小さな鳩が歩く庭
さなこばと
小さな鳩が歩く庭
ささくれ立った畳に倒れ伏し、私は激しくせき込んでいた。朝早くに飲んだ薬は、長い間常用し続けたためか、もはや効果も頼りない。一日三回と決められた、昼の分を前にして役目は早々に体を抜けていったようだった。
この寂れた屋敷に住んで何十年が経っただろう? 障子から弱々しく入る陽射しを私は見る。思い返せば部屋数だけが取り柄の、今やあちこちにガタが来た古いだけの家だ。
数年前に今生の別れを告げた妻は、こんな家でも思い出深いと散々労り、暇を見ては端々まで掃除を行き届かせることに余念がなかった。いつも妻は時間が積もってできたものを全て思い出と言い張り、心から大切にしていた。
もうじき私も、妻のもとへ行く。
老いた私の乾いた口内では、新たに薬を飲むには水が必要だった。しかし、手元に水分を含むものは何もなく、台所へ向かうには体力が尽きかけていた。横たわり背を丸めていないと止まらぬせきに対抗できず、立ち上がることすらままならない。
終わりとは、こう来るのか。い草の跳ねた畳に押し付けている頬の痛みだけが、とにかく現実感をもって私に主張を繰り返す。悲しいとも苦しいともつかない、寂莫とした空虚が身と心を包んでいた。
思考の止まる発作に襲われた。
体が跳ねる。もがき、のたうちまわり、衰えたと思っていた腕と脚が暴れまわる。喉の蓋が閉まってしまったようだ。息ができず、視界が隅から黒ずんでいく。何かに体がぶつかって、壊れる音が遠くに聞こえた。
頭が割れるような激痛と共に、呼吸を取り戻した。息も絶え絶えに、どこにそんな力が残っていたのか、この力をうまく制御して水を飲みに行けたならと思う。いつしか強くつむっていた目を、私はうっすらと開いた。
視線の先には、板の張られた縁側があった。発作で暴れた拍子に障子を蹴破ったか何かしたらしい。見えるのは、ただ広いだけの庭だ。垣根沿いには若き日に妻と植えた木立があり、乱れて繁茂する雑草と、錆びついた物干し台のある空き地があり。
その空隙に鳩が歩いていた。小さな小さな鳩だ。
まだ幼鳥なのかもしれないが、親鳥の姿は見えない。とことこと交互に足を出し、ときおり地面をつついている。
瞬間、私の胸中に灯ったのは、どうか行ってしまわないでくれという願いだった。
小さな鳩は、足を進め草地に分け入っていく。
思わず目を見開いていると、小さな鳩は引き返してきて空き地で立ち止まったりふらふらしたりしている。まるで親鳥が迎えに来るのを落ち着きなく待っているみたいだ。
ふとして私は、心に静けさが生まれていることに気づく。
せきを絶えず繰り返しながらも、私の耳に届くあらゆる音が掻き消えていることに気づく。
私の目には、小さな鳩が庭を歩きまわる姿しか、もう見えない。
小さな鳩が歩く庭 さなこばと @kobato37
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます