彼は、いつもの外套がいとう姿ではなく、騎士の平服へいふくと同じような七分袖しちぶそでの上着の下に鎖帷子くさりかたびらを着け、腰には黒鞘くろさやの刀を下げていた。

「……なんでですか、急に身請けだなんて」

 訳も良く分からず、僅かな手荷物を持って二階から降りてきたサフランはモローに気づかないのか、太った宿の亭主に尋ねた。何事かと覗きに来た他の遊女ゆうじょから羨望せんぼうと好奇の視線を送られ、サフランは少し迷惑そうであった。

「ばかだね、当り前じゃないか、お前を気に入ってくれたんだよ、旦那だんなは」

 でっぷりと太った身体を番台の大きな椅子に沈ませている宿の亭主が、遊女を買いに来た者たちが待つ長椅子に座っているモローを手で指し示した。

 その男がモローであることを知ると、彼女は目をいて驚いた。昼の明かりの中で見るサフランは、やはり地味な顔つきで、良くいっても十人並みであった。

「……お客さん、本当にあたしを」

 とサフランは、半信半疑はんしんはんぎの表情を浮べ、モローを見つめていた。

 宿の奥から男が一人、一枚の紙を持ってくると、亭主の前の机においた。太った亭主は芋虫いもむしのような指で紙を取り上げ、一読すると羽の飾りがついた筆で署名し、それを持ってきた男に差し出した。男がその紙をモローに手渡す。

「その娘の身請書みうけしょです、今からサフランはあなたの物ですよ」

 亭主は満面の笑みを浮かべている。どうやら、本来の身請け金額を大幅に水増ししたのに気付いているのかいないのか、モローはすんなりと支払っている。

 手渡された身請書をふところにしまい、モローは立ち上がるとサフランを見た。

「いくぞ」

 とそう言い残し、モローはまだに落ちていないサフランを残して宿を出て行ってしまった。

 サフランはあわてて、宿の亭主や遊女仲間を一瞥もせずにモローの後を追っていく。

 宿の外に出ると、すぐ近くに彼の幌付き馬車があり、大きな馬がつながれている。モローはその馬車に向かっていて、馬は飼い主の姿を認めたのか、彼をじっと見つめている。

 馬に近づいたモローはその首を軽く叩いてやり、まだ宿の前で立ちすくんでいるサフランを見返した。サフランに手招てまねきをすると、彼女はまるで糸に曳かれたように馬車の脇に立つモローに寄っていった。

「……あたしでいんですか」

 サフランはモローを見上げて尋ねたが、彼はそれには答えず、軽々と彼女の身体を抱え御者台ぎょしゃだいの上に放り投げるように乗せ、自分も馬の手綱たづなを取り、彼女の横に座った。

 宿からは宿の人間がぞろぞろと店の前に出てきていた。車輪止めを足で外し、軽く馬に合図すると馬は歩き出した。

 宿の前を通るとき、遊女の何人かが「幸せになりなよ」とサフランに声を掛けてくれたが、余りの事で彼女はそれに応える余裕はないようである。まだ信じられぬ、不安げな表情を仲間たちに送るだけであった。

 小刻みな振動とともに売春街を抜けると、サフランにも多少の余裕が出てきたらしく、見慣れた街並みであるはずなのに、ゆっくりと流れていく街の光景を珍し気に目をやるようになった。

「珍しいか」

 宿を出て、初めてモローが口を開いた。

「いいえ、でも、こう高いところから見る街は初めて……です」

「そうか」

 その声があまりにも優しかったので、サフランは思わずモローを見上げた。厳しい横顔に薄っすらと髭が生え始めていて、瞳は様々な方向に向けられているようだった。

 やはり、それほど怖い人ではないようだとサフランは感じた。モローに抱かれた時も、行為自体は激しかったが、彼女の身体に加えてきた愛撫あいぶも優しく繊細せんさいだったのを思い出していた。

