第50話 それぞれの道

『 GA歴八十七年 十月十四日 二十四時 』

――先の戦いから、幾月が過ぎたある深夜のこと。


「おぎゃぁぁぁぁぁ……」


神代病院じんだいびょういん』の分娩室に、透き通るような赤子の産声が響いた。


「やったぁぁぁぁ!!!」

廊下で待ち構えていた朱角あけすみが、抑えきれずに大声を上げた。


その目にはすでに涙が浮かんでいる。


「母さん……」

祈琉いのるが静かに、しかし確かに声を漏らす。


「おふくろ、よく頑張ったな……」

比智ひさとは溢れ出る安堵と感動を隠しきれず、そっと目頭を押さえた。


「……良かった」

少し離れた壁際で、一斗いっとがぽつりと呟く。


その声には、誰よりも強い想いが込められていた。

――家族がまた、ひとり増えた。その喜びの傍らで、一斗いっとの胸には、あの日の記憶が深く沈んでいた。

忘れようとするにはあまりに重く、ゆるそうとするにはまだ早い。

それでも今はただ、母が無事で、赤子が元気で、家族が笑っていることに、心から安堵していた。


ほどなくして、分娩室の扉が音もなく開いた。白衣の女医が現れ、穏やかに告げた。


「ご出産、おめでとうございます。母子ともに健康ですよ」


「……そうですか……ありがとうございます」

朱角あけすみは深々と頭を下げた。その声は震えていた。


「さあ、皆さん、お入りください」


促されるまま、朱角あけすみ祈琉いのる比智ひさと、そして一斗いっとが分娩室へと入っていく。

朱角あけすみは真っ先にベッドに横たわる華豊かほうの手を握り締めた。


「ありがとう……華豊かほう……ありがとう……本当に、二人とも無事で、よかった……」

言葉の最後は涙にかき消される。号泣する朱角の姿は、不器用な彼が家族を心から愛していることを何よりも雄弁に物語っていた。


「あらあら、朱角あけすみさん。そんなに泣かないで。ほら、私たちの赤ちゃんを見てあげて」

華豊かほうが優しく微笑んだ。


「ああ……」


朱角あけすみは涙を拭いながら、そっと抱かれている小さな命を見つめる。


「ほら、皆も来て。新しい家族……あなたたちの弟よ」


「えっ!弟かよ!? 良いじゃねぇか!」

比智ひさとが声を上げた。顔をくしゃくしゃにしながらも、嬉しさが隠しきれない。


「……母さんは大丈夫?」

祈琉いのるは赤子に目を向けながらも、華豊かほうの体を気遣った。


「ええ、大丈夫よ。ありがとう、祈琉いのる

華豊かほうが穏やかに微笑んだ。


そして、分娩室の隅に立っていた一斗いっとに、彼女が声をかけた。


「さあ、一斗いっと。あなたもこっちに来て、弟の顔を見てあげて」


「うっ……うん……」

一斗いっとはぎこちなく歩み寄り、小さな赤子の顔を覗き込んだ。

その瞳に宿るもの――それは希望の光のようであり、しかし彼には、どこか遠くを見るような表情にも思えた。


「……あのぉ、母上。この子……なんか難しい顔してるよ」

一斗いっとがそっと言った。だがそれは赤子の顔ではなく、自分自身の中の迷いを重ねていたのかもしれない。


「そう?そんなことないと思うけど」

華豊かほうが首を傾げる。


「そうだぞ一斗いっと。俺に似て可愛いじゃねぇか」

比智ひさとが得意げに言った。


「それはない」

即座に朱角あけすみがツッコんだ。


「それはないよ、比智ひさと

祈琉いのるも冷静に返す。


比智兄上ひさとあにうえ、それは……がっ!」

一斗いっとが言いかけた瞬間、比智ひさとの拳骨が一斗いっとの頭に落ちた。


「痛いよぉぉ」

まるでいつもの兄弟喧嘩のように、一斗いっとはおどけて見せた。――だが、彼の胸の奥には、まだ拭えぬ重みがずっと横たわっていた。


「さあ、皆さん。病室に移りますよ」

看護師が、場の空気を察しながらそっと声をかけた。


「はい、お願いします」

朱角あけすみが振り返り、はっきりとした声で返事をした。


深夜の病院――眠る街の静けさの中に、小さないのちの誕生を祝う家族の温かな時間が、静かに流れていた。


* * *


三日後、昼下がりの陽射しが柔らかく差し込む中――

華豊かほうと赤ちゃんは、無事に『神代病院じんだいびょういん』を退院し、『七代家ななしろけ』へと帰ってきた。


玄関の引き戸を開けた瞬間、華豊かほうはふと足を止めた。


「あれぇ、なんで皆そろってるの?」


目の前に並んだ顔ぶれに、思わず驚いた表情を浮かべる。いつもなら仕事や訓練で忙しい面々が、今日は全員揃っていた。だが、そこに一斗いっとの姿だけはなかった。


「おかえり、華豊かほう。お疲れ様。皆、お前と赤ちゃんが帰ってくるから、今日は休みにしてくれたんだ」

朱角あけすみが柔らかく、しかし嬉しさを隠しきれない笑顔で迎えた。


「まあ……嬉しいわ」

華豊かほうも微笑みながら、ふっと安堵の息を漏らした。


「母さん、おかえり。赤ちゃん預かるよ」

祈琉いのるが優しく声をかけ、赤子を包むように両手を差し出した。


「あら、ありがとう祈琉いのる

華豊かほうは穏やかにうなずき、そっと赤ちゃんを彼の腕に委ねた。


祈琉いのるは細心の注意を払いながら赤ちゃんを抱き、奥の和室に設置されたベビーベッドへと向かった。そして、温かな手つきで寝かせる。赤子は小さく伸びをして、安心したように眠りについた。


