第19話 どうして来たの?

「アーティカ!」


 ああ、とアーティカは天を仰いだ。

 胸の内に歓喜の歌が溢れだす。それと同時に、喉の奥が詰まって息ができなくなるような苦しさを覚える。

 アーティカを助けにあらわれたヴィンスは、その顔に半仮面をつけていた。仮面の双眸には、今もなおヘリオドールのレンズが収まっている。

 けれど、黄緑色に輝くレンズは今にもヒビが入りそうなほど危うかった。

 アーティカはすぐにヴィンスに駆け寄りたかった。

 けれど、アーティカの行先をザーフィルやジュードが阻む。二人の大男越しに、アーティカはヴィンスに向かって叫ぶ。


「ヴィンス……どうして来たの! わたしはあなたから逃げたのに!」

「なるほど、あの優男か」


 ザーフィルの目が、新たな玩具を手に入れた子供のように、無邪気な孤を描く。

 いけない、ヴィンスを近づけてはならない。魔女としての直感がそう告げるのに、人としての感情がヴィンスを求めて手を伸ばしてしまう。

 囚われのアーティカを見たヴィンスの目が、半仮面の奥で金色に輝いた。ように見えた。


「貴様、アーティカを離せ!」


 ヴィンスの叫び声と同時に、宮殿を激しく焼いた青い焔が勢いを増し、燃え盛る。ヴィンスの姿は、怒りに囚われ正気を失っているようにも見えた。

 肝心の表情や目は、半仮面に覆われていて読むことができない。けれど、ヴィンスの感情をあらわす焔が、彼を中心として円環を描くように燃え広がるから。

 なにもかもを呑み込んで、魂すらも焼き尽くす蒼炎がアーティカやザーフィル目掛けて地を馳せる。その焔は、アーティカとザーフィルたちを分つかのように燃え上がった。


「なんだと? これは……悪魔の焔!?」


 ヴィンスの蒼炎に晒されたザーフィルが、はじめて狼狽えた姿を見せた。

 ザーフィルの姿は蒼炎の壁によって遮られ、アーティカの前にはヴィンスの元へ続く焔の道だけが延びている。

 この焔を恐れることはない。魔女としての感覚が研ぎ澄まされている今なら、わかる。ヴィンスは暴走しているわけじゃない。はっきりとした意志を持って、焔を振るっているのだ、と。

 だからアーティカは、自分を囲む蒼炎に進んで触れた。

 大丈夫、焼かれていない。指先が熱く燃えることも、魂が傷つくこともなく、アーティカは無傷のまま。

 思わず微笑みが漏れたアーティカの元へ、青い焔の主がアーティカの元へと駆けて来る。ヴィンスはアーティカの姿を見とめると、柔らかく破顔して、両腕を広げて微笑むアーティカを抱きしめた。


「アーティカ、ああ……アーティカ!」

「ヴィンス……無茶ばかりして。あなたって、そんな人間だったの?」

「君に影響されたんだと思う。自分でも驚くくらい、君を求めているんだ。ああ、アーティカ。私はどうすればいい?」

「そう。それなら、きちんと責任と取らなくてはいけないわね」


 アーティカは、ふふ、と短く笑うと、子犬のように眉尻を下げるヴィンスの背中に腕を回して抱きしめる。

 そうして。あらゆる視線から覆い隠すように、燃え盛る蒼炎が二人を包み込んだ。

 アーティカを包み込んだヴィンスの蒼炎は、彼の人柄をあらわすような優しさと柔らかさのある焔であった。

 魂すらも焼き尽くす焔であるはずなのに、安堵と喜びを感じてしまう。

 アーティカの魔女としての力が高まっているからそう感じるのか、ヴィンスに抱きしめられているからそう感じるのか。


「ヴィンス……わたしは大丈夫だから、どうか焔を鎮めて。できる?」


 青い焔はアーティカを焼くことはないけれど、それ以外を焼き尽くそうと手を伸ばしていたから。

 このまま後宮に限らず宮殿が燃え、クレセベテヒの街も燃えてしまえば、ヴィンスの心が傷つくだろう。アーティカは、後宮の部屋で震えているだろうサリアの顔を想像しながら、ヴィンスの背中を大きく撫でた。

 すると、ヴィンスの気持ちが落ち着いてゆくのと比例して、青い焔もまた落ち着いてゆく。

 怒りを鎮めたヴィンスは、深い深い息を吐き出すと、アーティカの肩に額を乗せて口を開いた。


「……アーティカ、すまない。君を助けにきて、逆に助けられるとは情けない」

「なに言ってるの。そんなこと……そんなことない。あなたはわたしを、確かに助けに来てくれたのだから」


 アーティカはヴィンスの背中を撫でたまま、ふるりと首を振った。横へ強く振ったせいなのか、アーティカの頭の中に、あの日の会話がぽかりと浮かぶ。

 そうして浮かんだ疑問を、アーティカは恐れず口にした。


「ねえ、ヴィンス。本当にわたしを助けに来たの? 生贄にするのではなくて?」

「どうしてアーティカを生贄になど……いや、そうか。君は話を聞いてしまったんだな」

「わたし、考えたのだけれど。あなたが救われるなら、あなたのために生贄になってもいいかもしれないって。でもね、お願いがあるの。あなたのために造ったレンズをきちんと最後まで完成させてからにして欲しいの」

