偽装告白

@shakes

短編


ビットコインか。最近値上がりしてるみたいだから俺も買ってみっか。そうヒロノブが思ったのは彼が現在滞在するロシア東部の大都市ウラジオストックにやって来る約半年前のことだった。仮にヒロノブが東京地検特捜部にパクられる前のカルロス・ゴーンのような特権階級的権力者だったなら仮想通貨よりも遥かに手堅い投資対象であるハイパーカー購入を検討しただろう。ハイパーカーとは高級車メーカーが自社商品のオーナー向けに限定販売する特権階級的高級車であり標準的には新車価格が一億円以上とされ、それが中古市場で流通するとその新車価格の最低でも数倍の中古価格で取引されるのが確実なので文字通り絶対儲かる投資対象である。ヒロノブは市役所に勤務する公務員だったのでほとんど何の特権も持っていなかった。持っていたのは妻子と共に住む家、コンパクトカー、それと携帯電話くらいの物だった。彼は八十年代的価値観を引きずる中年だったのでとてつもなくデカいクルーザーや車高が異常に低く無駄にスピードが出るクルマ、それとカジノで大金を賭けるハイローラーなどに憧れていた。特権は無かったが電話はあったのでそれでブラックジャックのアプリをインストールし細々とハイローラー気分を味わおうとした。ほどなくして彼は自らにギャンブラーとしての天賦の才能があることに気付いた。ブラックジャックはルールの特性上勝率を一定以上に上げることは出来ないが、勝つタイミングを正しく予想出来さえすれば、その勝負にだけ大きく賭け、高額配当を獲得し続ける事が出来る。彼にはその勝つタイミングがなんとなく勘で分かるのだった。勘がいいのは昔からで大震災も何となく勘で分かった。大体その数か月前に漠然と何らかの恐るべき禍によって多くの人命が失われるような気がするのである。彼は敏感だった。それには多くのデメリットもあった。対人関係において必要十分以上の情報を受容してしまうが故に多大なストレスに苦しまざるを得なかった。対象が職場の人間であれば接する時間も限られるのでダメージも限定的だが、家族であれば常時接しなければならないが故に被害は甚大を極めた――彼と妻の関係は破綻の危機に瀕していた。

 例えば彼が休日にドラッグストアで買った特売の袋入り徳用ストロベリー・チョコをつまみに一緒に買ったジム・ビームをあおりながら携帯のブラックジャックでバカンスでモンテカルロに訪れた投資銀行勤務のハイローラー気分を味わっているとすると決まってこんな罵詈雑言を妻から浴びせられた。

「そんな暇があったら家事の手伝いか筋トレでもしたらどうなの?」

 これが結婚か。俺はこの為に生まれ、娘を育て、結婚式に出席し、やがて老いぼれ、生活習慣病と延命治療に苦しみながら死ぬのか。これが人生か。今すぐ死んだ方がマシだな。そうヒロノブが思っても不思議は無かろう。彼は実際そう思い、有給を取り家族から逃れウラジオストックにある世界有数のIR施設で豪遊してみようと思い立った。実物のカジノでなくともオンライン・カジノであれば実際にカネを賭けて遊べたが、そのやり方を調べていた最中にビットコインに興味を惹かれた。この国ではカジノは禁止されていたのでオンラインでも国外のサイトでしかカジノでカネを賭けることは出来ない。であるが故にいちいち各国通貨に両替しないといけない手間を省く利点から外国のカジノサイトでは仮想通貨での入出金が推奨されている。カジノで賭ける以前にこの仮想通貨自体が投機対象として年々価値を高めつつある事実を調査過程で知った。イーロン・マスクも買ったらしい。だが、カネ儲け以前に家族から逃れ羽を伸ばしたい。彼はその願望に抗えなかった。

 高校時代は元スパイのフレデリック・フォーサイスのスパイ小説を愛読しスパイになりたかったヒロノブだったが、今回は彼が敬愛するカルロス・ゴーンばりの違法な海外逃亡をする必要もそもそもそんな資産も無かったので法令順守でロシアへ入国した。映画のスパイに憧れてたのでもちろんスーツだった。実物のスパイは人に紛れる為もっと地味で野暮ったい風体なのかもしれないが、彼はスタイリッシュな理想を追求したかった。荷物も大量に抱えてもたつくのは嫌だったのでスリムなシルバーのブリーフケースにまとめ俊敏に移動した。ブリーフケースには本が一冊入っていた。彼は携帯電話の電子書籍しか読まないのでそれは読む為ではない。イーサン・ハントがCIA本部から指令を受ける際、英語版の≪オデュッセイア≫を受け取り、くり抜かれた内部にはめ込まれた映写機から指令映像を壁に映写する場面を参考に、彼は全戯曲、全原文を全一冊にまとめた1039ページのシェークスピア全集の内部をくり抜き現金を隠すスペースを作り、両替したルーブル紙幣を入れ、ささやかなスパイ気分に浸ったと言う。

