第18話 青く燃える後宮

 無言のスレイマンに背中を押されたアーティカは、ザーフィルが待つ寝室へ足を踏み入れた。

 寝室は、水皿に浮かべられた蝋燭や、散らされた薔薇の花びらで飾られている。

 天井には夜空の星を思わせるような硝子片が蝋燭の光を反射してきらめいていたし、身体の芯が燃えるような甘い香りが漂っていた。

 けれどアーティカには、なにもかもが茶番に見えた。


「来たな、魔女よ。今宵は決して逃しはしない。覚悟しろ」


 薄暗闇の中でニヤリと嗤うザーフィルは、アーティカを魔女としてしか見ていない。だから余計にアーティカの眼差しは冷めていた。


「帝国のあるじともあろうお方が、たかがひとりの魔女に囚われすぎでは?」

「言っただろう、俺はお前を気に入った。お前が気持ちを整えるために必要な時間と、道具も与えた。少しは心が揺れただろう? 魔女として存分に力を振るってどうだった? 心底、心地よかったろう?」


 囁く声は人を惑わす蛇のよう。ザーフィルのねっとりとした囁きに、魔女としてのアーティカが喉の奥で言葉を詰まらせる。

 それが隙になったのか。ザーフィルに腕を取られたアーティカが、柔らかく沈む寝台の上に押し倒された。


「あっ……!」

「アーティカ……俺の魔女よ。お前は誰よりも美しい。魔女お前が望むものは俺にしか与えられない。俺のものになれ」

「待って。待ちなさい、ザーフィル陛下。わたしは魔女であるけれど、あなたが望むレンズを造り上げるためには、清い身体でなければならないの」


 ふたりの間の時間が、一瞬、止まった。

 ぱちぱちと瞬く琥珀色の双眸に浮かぶ疑問を、瑠璃色の瞳が受け止める。


「なんだって? それが魔女のいうセリフか?」

「魔女をなんだと思っているの? より強力な未来視を行うレンズを造り上げるためには、レンズの素材と同じように混じり気のない透明で清らかな魔力が必要だから」

「なるほど、それはいいことを聞いた。つまりお前は、生娘ということだな?」


 この場を逃れるために咄嗟に吐いた嘘が、かえってザーフィルの欲を煽ったらしい。

 ニヤリと上がる口角と、琥珀色から金色へと変化するザーフィルの目。アーティカの背筋に冷たい汗がひと筋流れる。

 ザーフィルが嬉々として、アーティカにのしかかる。

 アーティカよりもひと回り大きな逞しい身体で、寝台に沈むアーティカの肉体を抑え込むように。決して逃さない、とでも言うかのように。


「なるほど、なるほど。それはいい! 穢れのない魔女を抱ける幸運を、砂漠の悪魔シャイターンに感謝しよう」

「い、嫌っ! は、放しなさい! 放して……!」


 ——と。それは、アーティカが必死の抵抗を試みるのと同時であった。

 後宮ハレムだけでなく、宮殿全体を揺さぶるような振動と爆発音が彼方から聞こえてきたのであった。


「へ、陛下……! 皇帝陛下、一大事でございます!」


 ぐらりと揺れる寝室へ真っ先に飛び込んできたのは、スレイマンだった。彼に続き、顔に傷のある大柄な男——ジュードも無遠慮に寝室へ入ってくる。


「どうしたスレイマン、騒がしいぞ。今宵は決して、その扉を開けるな、と言っただろうが!」

「そう怒るなよ、ザーフィル。スレイマンは悪くねぇよ。強いて言えば悪いのは、宮殿の警備主任と都の警備隊の奴らだな」

「……侵入者か、ジュード」

「おうよ。キュリエ教団の異端審問官を名乗る奴らが、お前の宮殿を焼いてるぜ」


 宮殿や後宮を襲っている爆発は今も止まず、断続的に鳴り響いている。爆発音が響くたび、部屋が揺れるたびに、アーティカの胸がどきりと高鳴った。


(……まさか、そんな。——ヴィンス?)


 きっと、これは、都合のいいように考えているだけ。

 異端審問官を騙る襲撃者であるかもしれないし、たとえヴィンスであっても、アーティカを生贄にするために追ってきただけなのかもしれないから。

 そう思って、胸の内に湧いた希望を折っても、アーティカは漠然と確信していた。

 ああ、ヴィンス。心の中で何度も名前を呼びながら、アーティカは装飾として身につけていた数々のレンズを、そっと指で撫でていた。


◇◆◇◆◇


 宮殿が、青く燃えていた。

 避難という名目でザーフィルたちに連行されたアーティカは、後宮で一番高い塔の屋上で、宮殿全体に燃え広がりつつある青い焔をジッと見つめていた。

 あの青い焔は、悪魔の焔だ。ヴィンスが見せたすべてを焼き尽くす焔。

 ヴィンスが来てくれた。けれど、あの青い焔は野放図に広がって宮殿を呑もうとしている。


(ヴィンス……まさか、悪魔の力が暴走しているの?)


