第25話
29.水曜日午前8時
『ここで、速報が入りました。懸賞金制度の対象にもなっていた、足立区会社員行方不明事件に進展があった模様です。容疑者と思われる男女の身柄を群馬県警が確保し、まもなく警視庁が逮捕状を請求するものと──』
朝のニュースで、そのように報じていた。まだ事件は解決したわけではない。自供を得るか、遺体が森元貞和であることを断定したうえで、逮捕に踏み切るだろう。しかし、解明しなければならないことは多い。とくに、ある謎を解明しなければならない──と長山は思う。が、いまはそれよりも、最後に残った練馬一家殺人に集中するべきだ。本日の午後三時が、ターニングポイントとなる。
行方不明事件のこともあって、朝から財団本部前は報道陣で賑わっていた。午後からの記者会見のことを中継で伝えているリポーターもいる。玄関口から外を見渡してみても、一般の野次馬もたくさんいて、あたり一帯は混乱の極みだ。
竹宮翔子は来ていなかった。昨夜、長山がもどったときには姿がなかった。杉村遙に顛末を語ったあと、帰宅したらしい。これまでのことをどれだけ詳しく記事にするのかわからないが、出版社に行っても仕事は山ほどあるだろう。
杉村遙からは、警察にDNA鑑定のため呼ばれた、と連絡があった。捜索届けを受理している鹿浜署へ行っている。もしかしたら、そのまま群馬へ向かうことになるのではないか。鑑定結果が出るのは数日後になるだろうが、状況からみても白骨遺体は森元貞和でまちがいないはずだ。
長山は、園田和人の部屋をたずねた。
「長山さん……」
扉を開けると、心細そうな声が聞こえた。小刻みに震えていることがわかった。
「大丈夫ですよ。なにもおこりませんから」
部屋は、わずか数日だというのに乱雑としてしまった。べつの解釈をすれば、それだけ自分の部屋にしているということになる。
とりあえず会見までに、なにかがあるということはない。ここにいることこそが安全なのだ。ただし、これからずっと──という保証はどこにもない。ないどころか、長山は厳しい危惧の眼を向けている。
「どうして久我さんは……あんなことを言っちゃったんですか!?」
あなたを囮にしたんですよ──まさか、本当のことを言うわけにはいかない。
「あの人には、ちゃんと考えがあるんですよ……心配しないで。あなたの安全についても、できるかぎりのことをしています」
その言葉で落ち着けたとは思えなかったが、彼はそれ以上、なにも口にしようとはしなかった。
「なにか必要な物はありますか?」
彼は、首を横に振った。
「また、顔を出します」
そう言って、部屋をあとにした。精神的にかなりまいっている。もし、保護しているのが警察だったならば、もっと安心感を得られているのかもしれない。財団には豊富な資金があっても、暴漢と戦う武器は持っていない。さきほどの言葉は、気休めだ。ここが安全であることに嘘はないが、それでも屈強な警備に守られているわけでもない。
すくなくとも会見がはじまるまでは、ちょくちょく様子を見に来たほうがよさそうだった。
十時。正午。二時。いずれのときも、悪化はしていなかった。
むしろ開き直る気持ちが出てきたのか、会見が近づくにつれ、リラックスしているかのようだった。
三時まで、あと二十分を切った。
会場はすでにセッティングされ、記者も入室しているころだ。
これまでは二階の部屋がつかわれていたが、今回から一階に変更することになった。想定以上に報道が過熱してしまったので、入場をしやすくするための措置だった。それは同時に、外からの侵入も、それまでよりは簡単になったということでもある。
さすがに過保護すぎる気もしていたが、長山はもう一度だけと考え、園田和人の宿泊している部屋の扉をノックした。
反応はなかった。かまわずに開けた。
「……」
* * *
あいつが、ここに来るかもしれない!
だとすれば、ここが一番危険じゃないか!
逃げなければ……逃げなければ……。
* * *
最も得体の知れなかった第四の事件までもが、解決へと突き進みはじめた。しかも、そのことに自身が大きく関与している……。
翔子は、興奮とも、そら恐ろしさともつかぬ感情が胸のなかで飛び交っていることを自覚していた。この昂りと緊張を冷まさなければ!
財団までの道のりを歩きながら、クールダウンしていた。こんな自分を、翔子は知らなかった。これまでにない、べつの自分との邂逅。これほどまでに熱くなっているのは、いつ以来だろうか?
一歩一歩を踏みしめるように、目的地へ前進する。少しずつ、心を冷静にコントロールできるようになってきた。しかし次の瞬間には、また興奮に心が踊っている。
まだまだ未熟だ。そう反省せずにはいられない。
財団前は、いつも以上に人だかりができていた。
第四の事件に続き、ついに最後の練馬一家殺人の局面をもむかえようとしているのだ。これから、取材の総仕上げがはじまるかもしれない。翔子は、気合を入れ直した。
「あれ?」
思わず声が出ていた。
ある人物が眼に留まったのだ。何日前だっただろうか、やはり見かけている。
キャップをかぶり、道路を挟んだ向こう側の歩道から、入り口をうかがうように眺めていた。どこかで会ったことがあると思ったことも同じだった。だから、これだけの人だかりのなかでも注目してしまったのだ。
そのとき、入り口からだれかが出てきた。報道の人間が一瞬、駆け寄ろうとしたが、それが久我や長山でないとわかると、途端に興味が冷めていく。彼は報道陣をかき分けて、面している道路を横切った。ちょうど、交通量が途切れたタイミングだった。
園田和人。
そちらのほうに視線を奪われているうちに、キャップの男も動いていたようだ。
道路の中央付近で、二人が向かい合う格好になった。
そこで、ようやく気がついた。キャップの男の顔を知っていると思ったのは、むかしの写真を見たことがあったからだ……。
卒業アルバムで──。
「服部、幸弘!」
急激に鼓動がはやくなった。
翔子も人だかりを抜け、道路におりた。
車道では、数台が二人のために停車していた。クラクションが鳴り、しかしなぜだか、しん、と静まり返っていた。
入口を見れば、園田を追って、長山も飛び出してきた。が、報道陣にマイクを向けられて、うまく進めない。
「服部幸弘さんね……!?」
翔子は、二人のあいだに割って入った。
クラクションの音が、風のように耳を通り抜けていく。
男がキャップを取った。
短髪で、線の細い顔つきをしていた。写真とは印象がだいぶちがう。目鼻だちの造形に面影があるだけだ。これでは、すぐに思い出せるはずもない。
チラッと園田和人を振り返ったが、瞳が恐怖に見開き、あきらかに身体を硬直させていた。
服部が、ナイフを抜いた。
その瞬間、クラクションの音がやんだ。
かわりに周囲から、ざわつきと悲鳴が交差する。
「てめえだけ……大金持ちにさせるかよ!」
「待ちなさい! 彼は、あなたにも懸賞金の半分を渡すと言ってるわ……!」
「なに調子のいいこと言ってんだ! オレはよう……何年、くだらねえ人生送ったと思ってんだ!?」
「それは、あなたが許されないことをしたからでしょう!?」
「うっせえ!」
「もう、あなたの逃亡は終わりよ……逮捕されるわ!」
「それがどうしたよ! どうせ、おれの人生はとっくに終わってんだ!」
「まだ終わってない! 罪をつぐなえばいい」
「ぶざけんな! 何十年も刑務所に入るなんてまっぴらだ! こいつを殺して、おれも死んでやる!」
「あなたは一度、自殺を思いとどまったんじゃないの!?」
「そんなんじゃねえ! あのときは……」
服部幸弘の眼が、一瞬だけ空中を泳いだ。
「ババアにバレたんだよ……そしたら、いっしょに死のうって言われた……どうせ、くだらねえ人生しか待ってないってわかってたから、それもいいかなって」
「あなた一人、生き残ったの?」
「そうだよ……地獄からよみがえったんだ! 和人! てめえも、いまからおくってやるぜ!!」
「う、わわ……」
どうやら、園田が腰を抜かしたようだ。
翔子に振り返る余裕はない。
「やめなさい!」
「死ねや!」
「あなたは、まだやりなおせる!」
「しるか、そんなことッ!」
完全に理性を失っていた。
自分を差し置いて大金を手にする友人が、沸騰しそうに許せないのだ。
翔子は、守るように立ちはだかった。懸賞金に関わった者の役目なのだと思った。
「死ね──ッ!!」
切っ先を向けた服部幸弘が迫ってくる。
そこからは、時が制止したかのように、ゆっくり背景が動いていく。さらにゆっくりと、服部幸弘が向かってきた。
「どけ──ッ!!」
エコーがかかったように、耳のなかで雄叫びが反響していた。
意志だけは揺るがなかった。
どかない!
刃が、身体へ吸い込まれていく。
恐怖はなかった。それよりも、使命感のほうが勝っていた。
胸に突き刺さる寸前──。
横手から、だれかが飛び出してきた。
もつれるように、服部幸弘とぶつかった。
翔子も吹き飛ばされて、路上に尻餅をついた。
時間が、正常にもどった。
悲鳴、怒号、叫び!
「大丈夫か!?」
長山の声だった。
翔子は、首を縦に振る。刺されてはいなかった。園田和人も腰を抜かしたままだ。長山は、ようやくマスコミを振り切って車道に出てきたようで、翔子のかたわらで立っていた。
アスファルトの上には、まだ倒れている者がいた。
「久我さん!?」
久我が、服部幸弘に覆いかぶさっていた。
「久我さん……!?」
もう一度、呼んだ。
久我が、身体を服部から離した。
血が滴っていた。
「久我さん!」
近寄ろうとしたのを、長山に止められた。まだ久我の下には、凶器を持った犯人がいるからだ。
「服部幸弘だな!?」
相手の答えを待たずに、長山が、まだナイフを上方に向けたままの服部幸弘を確保した。
同時に、翔子は久我の身を支える。
腹を刺されていた。傷口を、精一杯おさえた。
「救急車! 救急車を!」
「まだだ……」
久我が、口を開いた。
「大丈夫だ。急所ははずれてる……」
むしろ、平然とした表情でそう告げた。しかし、強がっていることはあきらかだ。
久我は、立ち上がろうとしていた。
「なにを……するつもりですか!?」
「きまってるじゃないですか……会見ですよ……マスコミのみなさんがお待ちかねだ」
「バカ言わないでください! 死ぬ気ですか!?」
涙声になっていた。
「大丈夫……悪いヤツは、死なないよ……なかなかね」
「いいから、病院に行ってください!」
「会場までつれてってくれ……さすがに、一人じゃつらい」
翔子は、長山のほうを見た。ちょうど、服部幸弘に手錠をはめるところだった。
「現行犯逮捕。十五時ちょうど」
凶器は路上に転がっている。犯人は放心していた。
「長山さん!」
「竹宮さん、あまり動かさないで!」
「久我さんが……会見するって……」
「なにバカなことを言ってるんだ!」
それでも久我は、会場へ向かおうとしていた。
翔子は、それをやめさせることが、どうしてもできなかった。
道路から、歩道へ入った。人垣に近づくと自然に割れていく。みな、驚愕と恐ろしさをたたえた眼をしていた。翔子のおさえている手の隙間から、血流がこぼれ落ちる。入り口から、中西がやって来た。
「こちらで手当てを」
中西の肩も借りると、速度は倍になった。
騒動を聞きつけたのだろう。会場内にいたと思われる記者たちも密集していた。
「道をあけてください!」
なんとか通路を抜けて、会見の控室に入った。パトカーと救急車のサイレンが、そのときになって響いてきた。
慌てた様子もなく、中西が道具を用意して治療をはじめた。シャツを裂いて、ガーゼで血を吸い取る。手際がよかった。医療の心得があるのかもしれない。
「これなら大丈夫です。会見の終了まではもつでしょう」
冷静に宣告した。
「もつって……命が、ですか!?」
中西は答えなかった。
「やっぱり病院へ──」
言おうとしたのを、久我の手がさえぎった。
「心配ない」
「縫合します」
針と糸で、傷口を縫っていく。はたしてそれは、本当に医療用の針と糸だったのだろうか。恐ろしくて、真相は聞けなかった。
とても痛々しかったのに、眼を離すことができなかった。血でべっとりしていた手のひらで、パンツの生地を強くつかんでいた。
「終わりました」
腹部にぐるりと包帯を巻き、処置は完了した。こんな応急手当で、どれほどの止血効果があるのか……。
「時間は?」
「三時十分になります」
「十分遅れたな」
そんな遅れがなんだというのだ。
翔子は、二人の会話を怒りすら抱きながら聞いていた。
まるで何事もなかったかのように、久我は立ち上がった。
しっかりとした足取りで、会場へ向かう。
「……」
止めようとする言葉は、ついに出てこなかった。
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