 ソ連崩壊後の経済自由化に伴いロシアには無数のカジノが建造されたがギャンブル嫌いのプーチン大統領の強権行使によってその数は四件に激減した。その中でもウラジオストックに建造されたカジノ兼リゾートホテル≪ティグレ・デ・クリスタル≫は世界最大級の規模を誇る。フロントでチェックインを済ませ、その日は部屋でゆったりと休息したヒロノブは翌朝いよいよブラックジャックテーブルへ向かった。人間関係において悪夢のように彼を苦しめた強力な感受性はここでは勝利の女神へと姿を変え、カネの雨を降らせた。昼食はレストランでサンドイッチとブラックコーヒーを注文し、午後もヒットかスタンドを選択する作業を続ける。降水量はその後も増加の一途を辿り、あたかも極寒のシベリアに場違いなトロピカル・ストームが襲来しかの如くであった。

朝はお茶、ヨーグルト、コーヒーで済ませ、昼もコーヒーとサンドイッチ程度に抑えた上で夜は好きなだけ食べると言った食事習慣だったヒロノブは夕食時、コート・ド・ブフ(牛のアバラ骨付き背肉のステーキ)を注文した。ウェイターが運んで来た鉄皿にはバターを溶かした上にカットしていないタイム、切り離した骨、スライスした肉が盛り付けられ、別の皿に付け合わせのホウレンソウ、モリーユ茸、ポテトが用意された。ヒロノブは取り皿に肉と付け合わせを盛り付け、食べる直前に肉に海塩を振り掛けた。彼は旧共産圏で資本主義を味わった。

 食後、ヒロノブはウォッカ・マティーニを飲みにバーへ行った。綺麗な女性バーテンダーが彼にカクテルを拵えてくれた。一杯目を飲み、オリーブを食べると彼女はアイリッシュ・ウィスキーを勧めた。それは≪ミドルトン・ベリー・レア≫という上等な銘柄で、フルーティーで甘かった。彼女の名前はナスターシャだった。

「随分ついてるようね」

「そうでもないよ」

「いい博打を打つ日本人がいるってホテルで話題よ」

 しまった。派手に張り過ぎたか。

「目立たないように気を付けないと、危ないわよ」

 この女に誘惑されるかもしれない。彼の想像は膨らんだ。えーっと、例えばデートして付き合って、結婚してしまったとしたら、こんな寒いとこにいつまでも居たくないな。もっと快適な西岸海洋性気候、ないしは地中海性気候の西ヨーロッパ。モナコ公国のモンテカルロあたりに移住したい。そこならカジノもあるし。あと愛人を二人くらい作って、ハイパーカーも何台か購入しよう。投資にもなるし。それから、まあ、浮気がバレて泥沼の裁判の後、多額の慰謝料を請求されるかも。だが、ただ生きて、生活習慣病と延命治療に苦しみながら死ぬよりは遥かにいいだろ。ナスターシャは彼に言った。

「あなたの部屋に行っていい?」


 ヒロノブは彼の部屋のベッドで目を覚ました。一人だった。あの女、アイリッシュ・ウィスキーに睡眠薬を入れたな。案の定、ブリーフケースは消えていた。永久に戻って来ないだろう。

こんなこともあろうかと彼は所持金の大半を銀行口座に預金し、それを資金源に携帯電話のアプリでビットコインを購入していた。このままここに居たら別のハイエナにカネを狙われるだろう。誘拐されるかもしれん。仕方ない、帰るか。家に帰って、ビットコインを換金して、妻にダイヤモンドの指輪と真珠のネックレスでも買って罪滅ぼしして勘弁して貰うしかないか。やれやれ。

 彼はいつものようにお茶、ヨーグルト、コーヒーの朝食を取り、歯を磨き、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。さて、読書でもするか。携帯電話は、確か――あれ、どこに置いたかな?

 
























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