第13話
15.木曜日午後5時
夕刻になって、天気が急変した。
最上階からの風景を、無機質に久我の瞳が反射している。
長山の報告では、反町純一は、恋人と主張する女性が本当は恋人でもなんでもないことを、ちゃんと認識しているという。それを承知で、彼女に懸賞金を託そうと考えた。
「……」
これで、三鷹の強盗事件、上野の通り魔殺人が解決したことになる。いや、本当の解決はこれからになるということも、久我はわかっている。そこまで傲慢ではない。そして遺族にとっては、永遠に解決の時が来ないということも。
残りは二つ……。
雷光が、夕闇を白く染めた。
思い出す。土の感触。このような雨が、あのときも降りだした。
「……来るのか」
このマネーゲームにも終わりが……。
雷鳴が轟いた。
この世の終わりを告げる猛獣が、低く吠えたようだった。
* * *
久しぶりの夕立が去ると、同時に夜の闇がおとずれた。
長山は、外の空気を吸うために財団本部から離れた。都心にひっそりと存在する小さな公園に足を運んだ。
夕立が降りはじめたころに、上野署から財団にもどっていた。反町の報告を久我にしてからは、持ち場の席について、退屈な時間を過ごしていた。
虚しさのようなものが、ここにきて膨れ上がっていた。これまでの警官人生が、ひどく無駄に思えてきたのだ。足を棒にした聞き込みも、証拠集めも、取り調べでの犯人との心理戦も、結局は金の前に無力となる。
金をかけることが、なによりも勝る。
これまでにも懸賞金制度というものはあった。だが金額は、ずっと少ない。億を超える金額を提示されれば、だれもが血眼になるだろう。しかも、犯人自身も受け取れる。残りの二つも、じき解決する──漠然とだが、長山はそう考えた。
公園のベンチに腰を下ろそうとしたとき、園内に知っている顔がいることに気がついた。遊具は、滑り台と砂場、ブランコがあるだけだ。ブランコに乗っている女性がいた。ベンチもそうだが、乾きやすい材質でつくられているようで、ハンカチで軽く拭けば、水気はなくなる。
杉村遙だった。
常夜灯が明るいから、視線が合ったこともわかった。おたがいが会釈する。
「休憩ですか?」
彼女のほうから近づいてきたので、長山は声をかけた。
「はい」
彼女がとなりに座った。財団本部のなかにも休憩室は設置されているが、そこで休んでいる人をあまり見たことがないから、こうして外へ出る職員が多いのだろう。
「長山さんも?」
「そういうことになりますね」
長山の場合、明確な職務時間が決まっているわけではないし、作業に形があるわけでもない。休憩といえば休憩だし、推理のための気分転換だとしたら、仕事中であるともいえる。彼女をはじめとするオペレーターの女性たちの職務時間もまちまちで、朝から夕方までもいれば、夕方から深夜まで、朝までの夜勤もいる。同じ女性でも、その日によってちがうことがあるようだ。ある意味、自由に勤務時間を選べる。
「どうですか、仕事のほうは? 慣れましたか?」
とくに話したいこともなかったので、ありきたりなことを口にした。
「ええ、おかげさまで」
彼女のほうも、ありきたりに返した。
「……もし、あなたが莫大な懸賞金をだれかにあげるとしたら、だれにしますか?」
ふと、そんなことをたずねてしまった。きっと、疲れているのだ。
「わたしが……ですか? もし犯人だとしたら、ですね?」
曖昧に長山は笑った。さすがに、そんなことを仮定させるのは失礼だと感じたのだ。
「そうですねえ……」
しかし彼女は気分を害したふうもなく、考え込んだ。
「わたしには家族もいませんし……とくに、だれかにあげようと思える人は……」
「ご両親は?」
「……」
聞いてはいけないことだったのだ。
「申し訳ない」
「いいんです。母は、わたしが高校生のときに、病気で亡くなりました」
想像どおり、重い内容だった。
「ずっと病弱でしたので……。父も行方不明で……」
かなり複雑な事情があるようだ。
「ですから、わたしには……」
恋人は? と会話を続けることもできた。だが、そんなことを言えるような雰囲気ではなかった。容姿端麗で、知的な女性だ。モテないはずはない。しかし、彼女自身がそんなものを望んでいないのでは……それは、長山の考えすぎだろうか。
「……もう、もどらなくちゃ」