「おう、お袋。お勤めごくろうさまでしたぁ」

比智ひさとが妙に芝居がかった口調で言いながら頭を下げる。


「……比智ひさと、その挨拶って、何の影響なの?」

華豊かほうがやや呆れたような顔で問いかけた。


「ああ、西暦時代のヤクザ映画ってやつに最近ハマってんだよ」

比智ひさとはどこか得意げに答えた。


「ヤクザ……? ああ、掘り下げたくないから説明はしなくていいわ」

華豊かほうは眉をひとつ寄せ、手を軽く振って話題を断った。


「お袋も大概ヒデェな」

比智ひさとは肩をすくめつつも、楽しげに笑った。


「どうだ、華豊かほう。久しぶりの我が家は?」

朱角あけすみが問いかける声には、どこか照れくささが滲んでいた。


「父さんも、久しぶりでしょ」

祈琉いのるが即座にツッコミを入れる。


「そういえば……なんかスマンな」

朱角あけすみは苦笑し、頭をかいた。


そんなやりとりの中、ふと華豊かほうがあたりを見回した。


「あれ? 一斗いっとはどうしたの?」


その問いに、場の空気が一瞬だけわずかに沈む。


一斗いっと……部屋に居ると思う。けど、あの戦い以来、ずっと元気がなくて。食事の時以外は、ほとんど部屋に籠もってるんだよね」

祈琉いのるが静かに説明した。言葉を選びながらも、弟への心配は隠せなかった。


「そう……」

華豊かほうは表情を曇らせ、短く頷くと、ゆっくりと階段の方へと歩き出した。


「ちょっと、顔を見てくるわ」


家族が見送るなか、彼女は静かに二階へと向かっていった。息子の心に触れるために――。


* * *


暫くして、階段を踏みしめる足音が聞こえた。

振り返ると、華豊かほう一斗いっとが、ゆっくりと二階から降りてきた。


「おう、一斗いっと

比智ひさとが真っ先に声をかける。少し安心したような声だった。


比智兄上ひさとあにうえ。おはようございます」

一斗いっとが小さく頭を下げながら答える。


「おはようではないぞ。もう昼過ぎだ」

比智ひさとがやれやれと笑いながらツッコむ。


「そうか……ごめんなさい」

一斗いっとは素直に謝った。だが、その表情にはどこか影が差しており、笑顔はなかった。


彼は無言のまま、ゆっくりとベビーベッドのそばへと歩み寄った。

そこで静かにしゃがみこみ、赤子の顔を覗き込む。


「僕は……一斗いっとだよ……」

一斗いっとの声はかすれていた。

「君は……僕が……今度こそ……」


言葉の続きを飲み込むように、彼は目元を押さえた。

その頬を、一筋の涙が静かに伝っていった。


「あっ、なにこいつ。泣いてるじゃん」

比智ひさと一斗いっとのそばに屈み込み、わざと茶化すような口調で言った。

その目はどこか優しく、なんとか弟に笑ってほしかった。


「……泣いてないよ」

一斗いっとがわずかに目をそらし、強がって言い返す。だが、その唇はかすかに震えていた。


比智ひさと揶揄からかうんじゃない」

祈琉いのるが、珍しく真剣な声でたしなめた。


「……すまん、兄貴あにき

比智ひさとも素直に頭を下げる。彼なりに、空気を和らげたかっただけだった。


その空気を切り替えるように、朱角あけすみが静かに立ち上がり、ベビーベッドから赤ちゃんをそっと抱き上げた。


「とりあえず、みんな座れ」

そう言って赤子を抱いたまま、華豊かほうの元へと歩いていく。


「これから命名式を行う」


思いもよらない言葉に、部屋の空気がぱっと明るくなった。


「マジか!? 赤ちゃんの名前か。決まったのか、親父おやじ!」

比智ひさとが目を輝かせて身を乗り出す。


「ああ、華豊かほうと相談して決めた」

朱角あけすみが頷きながら言うと、懐から折りたたんだ半紙を取り出した。


「では発表するぞ……じゃーーん」


気取った調子で半紙を広げ、皆に見せる。そこには力強く筆で書かれた一文字。


ことわりと書いて、『』だ」


「おお、なんか賢そうな名前だな」

比智ひさとが感心したように言った。


「いいと思うよ、父さん」

祈琉いのるも微笑む。


「うん……いいとおもう」

一斗いっともそっと呟いた。感情を抑えていたが、その声は優しかった。


朱角あけすみは皆の顔を見回し、改めて静かに口を開いた。


「いいか。俺は今、『アドルフ』の総司令そうしれいとなった。祈琉いのる比智ひさとも、アドルフ研究開発隊でそれぞれの役目を担っている。一斗いっとも、これまで本当によく戦ってきた。……これは俺の勘だが、俺たち『七代家ななしろけ』は、なにか大きなものに試されている気がしてならない」


その声には確かな決意と覚悟が宿っていた。


「だからこそ、俺は総司令そうしれいになった。家族を、仲間を、皆を守るために……これからも、全力で生きる」


言葉のひとつひとつが、胸に響いた。


「おお……良いこと言うな、親父おやじ

比智ひさとは心からそう思い、少し照れくさそうに笑った。


「さすが、父さんだね」

祈琉いのるもまっすぐな瞳で父を見た。


朱角あけすみさん……素敵よ」

華豊かほうの目もどこか潤んでいた。夫を、改めて誇りに思う気持ちがこみ上げていた。


一方で、一斗いっとは……黙っていた。

その場の空気に身を置きながらも、まだ心は迷いの中にある。


朱角あけすみは、そんな一斗いっとをちらりと見た。

その瞳の奥にある深い影――それが、ほんのわずかに見えた気がした。


(……一斗いっとは、まだ立ち直れていない……)

朱角あけすみの胸に、かすかな不安がよぎる。

このままでは、あの子までも……そんな思いが、言葉にはならず胸の奥に沈んでいった。


だが、今はまだ語らずにおこう――家族が寄り添う、この小さな時間を大切にするために。


* * *


命名式が一段落し、場の空気が少し和らいだころ――

祈琉いのるがふと思い出したように母へ声をかけた。


「でも母さん……なんだか元気だよね。寝不足とかじゃないの?」


心配そうに眉を寄せながら見つめる息子に、華豊かほうは穏やかに微笑み返した。


「それがね、おさむって……もしかしたら、言葉を理解してるんじゃないかって思うのよ」


「えっ? どういうこと?」

祈琉いのるは一瞬きょとんとし、すぐに興味を引かれたように身を乗り出した。


「あのね、昨日まではそんな様子全然なかったの。でも、今朝になって……」


華豊かほうは少し言葉を選ぶようにして間を置いた。だが、表情にはどこか嬉しさと不思議さが混ざったような色が浮かんでいた。


「実はね、朝のことなんだけど……」


そう言って、彼女はゆっくりと語り始めた。

その口調には、母親としての実感と、我が子への愛しさが滲んでいた。


祈琉いのるは、そんな母の表情を見つめながら、静かに耳を傾けた。

おさむが生まれてわずか三日。

だが、その小さないのちはすでに、『七代家ななしろけ』の中に確かな存在感を持ちはじめていた――。


* * *


その朝、『神代病院じんだいびょういん』の個室にはやわらかな光が差し込んでいた。

静かな気配の中、華豊かほうはふとまぶたを開けた。


「うーん……良く寝た……」


ぽつりと漏れた声に、自分で少し驚いた。

(ん? 良く寝た?)

(え、夜泣きは? 全然起こされなかったんだけど……)


心の中で呟きながら、胸にざわつくものを覚える。

すぐに隣に置かれたベビーベッドへと身を乗り出した。


おさむ……!」


急に込み上げた不安が声に出る。

ほんの一瞬、何かあったのではと全身が冷たくなった。


しかし――


「あっ……ふぅ、生きてる……」


おさむの胸が小さく上下し、穏やかに寝息を立てているのを見て、華豊かほうはほっと息をついた。

張りつめていた肩の力が一気に抜け、胸を撫で下ろした。


すると、おさむが小さく声を上げた。


「あー……うー」


まだ眠そうに唸っているようだが、どこか意志を感じる声だった。


「おはよう、おさむ


優しく声をかけてみる。すると――


「おあおう」


まるで返事をするような声が返ってきた。


「……え?」


華豊かほうは一瞬、言葉を失った。

今のは――まさか――


「ん? 今……『おはよう』って言ったの、この子……?」


目をぱちくりさせながらおさむの顔を覗き込む。赤子の小さな瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。