「……アーティカ、君ってひとは、相変わらずだな」


 ヴィンスが、先程とは違った重さの息を吐いた。軽く吐き出されたため息に、アーティカは少し嬉しくなりながら密着していた身体を離す。

 一度、ニコリと笑ってから、真面目な演技をして主張を続けた。


「なんのこと? わたしは製造者責任を果たしたいだけなの。あなたのために造ったレンズが不完全のままだなんて、死んでも死にきれないから! 生贄にするなら、その後にして!」

「その心配には及ばない。私はアーティカを生贄にする気は、微塵もないんだ」

「……なにか訳があるのね? もしかして、あの古城の中で信用していい人間とそうでない人間を教えてくれたことに関係してる?」

「ああ」


 ヴィンスの言葉はごく短い肯定だけだった。けれど、短い言葉の中に込められたずしりとした重みが感じ取れる。

 だからアーティカは、ふざけるのをやめて息を吐いた。吐いて吐いて、それから吸って、ヴィンスに頭を下げた。


「……ヴィンス、黙って出て行ってしまって、ごめんなさい」

「いいんだ、私も不用心だった。もっとアーティカと話をしておくべきだった。愚かにも、いつまでも君が側にいてくれるものだと思ってしまった」


 照れたように囁くヴィンスの言葉に、アーティカは反射的に顔を上げた。

 ああ、ヴィンスの顔が真っ赤に染まっている。林檎のような赤さと甘酸っぱさに、アーティカの胸の内がゾクリと震えた。


「ヴィンス、それって……わたしにあなたの側にずっといて欲しかったって聞こえるわ」


 アーティカは衝動的にヴィンスに抱き着いて、ぎゅう、と力強く抱きしめるのだった。


◇◆◇◆◇


「お下がりください、陛下!」

「言われなくとも下がるさ、スレイマン。気をつけろ、これは悪魔の焔だ。触れればたちまち魂まで燃え広がり、焼き尽くされるぞ」


 ザーフィルは、スレイマンの襟首を掴んで下がらせると、不敵に嗤って焔に手を翳した。

 スレイマンはザーフィルの言葉と行動にハッと息を呑み、ぐるりと思考を巡らせる。そうして、宰相としての役割を果たすために口を開く。


「悪魔の焔……だから普通のやり方では消火ができなかったのか。ジュード、陛下を頼みます。私は宮殿の消火部隊へ指示を出します」

「おうよ。しっかり焔を消してこいよ。……ザーフィル、悪魔の焔ってことは、あの邪魔な焔を支配下に置けるんだろ?」

「……いや。本来なら、そうなのだが……なぜだ、俺の意志が通らない」


 青い焔に手を翳していたザーフィルは、首をひねって眉を寄せた。

 悪魔の焔を召喚できるほどの魔女や魔術師は、もういない。すべてザーフィルがその力を呑んでしまったから。そのはずなのに。

 蒼炎は宮殿を焼き尽くさんと燃え広がっている。ザーフィルに敵意さえあるような。


「この焔は、一体、なんだ?」


 悪魔の心臓を持つザーフィルに、同じ悪魔の焔は効かない。焔の支配権を奪って操ることさえ可能だ。

 それなのに、ザーフィルは焔の支配編を奪うことができないでいる。

 このままでは、ザーフィルでさえ焼かれかねない状況だ。

 なぜ、どうして。頭をひと巡りさせたザーフィルは、蒼炎の壁の向こうに隠れてしまったアーティカと、彼女を助けに来たと言っていた異国人の存在を思い出した。


「……ジュード。あの目障りな異国人を斬り伏せろ」

「あいよー」


 ザーフィルの命令でジュードが曲刀の柄に手をかける。曲刀をすらりと抜くのと同時に、青い焔の壁が和らいだ。

 消失しつつある蒼壁の向こう側。抱き合う魔女アーティカ異国人ヴィンスの姿が、次第に露わになってゆき、ザーフィルは無意識のうちに舌打ちをしていた。


◇◆◇◆◇


 ヴィンスが冷静さを取り戻し、興奮していた神経を落ち着かせたことで、焔の壁が消えてゆく。

 焔が消え失せるのを待っていたのか。抜き身の曲刀シャムシールを携えたジュードが、その切っ先を真っ直ぐヴィンスに向けていた。


「再会を喜んでいるところ、すまん。だが、俺のあるじは心が狭いんでね。そろそろ魔女を返してもらおうか」

「私の元からアーティカを連れ去ったのは、そちらだろう。アーティカは私の大切なひとだ、彼女の意志に沿わないことは応じられない」


 なんてこと。ヴィンスの喉からこんなにも冷徹な声が出るなんて。アーティカは、足手纏いにならないよう後ろに控えて彼を見る。

 ヴィンスの背中は、震えていた。

 アーティカは知る由もなかったけれど、ヴィンスは後宮の塔の屋上でジュードと対峙する運命にあった。ヴィンスが未来を観測した時点で、決まってしまった運命だ。

 そんな運命に緊張しているのか。ヴィンスは振り返りもせずに、ただ自分の覚悟をアーティカに伝えた。


「アーティカ。君が自由を望むなら、私は君のために闘おう」


 アーティカの耳に届いたヴィンスの声は、泣きたくなるほど優しくて、どうしようもなく胸が震えて仕方がなかった。



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