第12話

        14.木曜日午前10時


 反町純一が恋人だと勘違いしている女性からの連絡は、翌日にあった。翔子の携帯にだった。翔子は、名刺も渡していたのだ。

『あの……ニュース観ました……』

 ためらいがちに、彼女は告げた。

 こうして電話をかけてきたということは、十五億を受け取るつもりになったのだ。言葉づかいが丁寧になったのも、こちらの気分を損ねて大金を棒に振ってしまうことを恐れてのことだ。

『本当に……そんな大金をもらえるんですか?』

「わたしは財団の人間ではなく、取材している立場ですから断言は避けますけど……あなたが受け取る意思表示をすれば、そうなると思います」

『受け取ってから……なにか罪に問われたり……トラブルに巻き込まれるようなことはないんですか?』

「そんな心配はないと思いますよ」

 これが久我なら、しっかりと言い切っているだろう。翔子もそうしたかったが、あくまでも立場をわきまえた。

『恋人じゃないのに?』

「情報提供者が勝手にそう思い込んでるだけなんですから、あなたに責任はありません」

『わたし、もらえるなら……もらいたいです』

 外聞など関係なく、彼女は言った。翔子は複雑な気持ちだった。

「十五億……反町純一という男性は、上野通り魔殺人の犯人です。その金を受け取るということですね?」

 意地悪な言い回しだと、翔子は自分でもわかっていた。心のどこかが熱くなっていた。犯人である反町純一にも憤っているが、この女性にも怒りを感じていた。

 金の魔力に、とり憑かれている。

 犯人は金で自首を決め、この女性も金でモラルを狂わせた。懸賞金制度というものが、なにかのズレを生じさせている。

『……はい』

 女性は一瞬の迷いのあと、そう答えた。


        * * *


 竹宮翔子からその報告を聞いたのは、午前十一時ごろだった。長山は、コールセンターに詰めていた。神妙な面持ちで翔子がやって来たと思ったら、反町純一の恋人が懸賞金を受け取る意思を示しました、と硬い表情で打ち明けた。

 すぐさま二人で、久我のもとへおもむいた。久我は最上階の、あの広すぎる部屋に一人でいた。

「あの女性が、懸賞金を受け取るそうです」

 不機嫌そうに、翔子が告げた。

「そうですか」

 久我の返事は淡々としていた。

「わたし、納得できません!」

 なにかに耐えかねて、翔子は声をあげた。

「犯人に言ってあげたい……あなたが恋人だと信じてる女性は、あなたのことなんて、なんとも思ってないって」

 長山も久我も、それを黙って聞いた。

「長山さん! わたしに、犯人と話をさせてください!」

 さすがに無茶なお願いだった。

「取り調べに同席させてとは言いません。面会はできませんか?」

「逮捕後、勾留決定前に被疑者との面会が許されるのは、弁護士だけです。家族ですらできない」

 対応に困り、長山は言った。

「でも、逮捕はまだされてないんですよね?」

 しかし、逮捕されているのも同然の状態だ。一課へ連絡を入れた瞬間に、逮捕は成立することになる。

「無理を言わんでください」

「じゃあ、長山さんが伝えてください!」

「……」

 返事ができなかった。思わず、久我の顔を見た。久我は少し微笑んでいただけで、どういう感情なのかは読み取れなかった。

「いや……私は、取り調べができる立場じゃないんですよ。犯人であると断定され、懸賞金の受け取り契約が済んだ段階で、私の手を離れたんです」

「でも三鷹の事件のときは、共犯者の取り調べに立ち会ったんですよね?」

 痛いところをつかれた。

「それは、強引に頼み込んで……」

「だったら、また頼み込んでください! それに正式には、まだ契約は結ばれていません」

 翔子は引くことを知らなかった。

「長山さんの負けですね」

 久我が、どこか楽しげに言った。

「……わかりました。どうにかしてみます」



 午後になって、反町純一の身柄がある上野署を訪れた。だが困ったことに、この上野署はおろか、本庁からの捜査員にも知り合いがまったくいなかった。人脈には事欠かない長山にとっても、残念な誤算だった。

 とりあえず、担当の管理官に話をした。懸賞金制度の対象になってから新たに組まれた捜査本部であり、新たに着任した管理官だった。

「犯人が確定した時点で、特命対策から、こっちに権限は移っているはずだ」

 管理官は冷然と言った。この場合の特命捜査対策室とは、いわばCC財団のことを指している。

 年齢は、四十代半ばだ。精気がみなぎっているのは、気合いの入っている証拠といえるだろう。本来は縮小されていた捜査本部の立て直しと、財団に負けていられないという警察の威信がその肩にかかっているのだ。

「ですが、まだ懸賞金の受け取り契約は済んでいません。正確には、まだこちらも調査権があるはずです」

 管理官は、あからさまに嫌悪感を顔に出した。

「長山さん、でしたよね? あなたのようなベテランの方がご苦労だとは思いますが、一課の仕事は一分一秒を争うんですよ。都内の凶悪犯罪は数限りない」

 その言葉の裏には、ロートルがしゃしゃり出てくるな、という強烈な嫌味がこもっている。しかも長山は、財団に出向しているかたちなのだ。この管理官から見れば、警察官ですらないのだろう。