(そういえば昨日も……看護師さんのホロスモニターを、穴があくほど凝視してたわね……)


思い返せば、生後三日にしては少し変わった様子があった。

それを「赤ちゃんだから」で済ませていたが――いま目の前で、自分の言葉に反応したように見える息子を前に、華豊かほうの胸は高鳴っていた。


「もしかして……おさむったら……超天才じゃない……!?」


驚きと喜びが混ざった感情が一気に吹き出し、華豊かほうは両手を軽く広げておさむに顔を寄せた。


「すごーーいおさむぅ! あなたは超天才よぉぉぉぉ!」


病室に響き渡る声――

それは、母親になってわずか三日目の彼女が、初めて心から放った“親バカ”の歓喜だった。


* * *


華豊かほうは、ゆったりとした口調で、今朝の出来事を語り終えた。

その表情には、どこか誇らしげな気配と、まだ信じきれないような不思議さが同居していた。


「……なんてことがあったのよ」

話を締めくくると、華豊かほうおさむを優しく見下ろしながら微笑んだ。


「気のせいじゃねぇの?」

と、比智ひさとがあっけらかんと口を挟む。

場を崩すつもりではなかったが、素直にそう感じてしまったのだろう。


「アホか、比智ひさと。俺の華豊かほうに向かって、なんて口の利き方だ」

途端に朱角あけすみが声を荒げた。冗談と受け取れず、思わず眉を吊り上げる。


「はいはい、ごめんなさい」

比智ひさとは肩をすくめ、呆れたように謝った。反省の色はあるが、やや投げやりな調子だ。


そのやり取りを見ながら、祈琉いのるがゆっくりと口を開いた。

その声には冷静な分析と、同時にわずかな警戒心が滲んでいた。


「でも母さん……もしそれが本当なら、“超天才”って言葉で片づけちゃダメな気がする。何か……もっと根本的な異常かもしれないし……」


おさむの様子をただの才能ではなく、何か別の要因ではないかと考えずにはいられなかった。

その思慮深さゆえに、祈琉いのるは目の前の現象に安易な結論を出せないでいた。


しかし――


祈琉いのる、いいじゃない。超天才で片づけましょうよ」

華豊かほうがその言葉をやんわりと遮った。

その声には母としての確信と、何より“我が子を信じたい”という強い気持ちが込められていた。


「だって……私たちの家族なんだから」


その一言に、祈琉いのるはふっと力を抜いた。

(そうだね……家族なら、まず信じてあげないと)

彼は自分の思考がやや先走っていたことに気づき、小さく頷いた。


「……そうか。そうだね」


その返事に、華豊かほうはにっこりと笑った。


「そうだよ兄貴あにき。俺たちの弟は超天才だ」

比智ひさとがすかさず乗っかるように言った。

その声は、どこか誇らしげで、おさむに対する親しみがこもっていた。


「もしかしたら、もう兄貴あにきを超えてるかもな」


「ぐっ……」

祈琉いのるが顔をしかめる。

「……ちょっと悔しいかも」


珍しく感情を表に出した兄の様子に、比智ひさとは目を丸くしてから破顔した。


「ははっ、兄貴あにきでも悔しがるんだな」

めったに見られない反応に、まるで宝物でも見つけたように嬉しそうだった。


「……まあ、これでも人間だからな」

祈琉いのるがぼそりと呟く。


その言葉に、家族の間にくすりとした笑いが広がった。

おさむの存在が、この家にまたひとつ、穏やかな灯をもたらしている――そんな静かな確信が、皆の胸に芽生えていた。


* * *


「そういえば兄貴あにき、『疑似魔力回廊ぎじまりょくかいろう』って完成したんだよな?」

ふと、話題の空気が落ち着いた頃を見計らって、比智ひさとが口を開いた。

瞳にほんのりとした期待の色が浮かんでいる。


「ああ、できたよ。完全に理解した。じゃなきゃあの戦いでアドルフは戦えなかったろ?」

祈琉いのるがあっさりと答える。その言葉に、どこか達成感と自信がにじんでいた。


「確かにそうだよな。さすがだな」

比智ひさとが口元を緩めて頷く。兄への尊敬は、普段ふざけた言動の奥に確かに存在している。


「実はな、父さんと母さんにはすでに話したんだけど――」

祈琉いのるが声のトーンを少し落とし、静かに告げた。

みことの体内にある『魔力回廊まりょくかいろう』も、分析してみたんだ」


比智ひさとの表情が、ふと曇る。

「……そういえば、ミコのやつ、まだ目覚めないのかよ」


明るく振る舞ってはいるが、比智ひさとはずっとみことを気にかけていた。

仕事の合間を縫って『神代病院じんだいびょういん』に足を運び、何も変わらない病室に顔を出し続けている。


「先生が言うにはね、“すべて正常です”って。けど……どうしても目覚めないのよね」

華豊かほうが、不安げな表情を浮かべながら答える。

母として、医師として、何もできないことへのもどかしさが滲んでいた。


「バクマから聞いた話だけどさ……ロゴスの力がみことの中に流れ込みすぎて、『魔力回廊まりょくかいろう』がオーバーヒートを起こしてるらしいんだ。

それが今、自動修復中で……いつ目覚めるかは、バクマにも予測できないってさ」


比智ひさとの声には焦りと切なさが混じっていた。心配で仕方ないのだ。


「……うーん、待つしかないのか……」

つぶやいたその声は、今にも握り拳を作りたくなるような歯がゆさに満ちていた。


「――それで話を戻すけど」

祈琉いのるが、やや強引に空気を切り替えるように口を挟んだ。


「おう、それで?」

比智ひさともすぐに気を取り直し、話の続きを促す。


みことの体内にある『魔力回廊まりょくかいろう』、あれ……どうやら作れることが分かった」

祈琉いのるの声が落ち着いていたのは、それだけ確信を持っているということだ。


「なにぃぃ!? じゃあ、みことのように体内に埋め込めるってことかよ!?」

比智ひさとが大げさなほど目を見開く。予想を超えた内容に、思わず声が裏返った。


「ああ、理論上はね。ただし……母さんが研究してる、『ゲノムストレージ』の技術が必要だ」

祈琉いのるは視線を華豊かほうに向けながら答える。


「えーとぉ……『ゲノムストレージ』に記録された“正常だった頃の情報”を取り出して、最新の記録に書き換える技術……だったよな?」

比智ひさとが曖昧な記憶を引っ張り出してくる。


「正確には“書き換える技術”が要なんだ。

魔力回廊まりょくかいろう』を本人の細胞から構築して体内に埋め込んだあと、その記録を『ゲノムストレージ』に反映させて、三か所の丹田と接続する――という流れになる」


「三か所の丹田……? そんな内臓器官、あったっけ?」

比智ひさとが首を傾げた。


「臓器じゃない。ゲノムレベルで存在してる。

“脳”、そして“心臓”、それから……へその少し下だ」


祈琉いのるは迷いなく答えた。


「そんなの……論文にも載ってなかったぞ」

比智ひさとが驚いたように言うと――


比智ひさと、それは私がついこの間、見つけたの」

華豊かほうがさりげなく口を挟む。微笑みながらも、確かな自信が漂っていた。


「……ついこの間って……マジかぁ。お袋、すげぇ……」

比智ひさとは本気で感動した様子で母を見つめた。


「ちなみに、『疑似魔力回廊ぎじまりょくかいろう』も同じ三点構成なんだ。

脳にあたる“CPU”、心臓にあたる“動力”、そして臍の下にあたる“エネルギー供給”。

この三つが揃えば、兵器でもロボでも魔法発動が可能になる」


祈琉いのるの説明は明快だった。


「なるほどな、西暦風に言うと“ICチップ”と“モーター”と“電池”だな」

比智ひさとが妙に納得した様子で言うと――