彼女は立ち上がった。本当に、時間に急かされていたのかわからない。が、長山にはこの場の空気を嫌ったのだと思えた。
杉村遙が去って五分ほどしてから、長山も財団本部にもどった。
コールセンターに入ったとき、ただならぬ緊張感が漂っていた。オペレーターの何人かの視線が、長山に集まった。現在、応対しているのは、ただ一人だった。休憩から帰って、すぐに受けたのだろう。
その一人──杉村遙が、眼で合図を送ってきた。長山は、急いで自分の席についた。
すぐさま電話が音をたてた。出る。
「もしもし?」
『服部です……』
練馬一家殺人の犯人かもしれない服部幸弘だった。だが長山はここにきて、それを偽名だと思いはじめていた。その名前の人間は、たしかに実在している。それでも、この電話の主が服部ではないような気がしてならないのだ。
『ぼくが……犯人です』
これまでは犯行をほのめかすだけにとどめていたが、ついに犯行を認めるような言動になった。
「本当ですか?」
信じていなかった。
「あなたは、本当に服部幸弘さんですか?」
電話の声は、押し黙ってしまった。
「私が調べた服部幸弘という人物は、当時中学生でした。十五歳というのは、事件発生時の年齢じゃないですか?」
『そうです……』
中学生が残虐な罪を犯すこともある。過去には、それで何度も世間を騒がせたではないか。
「一度お会いして、本人確認させてもらいたいのですが」
『少年法……適用されますよね?』
声は言った。
『少年法です……』
犯行当時十五歳ということは、少年法が適用されるのはまちがいない。それから時が過ぎ、犯人が成人になっていようとも、少年法で守られることになる。
ただし、2005年に発生したということは、少年法はすでに改正されている。改正前は、十五歳では刑事事件としてあつかうことすらできなかった。2000年の改正後は、刑事責任を問える年齢が十六歳から十四歳以上に引き下げられている。つまりこの事件の犯人は、少年法で守られているといっても、刑事責任は発生していることになる。
だが、十五歳では何人殺そうと死刑判決は絶対に出ない。
彼の目論見は、そこらへんにあるのか……長山は思った。
「そうですね。少年法は適用されますね。しかしそれには、あなたが本物の犯人であるという証拠と、本人確認が必要になります」
『どこにいけば……』
「どこへでも行きますよ。そちらで指定してくださってけっこうです」
『……』
「東京にお住まいですか?」
無言が続く。
「東京周辺ですか?」
『……はい』
いま訊きなおしたのは、東京在住であることを限定されたくないと、声の主が考えるかもしれないと思ったからだ。
「渋谷はどうですか? それとも新宿がいいですか?」
『……どこでもいいです』
「では、新宿にしましょうか?」
声からの推定年齢は二十代後半だが、もし本物の服部幸弘だとしたら三十代ということになる。杉村遥の指摘でもそうだった。若者の多い渋谷より、まだ新宿のほうが馴染みやすいだろうと考慮した結果だ。
『そちらでも……いいです』
最初、どういう意味なのかわからなかった。
「……ここに来てもらえるんですか?」
『はい』
長山は、財団本部の住所と、大まかなアクセス方法を教えた。
「いつでもいいですが、周辺にはマスコミの人間がいるかもしれませんので、できれば事前に連絡をください」
『明日……十時に行きます』
「わかりました。お待ちしています」
16.木曜日午後6時
午後になって編集部にもどっていた翔子は、日が暮れるまで調べ物をしていた。
先輩編集者に第四の事件である『足立区会社員行方不明事件』のことをたずねたのがきっかけだった。ほかの同僚はだれも、その事件のことを知らなかった。その先輩だけが、おぼろげながら知っていた。先輩は、足立区在住なのだ。だから記憶のすみに残っていた。
概要は、こうだ。
江北に住む会社員(三九歳)が、帰宅途中、突如として行方不明となった。千代田区にある会社を出てからの足取りはわかっておらず、自らの意思で失踪したのか、それともなにかの事件に巻き込まれたのかも特定できていない。行方不明の翌日に家族によって捜索願いが出されているが、結局、事件事故なのか、失踪なのかもわからないまま時だけがすぎた。
なぜ、この事件が選ばれたのだろう?
