千の物語を携えて - 朗読台本 -

みついけ ポウ郎

始まりから終わりまで

 初老の男が、公園の一角で朗読を行っていた。観客はまばらだった。多くは子ども連れの母親だった。男が読んだ本の名前は、宮沢賢治の「よだかの星」。他の動物たちからいじめられたよだかが、最後には星を目指し、そして星になるお話。


「というお話だったのだ」


 男はよだかの星を読み終わった。朗読の技術はなかなかのものであったか、拍手が起こった。男は続けた。


「以上、よだかの星であった。もしこのお話が気に入ったのなら、図書館で借りるでもいい、本屋で買ってもいい。いずれにしても、手に取ってもらいたい」


 朗読会が終わり、観客は帰り支度を始めた。ただ一人を除いて。年が十を少し超えたあたりの少女が泣いていた。男は少女に気付いた。


「そこの少女。何故泣くのか。確かによだかの星は名作だが」


 少女は涙声のまま言った。


「あのね、おじさん。私、よだかと同じなんじゃないかって。他人事だと思えなかった」


「うむ……そうか。君にも。そうだな。色々あるのだな」


「おじさん、言葉を選んでくれたんだね。ありがとう」


 男は照れ臭そうに、頭を掻いた。


「少女よ、一人か? 父や母はどうした?」


「一人。お父さんはいなくて、お母さんはお仕事」


「そうか。では重ねて問おう。少女、本は好きか?」


「好き」


「左様か。では来週の同じ曜日、同じ時間。またここに来るといい。吾輩から、朗読を贈ろう」


「また朗読をしてくれる、ってこと?」


「そうだ」


 少女は悩んだような、困ったような、しかしまんざらでもな表情を浮かべた。そして言った。


「分かりました。来ます」


 男は笑顔を浮かべ、言った。


「約束だ。ウソついたらハリセンボン飲ますぞ」


 少し時間が経って、夜が顔を出し始めたころ。男は公園のベンチに座っていた。そこに、若い女が近づいた。女は言った。


「あと一人ですね。あと一人。さっきの少女がそうなるんですか?」


 初老の男は言った。


「かもしれないな。だがそうではないかもしれない。ともかく吾輩は、全力でやるだけである」


 一週間という時間が経った。同じ公園、同じ曜日、同じ時間。初老の男がそこにいた。朗読をするためにそこにいた。先週と同じように、観客はまばら。しかし、その中にあの少女はいた。男は目配せをした。少女は頷いた。男は口を開いた。


「さて。朗読である。本日はこれ。と言っても、ただの紙の束。なにしろ吾輩が発案し、吾輩が書いたものである。出版はもちろんされていない。どこの誰も知らぬ話。なので最初に断っておく。皆にとって、面白いかどうかは分からぬ。もし興味が湧かぬのであれば、お帰り頂いても構わぬ」


 その言葉で、数人を残して観客は去った。あの少女は残った。男はそれを見て、改めて口を開いた。


「では始めよう。朗読の開始である」


 男は語り始めた。そこに語られるのは、虐げられた猫の物語。猫にはツラいことが続き、救いの手は現れない。なぜ生まれてきたか、なぜ私はこんな目に合うのか。猫はそればかりを考える。ある時、猫の目の前を馬車が通りがかる。猫は一つの決意をする。「この世界は広いという。ならばここではないどこかに行こう」と。馬車に隠れて乗り込み、猫は世界を見る。広かった。自分が今まで見てきた世界は、本当に狭い世界だったのだ。猫は世界を旅し、幸せを感じた。


「というお話だったのだ」


 観客はまばらな拍手を男に贈った。あの少女は微動だにしなかった。


「以上である。いかがだったか。感想はそれぞれあろう。しかし皆の心に、何かが浮かべば幸いである」


 その言葉で観客は帰り支度を始めた。そして男は少女に話しかけた。


「どうであったか。吾輩、渾身の力作である。面白かったか?」


 少女は笑顔を浮かべながら、しかし言いにくそうに言った。


「うーんとね……正直、あまり面白くなかった」


 男は満足げな顔をして言った。


「そうかそうか。うむ。実はそう言われるのでは、と内心思っていた。だが君は笑顔になった。ならばそれでよい」


「おじさん、私も広い世界に行っていいのかな?」


「よいぞ。戦うだけが全てではない。ここではないどこかに行くのだって、勇気がいるのだ」


「そうか。そうだよね。おじさん! ありがとう! またね!」


 少女は涙を浮かべながら、しかし顔を上げてそう言い、立ち去った。


 誰もいなくなったその場に、若い女が現れた。初老の男は、その場にへたり込んだ。女は言った


「はい、お疲れさまでした。どうです? 手ごたえは?」


「分からぬ。だが吾輩は全力でやった。それでよい」


 女は笑顔を浮かべながら言った。


「罪滅ぼしとはいえ、1000人を物語で救う。なかなかできることじゃないですよ。もう何年ですか?」


「120年である」


 その時、男の指先が光った。いや、指先が光に変わった。男は目を見開いた。


「おお……もしかしてこれが……」


「そうですね。これであなたはあの世へ行けるはずです」


「120年……長かった……そうか、あの少女は救われたのだな……あぁ、そういえば、またね、とあの少女は言ったな。その約束は果たせそうにない。ハリセンボンを飲まねばならぬのは吾輩だったか……」


 男は光の粒となって消えた。男の物語に救われた、1000人を残して。

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