「なんで西暦風に言うんだよ」

朱角あけすみがすかさずツッコむ。


「まあまあ」

比智ひさとは手を振って軽くあしらう。


「でね、今は私のチームで『魔力回廊まりょくかいろう』の構築を進めてるの」

華豊かほうが少し誇らしげに言った。


「そうなのか!? お袋のチーム、優秀だな」

比智ひさとが再び母を褒め、素直に感嘆の声を上げる。


「でもね、人間の場合は――ロゴスの欠片を持つ者じゃないと機能しない」

祈琉いのるが再び話の核心に戻した。


「ああ、そうだったな」

比智ひさともそれには頷く。


「で、『疑似魔力回廊ぎじまりょくかいろう』のほうは? ロゴスの欠片なしでもいけるようになったのか?」


「ああ、そっちはもう完成してる。

実はね、バクマの『疑似魔力回廊ぎじまりょくかいろう』に“認証機能”が組み込まれててさ。

それを取り除いたら、普通の人間でも起動できるようになったんだ」


「……でもバクマって、あの認証ありきで動いてんだよな? あいつ……何者なんだ?」

比智ひさと怪訝けげんな表情で呟く。


「まあ、何者でもいいだろ。便利だから」

祈琉いのるがあっさり言った。


「まあ、いっか」

比智ひさとも肩をすくめて笑う。


「――ということは、じゃあこっからは俺の出番ってわけだな」

比智ひさとが少し身を乗り出し、やる気を見せる。


「そういうことだよ、比智ひさと

祈琉いのるも静かに頷いた。


「で、兄貴あにきは何やるんだ?」

比智ひさとが軽く聞いてみると――


「うーん、ボクはぁ……巨大ロボとか宇宙戦艦とか……やってみようかと……」

祈琉いのるが、どこか照れたような顔で冗談交じりに答える。


「マジかぁぁぁ! いよいよ兄貴あにきもそっち側かよ!」

比智ひさとが笑いながら茶化す。


「なんだよ比智ひさと。お前だってベルト型のヒーロースーツ作ってるじゃないか」

祈琉が反撃。


「なっ……! 言うなよ兄貴あにきぃぃ……」

比智ひさとが耳まで赤くして慌てる。


「照れるなよ。みことのバトルスーツのこともあるんだ。お前が作ったって、誰も文句なんて言わないさ」

祈琉いのるが肩を叩く。


「……まあな」

比智ひさとが小さく笑った。どこか嬉しそうに。


七代家ななしろけ』の長男と次男――ふたりの天才は、それぞれのやり方で、新しい“未来”を創ろうとしていた。


* * *


ある日の夜――

七代家ななしろけ』では久しぶりに家族全員が揃い、一階のダイニングで食卓を囲んでいた。


「一ヶ月ぶりね」

箸を置いた華豊かほうが、ふっと感慨深げに呟いた。


「ああ、おさむの命名式以来だな」

朱角あけすみが頷きながら応える。


「ていうかおさむ、そもそもこの家にいないってどういう事態なんだよ」

比智ひさとが少し皮肉めいて言った。


「仕方ないわよ。皆の予定を合わせないと、なかなかこの家には戻れないもの」

華豊かほうが穏やかに笑って答える。


「まあ、そりゃそうだけどよ……」

比智ひさとが肩をすくめて納得する。


「でも見て。おさむったら、研究室にずっと籠ってて……この一ヶ月で完全に言語を理解してるのよ」

誇らしげにそう語る華豊かほうの声には、抑えきれない喜びが溢れていた。


「マジで? すっげぇー」

比智ひさとの目が丸くなった。


「まあ……まだ声帯が発達しきってないから喋れないけどね、ふふっ」

華豊かほうは母としての冷静な観察を交えながら、優しい笑みを浮かべる。


「そうなんだ……」

比智ひさとが少し残念そうにつぶやいた。


「でも最近は、一生懸命、研究室にあるホロスモニターの論文ばかり読んでるのよ」

華豊かほうはまるで我が子の成長を語るように、目を細めた。


「……一斗いっとよ、もうアイツ完全にやべぇぞ」

比智ひさとが、呆れと賞賛を混ぜながら言葉を投げる。


「そうですね」

一斗いっとは静かに、そして真顔で返した。


「おい、一斗いっと。まだ元気ねぇのかよ」

比智ひさとが気にかけるように声をかける。


「……ほっといてください」

一斗いっとは目を伏せたまま、珍しく棘のある返しをした。


「おまっ……兄貴あにきに向かってその口の利き方は……」

比智ひさとがムッとして立ち上がりかける。


「殴りますか? 痛くないですけど」

一斗いっとは淡々と、感情を込めることなく言い返した。


「くっ……腕力じゃ敵うはずもねぇしな……くそっ」

比智ひさとは悔しそうに拳を握り、歯を食いしばる。


「でも一斗いっと、それは良くない」

祈琉いのるが静かに、しかしはっきりと口を開いた。

その声に、一斗いっとの瞳が僅かに揺れた。


「……はい。比智兄上ひさとあにうえ、ごめんなさい」

一斗いっとは素直に頭を下げた。


「ああ、もういいよ」

比智ひさともそれ以上は言わなかった。自分にも悪いところがあったと、内心では思っていた。


しばらく沈黙が落ちた後――


「あのぉ……お父様とお母さまに、お話しがあります」

一斗いっとがふいに、表情を引き締めて口を開いた。


「どうした、一斗いっと

朱角あけすみが少し身を乗り出す。


「何かしら?」

華豊かほうも、表情を引き締めた。