「お願いできないでしょうか? 五分でいいんです」

 取り調べでなくとも、留置施設で声をかけることはできるかもしれない。だが、警察官だからといって簡単に部外者が立ち入ることはできないし、伝えなければならないことも込み入っているから、できればちゃんとしたかたちで対面したかった。

「金をばらまくのか?」

 管理官の眼が、意味深に輝いていた。

「噂は聞いているぞ。そうやって、被疑者に何億も貢いで自白を引き出すんだってな」

 長山は、否定しなかった。

「そんなやり方が許されると思ってるのか? だいたい……俺たちより、犯人のほうが金持ちだなんて」

 懸賞金制度がもたらす弊害は、長山にもよくわかる。警察官のモチベーション持続について、今後焦点があたることになるだろう。

「今日はちがいますよ。あの犯人は、すべて自供してますから」

 今日はちがう──という言い方は、金をばらまいたことを認めることになる。実際に、そうなのだから。

「あの久我って男、どこか得体が知れないな……むしろ、犯罪者に近い」

 よく知らない人間からすれば、胡散臭く見えるのだ。もっとも、長山もよく知っているわけではないが。

「……わかった。五分だけだ。時間をやる」

 長山は礼を言って、取調室に向かった。

 十分ほどして、反町純一がつれられてきた。電話では話しているが、こうして直接会うのは初めてになる。自ら警察署に出頭しているので、会う必要がなかったのだ。

「長山です」

「電話の……」

 反町にも、それがわかったようだ。

「彼女は、なにか言ってましたか!?」

「はい」

 長山は、どういうふうに切り出すかを悩んだ。

「もう一度確認しますが、あの女性を懸賞金の受取人にするということでいいですか?」

「おれが、無罪にならなかったらね」

「反町さん……あなたは、無罪にはなりません。あなた自身がそれをわかっているでしょう?」

 それを聞いても、反町の様子は変わらなかった。もし本当に無罪を信じているのなら、もっと激昂するはずだ。いや、精神に問題があるのなら、そういう感覚すら欠落しているだろう。「無罪」という言葉が、本人の口から出るはずはない。

 心神喪失なら無罪の可能性があり、心神耗弱ならば減刑の対象となる。反町には当然、そのどちらもあてはまらない。

 だが、弁護士はその方向で裁判を進めようとするだろう。それしか、やりようがないからだ。四人の死者。七人の怪我人を出した凶悪事件なのだから。

「動機は、なんだったんだ?」

 長山は、訊いた。動機の解明は、長山の仕事ではない。あくまでも、犯行の裏付けだけだ。そこに矛盾がなければ、あとは捜査一課の範疇になる。

 あえて、質問した。

「忘れた」

 反町は考え込むこともなく、そう答えた。

 類似の事件を参考にすれば、社会への不満や周囲への反発心があるはずだ。自分は、もっと評価されていい人間だ。いまのあつかいは不当で、それがわからない社会が悪いんだ──。社会が、そのまま親や友人、学校になる場合もある。反町にあてはめれば、犯行当時はまだ二十代前半であり、かなりの幼児性がかいま見える。大人社会に適応できない苛立ちが爆発したのだろう。

 長山はそれ以上、そのことについては追求しなかった。室内にはほかに記録係が一人いるだけだが、隣室からこちらの様子を、管理官をはじめ一課の何人かが見物しているはずだ。あまり余計な会話をすることはできない。

「あなたが指名した女性に、懸賞金受け取りの話をしました」

 ようやく、本題に入った。

「彼女は、承諾しました」

 心なしか、反町の顔色が明るくなった。

「本当に、彼女でいいんですね?」

「どういう意味だ?」

「重要なことなので包み隠さず伝えますが……彼女は、あなたのことをよく知りませんでした」

 少しさびしげにうつむきはしたが、それに驚くということはなかった。

「お店のお客だったんですよね?」

「いけないか?」

 それだけの関係の女性に大金を託すことがいけないことなのか、と逆に問われたのだ。

 精神状態がおかしいのなら、彼女を恋人だと妄想していてもおかしくはない。病的なストーカーだとしても同じだ。が、この男の理性は、それほど狂ってはいない。この男は、現実を知っている。

「おれにやさしくしてくれたのは、彼女だけだった……」

 お客だから──長山は、だれもが口にしたいことを言うつもりはなかった。そんなことも、この男はわかっている。

 この男にとって、心のよりどころは、彼女しかなかったのだ。

 いつ捕まるかもわからない日常生活には、安らぎなどなかっただろう。社会に不満があって犯行をおこなったのだとしたら、犯行後も、その状況が変わるわけはない。

 人生として、破綻している。夢も希望もない。

 そのなかにおいて、彼女だけが潤いだったのかもしれない。

 長山は、そのことを言葉に出してたずねはしなかった。

 それすら否定するのは、この男の存在すべてを否定してしまうことになるからだ。

 反町純一という男は、厳しく断罪されるべきだ。長山の私見でも最高刑が望ましい。だが存在のすべてを否定してしまうのは、さすがに残酷なような気がした。

「わかりました。このまま話を進めます」

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