第21話 悪魔の眼と心臓

 柔らかに微笑むヴィンスが半仮面を外し、アーティカにそっと差し出した。

 半仮面の目の部分。黄緑柱石ヘリオドールを磨いて造ったレンズは、ひび割れていた。

 それだけで、アーティカにはわかってしまった。ヴィンスがどれだけ負荷をかけ、危うい道を渡ってきたのか、を。


「いったい、いくつの未来を書き換えたの。無茶をするんだから……本当にもう。泣くことしかできない魔女わたしなんて、捨て置いてよかったのに……」

「すまない、アーティカ。でも、君が必ず止めてくれると知っていたから」

「まさか、悪魔の力の暴走は意図的だった、ということ?」

「本当にす」

「もう、無茶ばかりして! 本当に、もう……どうしようもないひと。でも、一番どうしようもないのは、あなたの無茶が嬉しいわたし!」


 アーティカの声は怒っていた。

 けれど、その瑠璃色の目からはボロボロと大粒の涙が溢れている。堪えきれなかった感情が涙に変わって流れてゆく。

 アーティカは頬を濡らしたままにヴィンスの胸に縋りつき、安堵のため息を吐き出した。


「……無事でよかった」

「アーティカ……それは、私のセリフだ。君も、無事でよかった」

「なるほど、なるほど。そうか、そんなところにあったのか、砂漠の悪魔シャイターンの眼よ!」


 アーティカの細い腰を恐る恐る抱き寄せたヴィンスに、水を差すように割り込んだのはザーフィルだ。

 それまで静観していたザーフィルは、相変わらず蒼炎の壁の向こうにいた。けれど、両手を打ち大きな音を響かせている。


「ジュード、もういいだろう。遊びは終わりだ、剣を納めろ」


 砂漠の皇帝は王者の声で、ジャックと遊ぶジュードを制止した。

 それを受けて渋々剣を収めるジュード。ジャックは警戒を解かずに抜剣したまま剣を下げ、アーティカたちの元まで後退した。

 砂漠の帝国ディマシュカ異端審問官キュリエ教団という対立図が綺麗に成り立ったところで、素顔を晒したままのヴィンスが、蒼炎の向こうのザーフィルに問いかける。


「……貴殿は、この呪われた悪魔の力を知っているのか?」

「まさか異国人の眼に収まっているとは……これは盲点だった」

「質問に答えろ、この眼がなにか知っているのか!?」


 ヴィンスから冷静さが失われつつあった。美しい碧眼は金色へ代わり、白眼は黒く濁り出す。

 けれどザーフィルは余裕を見せつけるかのように、ただ嗤った。ニタリと悪魔のように微笑んで、歌うように話し出す。


「焦るな、異国の友よ。お前も砂漠の悪魔に捧げられたのだろう? 誰だ、お前を裏切ったのは。父か、母か。それとも兄弟か?」

「ヴィンス、いけない。あの男の言葉に耳を傾けてはいけないわ」


 アーティカは、ザーフィルの言葉を聞き、食い入るように見つめ出すヴィンスの腕を引いた。

 悪魔の眼ヴィンス悪魔の心臓ザーフィルでは、一体、どちらが格上か。

 せっかく、安堵と希望と嬉しさで満たされていたアーティカの心の中が、ざわざわと揺れて濁り出す。

 下唇を噛みながらザーフィルを睨みつけたのは、アーティカの無意識の所業だ。

 それがザーフィルの愉悦に繋がったのか。


「魔女よ、邪魔をするな。お前が俺のものにならないのなら、お前の男ごと呑み込んでやろう」


 蒼炎の壁の向こうで、ザーフィルが両腕を大きく広げて悪魔的に嗤う姿がアーティカの目に焼き付いた。


「ヴィンス、耳を塞いで。話を聞いては駄目よ」


 ヴィンスへの忠告は、もう手遅れかもしれない。と、無力感に襲われながらも、アーティカは再度ヴィンスの腕を引いて言葉をかける。

 悪魔の力か、それとも皇帝としての力量か。ザーフィルは、ひとが望む言葉を、欲しいと思ってしまう言葉を囁くのが上手い。

 ほんの少しだけれど、アーティカもザーフィルの言葉に揺らいでしまったことがあるから。不安に駆られて眉尻が下がる。

 アーティカは、ヴィンスを引き止めるように再度、腕を引く。


「心配いらない、アーティカ。私も馬鹿じゃない。そんなことは薄々わかっていた」


 ヴィンスの碧眼が柔らかく弧を描いていた。

 まるでアーティカを安心させるかのような、頼もしい微笑み。アーティカは思わずハッと息を呑んで、両手で自分の口元を押さえた。

 背筋を正してザーフィルと対峙したヴィンスは、浮かべていた柔らかな笑みを消した。そうして片手を振るうと、それまでボウボウと燃え盛っていた蒼炎の壁が、ふ、とかき消えた。