「僕は……その……四月になったら、『大阪都』の中学校に転校したいです」

一斗いっとの声には揺らぎがあったが、それでもはっきりとした意志が感じられた。


「なにを言っている。一人で『大阪おおさか』に行くなんて、ダメに決まってるだろ」

朱角あけすみが即座に否定した。息子を思うがゆえの即断だった。


一斗いっとみことだってまだ目覚めていないのよ。何かやりたいことがあるなら、高校に上がってからでも遅くないわ」

華豊かほうも驚きながらも、冷静に説得しようとする。


「そうだぞ、一斗いっと

朱角あけすみも重ねて言った。


しかし、一斗いっとは小さく息を吐き、俯いたまま呟いた。


「……苦しいんです……」


「……え?」

華豊かほうが、静かに問い直した。


「もう……ここに居ることが、苦しいんです」


その言葉に、食卓の空気が凍りついた。


那岐紗なぎさが……殺された時も……苦しかったのに……」

一斗いっとの声が震える。


「……」


「お婆様ばあさまを……僕は……この手で、殺してしまったんです」


一斗いっとは絞り出すように言った。声にならない想いが、詰まっていた。


「……」


「僕は、お婆様ばあさまを……」

そこまで言って、一斗いっとはもう、声を出せなかった。唇だけが小さく動いた。


「……うん。苦しいのは……よく分かったわ」

華豊かほうが、涙をこらえながら静かに応じた。


朱角あけすみさん……どう思う?」

隣にいる夫に、迷うように尋ねた。


「十三歳のお前を、一人にすることはできない」

朱角あけすみは強い口調で断言した。


「お父様とうさま!!」

一斗いっとが思わず声を荒げる。


「最後まで聞けっ! 一斗いっとぉ!!」

朱角あけすみも負けじと声を張った。


「……はい」

一斗いっとは驚きながらも、すぐに姿勢を正した。


「だから条件をつける。中学を卒業するまでは、『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう』大阪支部の宿舎で生活をしなさい」


「はい……」

一斗いっとの声が、ほんのわずか震えた。


「それと、富豪ふごうさんが新しく設立した学校がある。そこに通いなさい」

朱角あけすみの声には、静かな温かさがあった。


「……はい」


「月に一度は必ず連絡をよこせ」

「はい」

「年に一度は必ず帰ってくること」

「はい」


「以上だ。これを守るなら……良し。華豊かほう、それでいいかな?」

朱角あけすみは涙を堪えながら、妻に視線を向けた。


「良くないわよ……! けど……今の一斗いっとには、知らない土地で、知らない人たちの中の方が……きっと、いいのかもしれない……」

華豊かほうの目から涙が溢れ、ぽろぽろと頬を濡らした。


「……ごめんな、華豊かほう……」

朱角あけすみの頬にも、一筋の涙が流れていた。


一斗いっと……お願いだから、生きててね」

母として、ただその一言にすべてを込めた。


「……うん……母上……」

一斗いっとはその言葉を受け止め、ゆっくりと頷いた。


「……分かったわ」

華豊かほうは、納得したわけではなかった。だが、息子の選択を受け入れる決意を口にした。

その表情には、母としての痛みと、わずかな希望が、複雑に交差していた。


* * *


場の空気が少し落ち着いたその頃、一斗いっとがふと兄たちの方へ顔を向け、声の調子をほんのわずかに落として口を開いた。


比智兄上ひさとあにうえ祈琉兄上いのるあにうえ。……後ほど、相談したいことがあります」


その瞳には迷いのない真っ直ぐな意志が宿っていた。緊張を押し殺しているような声音に、ふたりの兄もすぐに気づく。


「えっ? あ……うん、いいよ」


祈琉いのるは一瞬戸惑ったように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく頷いた。弟の真剣な様子に、何かあったのだと察したのだ。


「今じゃないのか?」


比智ひさとが眉をひそめながら問い返す。少し身を乗り出すようにして、一斗いっとの表情をうかがっていた。彼なりに、一斗いっとの言葉の裏にある思いを読み取ろうとしていたのかもしれない。


「はい。後ほど……お願いします」


一斗いっとは落ち着いた声で返しながらも、その奥にほんの少しだけ、切迫した思いを滲ませていた。


「……分かったよ。待ってる」


祈琉いのるは静かに頷いた。弟の言葉を信じ、今は詮索しないと心に決めたようだった。


「ああ、いいぜ」


比智ひさとは短く答えたが、その瞳には心配と兄としての責任感が宿っていた。


「お二人とも……ありがとうございます」


一斗いっとが深々と頭を下げたとき、その表情には兄たちへの深い信頼と、何かを決意した者の覚悟が見え隠れしていた。


* * *


そして、翌年の三月の終わり――。


一斗いっと、早く支度しなさい。もうタクシー来てるわよ!」


玄関から声を張り上げたのは華豊かほう。別れの朝だというのに、いつもと変わらぬ調子で家の中にいる息子を呼んでいた。だがその胸の内には、寂しさと誇らしさが複雑に交差していた。