事件……ではないかもしれないのだ。
この疑問をもっているのは、自分だけではない──そう翔子は思っている。きっと、長山も同じことを考えているだろう。
先輩の話だけでなく、パソコンで検索をかけて、できるだけ行方不明事件の情報を集めた。とくに有用なものはなかった。いや、とあるスレッドで、失踪した男性の住所を書き込んでいるものがあった。日付は2009年十月になっているから、事件が起こってから二年ほどが経過していることになる。その住所をメモした。
長山に協力をあおげば、その程度の情報は瞬時に知ることができるだろう。だが、いかに財団から許可を得ているといっても、個人情報を警察官が簡単に教えてくれるとは思えない。それに、自分一人で調べてみたい衝動にかられていた。
編集部を出たのは、六時半を過ぎていた。雨が降ったようで、道路が濡れていた。集中していたから、まったく気づかなかった。
電車を乗り継いで、足立区の西新井駅で降りた。さらにバスで十数分。住所を頼りに行方不明となった男性の住居についたときは、八時を大きく越えていた。
住宅街のなか、そこだけが不自然に風化していた。
ボロボロの一軒家が残っている。両脇や後ろには普通に家が建っている。その一軒だけが、ボロ屋なのだ。あきらかに人は住んでいない。ここだけ、時代が止まっているかのようだ。
窓は割れ、小さな庭には瓦も落ちている。どうして、こうなっているのだろう?
引っ越しをしたのだとしても、次の買い手に渡ったはずだ。それとも、残った家族が売却しなかったのだろうか。
「あの……」
声をかけられた。右隣の住人らしい。五十代ぐらいの主婦だった。
「なにか御用?」
「あ、いえ……あやしいものではありません……わたしは、こういうものです」
名刺を差し出した。
「マスコミの方?」
「そうです。この家なんですけど……」
「ああ、なるほどね。懸賞金だっけ? だから、いまになって取材に来たのね」
「ここには、だれも住んでないんですか?」
「見てのとおりよ」
「行方不明になったのは、ご主人なんですよね?」
「そうよ」
「残った奥さんと子供は?」
同じ歳の妻と、当時中学生の女の子がいたはずだ。
「さあ……まあ、逃げたくなる気持ちはわかるけどね」
「逃げる?」
その言葉に引っかかった。
「どうして、逃げなければならないんですか?」
自らの失踪にしろ、事件に巻き込まれたにしろ、逃げる理由にはならない。それどころか、もどってきたときのために、この家を守ろうとするのが普通ではないか。
「……あくまでも噂だから、大きい声じゃ言えないんだけどね」
そう前置きしてから、主婦は語ってくれた。少し声はひそめたが、充分大きかった。
「この地域でも、何人かやられたのよ」
「やられた?」
「詐欺よ、詐欺」
「え?」
「実際に、被害にあった人に会ったことはないんだけど……どうやら、かなりいるみたいなの。ほら、世間体もあるし、なかなか言い出せないじゃない」
思わず翔子は、ジッと主婦のことを見てしまった。
「わたしは、ちがうわよ」
大げさに、彼女は否定した。
「でね、そういうわけで、この土地は買い手がだれもいないのよ。一応、売ろうとしたみたいなんだけど、不動産屋にも断られたみたい。結局このままにして、夜逃げ同然に引っ越しちゃったってわけ」
どうやら行方不明になった男性は、いわくつきの人物だったようだ。上辺だけの検索では、そんなことはわからなかった。
「何人か自殺者もいるみたいだから、根は深いわね。だからこの近所では、だれかに殺されたんじゃないかって、みんな言ってるわ」
「あの、警察はその詐欺事件の捜査はしなかったんですか?」
「してないんじゃない? わたしはわからないけど……そんな様子なかったわ」
もし、行方不明の男性が詐欺犯だったとしたら、自らの失踪ではなく、事件に巻き込まれた可能性のほうが高くなる。事件の発覚を恐れて逃亡しようとするのなら、家族もつれていくはずだ。
詐欺の被害者に会って話を聞いてみたい。
翔子は、強くそう思った。
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