「砂礫の皇帝ザーフィル・アル=バウワーブとお見受けする。間違いないか」

「ああ、俺こそが砂漠域を統治する皇帝スルタンである。そういうお前はどこの誰か」


 胸を張り、態度も言葉も皇帝らしく振る舞うザーフィル。その尊大な態度が癪に触ったのか、ジャックとエラがヴィンスの前に出た。

 額に青筋を立てながら口を開いたのはジャックだ。


「この方こそ。我らがイリベリス神聖王国国王の王孫。王位継承者の末席に連なる貴きお方。ヴィンス・グランヴィル殿下である」

「ザーフィル皇帝よ、私には対話の用意がある。あなたもこれ以上、宮殿を燃やされたくはないだろう?」


 ジャックに続いたヴィンスの言葉に、アーティカは驚いた。

 まさか、ヴィンスが脅迫めいた言葉を吐くなんて。脅された形となったザーフィルも、アーティカのように目を丸くしている。


「……くっ、……ははは。王孫ごとき、悪魔の眼ごときが、この俺を脅迫するというのか。——貴様、俺を誰だと思っている! 貴様ごときの放つ焔など、取るにたらん!」


 ヴィンスの脅迫は、ザーフィルの逆鱗に触れたらしい。

 憤怒のザーフィルが怒りに任せて叫んだ途端、彼を中心として青黒い焔が燃え広がった。


「な、んだ、あれは!?」

「アーティカ様、お下がりください。危険です!」


 ジャックとエラが動揺しながらも、アーティカを下がらせる。

 先ほどまで屋上を支配していたヴィンスの青い焔とはまた違う、ザーフィルの青く黒い焔。あれも、悪魔の焔だ。


「……まさか、皇帝も悪魔に魅入られていたのか?」


 呆然とするヴィンスを支えるように、アーティカがヴィンスに寄り添った。


「ザーフィルは……彼の父帝の野心のために生きたまま心臓を切り裂かれ、砂漠の悪魔シャイターンに捧げられたそうよ」

「なんだって……? それじゃあ、彼は……」

「ははは! 今では俺が、俺こそが、砂漠の悪魔であるがな!」


 青黒い焔の中で哄笑するザーフィルの目が、琥珀色から金色に変わる。その目は血走っていて、カッと大きく見開かれていた。

 浅黒い肌は焔の青い光を反射して、てらてらと妖しく輝き、長く伸ばした髪は風に煽られうねるように広がっている。

 砂漠の悪魔シャイターンを体現したかのようなザーフィルの姿に、アーティカもヴィンスも言葉を失った。


「さあ、死合おう。悪魔の眼と心臓。どちらが魔女のあるじに相応しいか、決めようではないか!」


 焔の色は、格の違いか。それとも積み重ねてきた罪の色か。

 ザーフィルが振るう青黒い焔が、アーティカに襲い来る。焼かれる! と身をすくめたアーティカを救ったのは、アーティカの側にいたヴィンスだ。

 ヴィンスはアーティカをエラがいる方に突き飛ばし、代わりに焔を受けたのだ。


「ぐっ! ……ぁぁぁああ!」

「ほう。暴走させた悪魔の焔は、悪魔憑きを焼けるのか。生命を燃やした焔は、誰の支配下にも置くことができない完璧な焔となる——。なるほど、なるほど。これはいい」


 ザーフィルは悪魔の力を試すかのように、焔を振るってヴィンスを追い詰めてゆく。

 ヴィンスも負けじと青い焔を振るって盾を作り、青黒焔を防いでいる。

 チラリと見えたザーフィルの顔は、決して残虐な表情が浮かんでいるわけじゃなかった。逆に、好奇心と期待に満ちていて、無邪気さに溢れている。


「貴様、もっと踊りたまえよ。俺の力の底を測るには、ちょうどいい玩具だからな」

「私は貴殿の玩具では……ない!」

「ははははは、その調子だ! もっと俺を愉しませてくれたまえ! ここは退屈なんだ!」

「なんて男だ……!」


 ザーフィルとヴィンス。彼らの戦う様を見ながら、アーティカはサリアが衣装ドレスにつけてくれた装飾品を外しはじめた。

 熱気に包まれた屋上に、シャラリと涼やかな音が鳴る。

 アーティカは魔女だ。ふたりのように悪魔の力はないけれど、アーティカにはアーティカの武器レンズがある。

 ドレスの装飾品に偽装したレンズを丁寧に取り外し、素材別に分類をする。水晶、緑柱石、蛍石。それから硝子。どれも皆、アーティカが持つ不可視の力を備えている。

 とはいえ、レンズだけではヴィンスのサポートができるはずもない。

 アーティカはヴィンスから受け取っていた、ひび割れたレンズが収まっている半仮面を手にして新たな蛍石のレンズを押し込めた。

 そうして準備を整えて、アーティカがヴィンスの元へ踏み出す——けれど。


「アーティカ様、なにをなさるおつもりですか。これ以上は、前へ出てはいけません!」

「お願い、行かせてエラ。ジャックもお願い。わたしの手元にはレンズがあるの!」


「へいへいへーい。いいですぜ、お嬢さん。俺がサポートいたします」

「ジャック! 殿下からは、アーティカ様をお守りするようにって言われていたでしょう!?」

「おうよ。だからお守りするんですぜ。お嬢さんの意思と心をな?」

「ありがとう、ジャック。——行きましょう」


「おいおい、待てよ。どこへ行く? 俺の存在を忘れてるんじゃないか?」

「……まあ、そうなるよな。いいぜ、再戦と行こうじゃないか。——エラ、お嬢さんを頼む!」

「もう! なんて勝手な男なの。……アーティカ様、ここから先は、私がご案内エスコートいたします」

「ありがとう、エラ」


 アーティカは自分の我儘に付き合ってくれようとしているエラに、短くも思いのこもった感謝を述べた。

 そうしてすぐに気持ちを切り替える。

 心臓と眼。どちらの格が高いのか。それは火を見るよりも明らかで、ヴィンスは徐々に押されているようだった。

 だからアーティカは、蛍石を磨いて造ったレンズをはめた半仮面をヴィンスに向かって投擲した。


「ヴィンス、これを使って!」

「アーティカ!? ——これは……」


 半仮面を受け取ったヴィンスは、目元にはめられた蛍石レンズを見て息を呑んだ。



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