「ごめんなさい、ちょっと色々見て回ってて……」


リビングの方から現れた一斗いっとは、どこか名残惜しそうに家の中を見回していた。声にはわずかな緊張と覚悟が滲んでいた。


「もう、仕方ないわね……」


華豊かほうはそう言いながら、口元に浮かべた微笑みに力を込めた。母として息子を送り出す日、強くあろうとしていた。


おさむ、元気でな。来年はもう歩いてるのかな?」


一斗いっと華豊かほうの腕に抱かれた弟の小さな顔を覗き込みながら、柔らかく語りかけた。その目には、家族を想う温かさが宿っていた。


「そうかもね……」


華豊かほうは静かに答えた。未来の話なのに、すぐにでも追いつかれそうな時間の流れに、胸が締めつけられていた。


「あれ? お母さま。泣いてるの?」


ふと気づいた一斗いっとが声を上げると、華豊かほうはハッとしたように目元を拭った。


「泣いてるわよ……当たり前でしょ」


言葉とは裏腹に、その表情には優しさと誇らしさが同居していた。


父上ちちうえまで……うわっ、号泣してるし」


一斗いっとが目を向けた先――朱角あけすみはすでに涙を堪えきれず、顔をぐしゃぐしゃにしていた。


伊波いなみ父上ちちうえ、お元気で」


タクシーのそばには、見送りに来た伊波いなみも立っていた。少し照れ臭そうに、一斗いっとが声をかける。


「ああ、一斗いっともしっかりな」


伊波いなみは軽く手を挙げて応えた。口数は少ないが、彼なりのエールだった。


一斗いっとぉぉぉぉぉ!」


突然、朱角あけすみが叫び声をあげ、一斗いっとに飛びついた。


「ちっ、父上ちちうえぇぇぇ……」


いきなりの抱擁に戸惑いながらも、一斗いっとはその力強い腕を拒めなかった。


「おでっ……ひっく……ひっく……」


朱角あけすみは言葉にならない声を上げながら、一斗いっとの背を叩いていた。


「はいはい、朱角あけすみさん。一斗いっとも困ってるから、離れましょう」


華豊かほうが苦笑しながら朱角あけすみの背を軽く叩き、涙を拭ってたしなめた。


そのとき、祈琉いのるが一歩前に出て、一斗いっとの前に手を差し出した。


一斗いっと餞別せんべつ比智ひさとと合作だ」


差し出されたのは、一つの腕時計型デバイス――ブレスだった。


「ブレスですか?」


受け取りながら一斗いっとが尋ねると、比智ひさとが肩をすくめた。


「ああ、お前、ブレスも持ってなかったろ」


「例のヤツとリンクしてるから」


祈琉いのるが声を潜めて補足する。頼れる兄たちの心配りが、胸に染みた。


「ありがとう、祈琉兄上いのるあにうえ


一斗いっとが真剣な眼差しで頭を下げる。


「それと、なんかあったら連絡してこい。俺たちがサポートしてやるからな」


比智ひさとが少し照れくさそうに言った。


「ありがとう、比智兄上ひさとあにうえ


一斗いっとは笑顔で応えた。


「そういえば……お前、言葉遣い治ったな」


比智ひさとがふと気づいて言うと、一斗いっとは軽く笑った。


「そうですか? まあ、弟もできましたしね」


少し大人びた表情でそう返した。


「……そうだよな。じゃあ、『大坂おおさか』でも頑張ってこい」


比智ひさとが背中をポンと叩くと、一斗いっとは力強く頷いた。


「うん」


「ガンバレ、一斗いっと


祈琉いのるが言葉少なに、しかし熱い想いを込めて送り出す。


「うん」


一斗いっとはしっかりと応えた。


「またね、一斗いっと


華豊かほうが静かに手を振った。


「お母さま、また……」


一斗いっとはその手を見つめ、小さく手を振り返す。


「皆、色々とありがとうぉ……!」


一斗いっとが振り返って叫んだ声には、感謝と寂しさ、そしてこれからへの決意が込められていた。


「いっどぉぉぉぉ、がんばれぇぇぇぇぇ……!」


朱角あけすみの大号泣は、『神代山じんだいやま』に響き渡るほどだった。


一斗いっとは深く一礼し、タクシーに乗り込んだ。


扉が閉まり、車がゆっくりと走り出す。その背中を、家族が、しっかりと見送っていた。


そこにみことの姿はなかった。


――そして・・・一斗いっとが、『新都大坂しんとおおさか』で巻き起こる数々の試練に立ち向かうことになるとは。この時、誰もまだ知る由もなかった。

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いのち紅(くれない) 須能寛治 @ishi-kei48

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