「どうして、あたしなんですか……」

 そうたずねていた。ちらりとサフランに目を向けたモローが、フッと頬をゆるませる。

「気に入ったからだ」

 サフランは、そうか、これからこの人のかこものになるんだと理解した。それなら話は分かる。

「……奥さんはいるんでしょ」

「いない。ひとり者だ」

 彼はそうつまらなさそうに答えた。

(この人の奥さんになるのかな……)

 そうサフランは思った。今まで人並みに女の幸せを望んでこなかった訳ではない、だが、自分の境遇きょうぐうを思えば、それは望めぬ夢に近かった。

 けれども、こうして今、切れないと思っていた太い鎖から放たれたことで、何かが変わっていくのではと思ってしまう。

「わかった、……これからはお客さん一人だけを楽しませれば良いんでしょ」

「俺を楽しませる必要は、ないな」

 そうモローが話した。

「……じゃあ、何をすれば」

「何もする必要はない、少なくとも今まで居た所でしてきた事はしなくて良い」

「そうなんですか……」

 意味が分からない、自分に夜の務めを無くしたら、何も残らないとサフランは思った。

 二人を乗せた馬車は城門を抜けた。この先、五陸里ほど街道を進むとオスダ王国の国境となる。サフランの記憶では、この城門を出たのは初めての気がした。

 この日は良い天気で、緩やかな起伏のある道の左右には緑豊かな畑が延々とつらなり、その中で農作業をする農民の姿が散見された。

 畑の先には高い山々が望め、右手は海へと続く平地だが、少し高い所を街道が通っているため、僅かに海のきらめきが見えていた。

 暫くの間、サフランは目の前の景色に気持ちを奪われていた。モローも馬を急がせる訳でもなく、ゆるゆると進んでいく。

「どこに行くんですか」

 我に返り、サフランがそう訊ねた。

「オスダだ。そこに家を借りてある。そこで暮らす」

「あたしはそこで……」

「また、何をすれば良いかか聞くのか」

 相変わらず厳しい表情をモローは崩さないが、口調に柔らかさが出てきていた。

「はい」

「そうだな、借りた家は畑付きだ、家に居る時は畑の世話とこの馬の世話をしてもらおうか」

 すると飼い主が自分のことを話していると分かったのか、馬の左耳がこちらに向いた。

「……やれと言うなら一生懸命にやります。でも、したことないです、あたし」

「分かっている。何もしないよりした方が良いだろうということだ。したくなければ、しなくていい」

 サフランを見つめるモローの目が、初めて笑みを湛えた。

「します、しますです。やらせてください」

 彼女は両手を小刻みに左右に振りながらそう答えた。何だか変な雲行くもいきだ、今までしてきたことはやらなくても良い、家で農作業と馬の世話をするだけで良いなど、娼婦だった自分からすれば考えられない条件だった。

「これからは何をするのも自由だ。家に居たくなければ出て行けばいい、居たければいつまでも居るが良い」

 久しぶりに自由と言う言葉をサフランは聞いた。なんて素敵な言葉なんだろうと彼女は自由と言う言葉をめていた。

「それで……」

 サフランは言いよどんだ。

「なんだ」

「あたしはこれからあなた様を旦那様とお呼びすれば良いのでしょうか」

かしこまった言葉はいらない。そうだな、モローとでも呼んでもらおうか。俺はサフランと呼ぶ」

「はい……」

 サフランは初めて彼がモローという名であることを知った。一体、どのような素性すじょうの人なのか、気にはなったが、これまでの日々ではそれを詮索せんさくしないのがおきてでもあり、彼女はあえて立ち入る事はしなかった。

 やがて、丘の向こうに木製の柵が地形に沿って設けられ、木製の大門とこれまた木製で尖った屋根を持つ建物が見えてきた。オスダ王国の国境線と番所である。

 大門では人や荷駄車が行ききしていて、大変な賑わいであった。王国は亥之国の領民に限ってほぼ自由に出入りするのを認めており、緩い同盟国といった間柄である。

 国境の番所を通ると、再び長閑のどかな風景が戻ってくる。その先、遠くにだがオスダ王国の王都であるタキの城壁が見えていた。

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