 アーティカは青い焔を見つめながら、ざわつく胸をそっと押さえた。

 青い焔がもたらす熱気が塔の最上階まで届いたのか、それとも心痛からか。アーティカの背中がじとりと汗を掻く。

 そんなアーティカを他所に、ザーフィルはスレイマンやジュードを問い詰めていた。


「なんだ、この炎は。スレイマン、なぜ消火もせず放っている?」

「消したくとも消せないのです、陛下。この炎は自然界のものではありません」

「なんだって? そんなことはあり得ない。俺以外に異能を使える者がいるものか」


 ザーフィルには確信があるらしい。あり得ない、というように首を横へ振ってスレイマンを否定する。

 けれどスレイマンも頑なに首を横へ振る。


「ですが事実です。それだけではなく、ここ数日、空気が乾燥しているせいか火の回りも早い。早く原因を突き止める必要があります」

「原因、か。……これほど広範囲に渡って俺の宮を燃やせるような魔女や魔術師は、もうこの世に存在しないはずだが」

「まあ、力の強い魔女や魔術師は、陛下がその力を呑み込みましたからね」


 ああ、どうりで。ザーフィルたちの会話に聞き耳を立てていたアーティカは、腹落ちした。

 この世から奇跡や神秘が失われつつあった理由。

 それは、ザーフィルが奇跡や神秘の担い手を、その力を呑んでひとつにまとめてしまったからだ、と。

 力の強い魔女や魔術師は、ただそこにいて息をしているだけでも奇跡と神秘を呼び寄せる。それがザーフィルにまとめられてしまったら。世界に対する影響が失われ、やがて奇跡や神秘は消え失せる。

 とどめとなったのが、ラウフバラドの楔石だ。ザーフィルが楔石を抜いたことで、奇跡や神秘の消失は決定的となってしまった。

 青い焔を見つめながら、アーティカはそっと息を吐いた。

 ヴィンスは悪魔の力を持っている。悪魔の心臓が悪魔の眼を呑んだら、ザーフィルは砂漠の悪魔シャイターンに近づいてゆくのだろうか。

 アーティカが不安に駆られている一方で、豪快に笑い出すジュードの声が聞こえてきた。


「現実を受け止めろ、ザーフィル。なにもかも思い通りにいくわけじゃねぇ。それで、我らが皇帝陛下はこの事態をどう収集つけるんだ、ん?」

「……面白がるんじゃない、ジュード。このままでは、すべて灰になってしまう」

「ははは、スレイマン。そんなことにはならねぇよ。ここには魔女がいるんだからな」


 と。話の矛先が突然自分に向いたアーティカは、身構える暇もなくジュードに詰め寄られた。

 ジュードの息が鼻先にかかるほど、近い。アーティカは自分よりも二回りも大きな武人に見つめられて、ヒッと息を呑む。


「なあ、魔女よ。お前、なんか知ってるだろ。この炎はなんだ?」

「し、知らないわ……ちょっと、離れてくださらない?」

「ジュード、俺の妃から離れろ。魔女が嫌がっている」

「ザーフィル、お前らしくないぞ。女子供にも容赦しないのがお前のいいところだろ。確実にこの女は原因を知っている。俺の鼻がそう告げている」


 ジュードはそう言いながら、アーティカの匂いを獣がするような仕草で嗅ぎ出した。

 なんて野蛮なのだろう! 怖気と嫌悪でアーティカの背中が震える。


「知らないって言ったわ。わたしから離れなさい!」

「いいから離れろ、ジュード」

「どうした、ザーフィル。お前らしくない。……魔女に骨抜きにされたのか?」

「まさか! 俺の魔女を尋問するのは、俺の役目だ。お前がすることじゃない」


 ザーフィルの言葉に、ジュードは渋々「へいへい……」と頷いて後退する。

 アーティカがホッと安堵したのは束の間で、今度はザーフィルに詰め寄られた。

 狭い塔の屋上の壁際まで追い込まれ、ザーフィルはアーティカを逃さぬよう、両腕で檻を作って囲ってしまう。

 ザーフィルの顔は、いつものように嗤っていた。けれどその目は、少しも柔らかく緩んでいない。


「アーティカ、知っていることを話せ」


 アーティカを射抜くように真っ直ぐ見つめる琥珀色の双眸。それがチカチカと明滅を繰り返し、金色に変わろうとしていた。

 金色の目は、悪魔の証。悪魔に魅入られ、悪魔に憑かれ、悪魔の力を振るう者の証だ。

 砂漠に生まれた魔女であるアーティカは、砂漠の悪魔シャイターンの力に抗えない。金色の瞳に見つめられたら、自分の意思に関わらず魅入られてしまう。

 そういえば、ヴィンスが悪魔の力が暴走して美しく澄んだ碧眼を金色に変えたとき。彼は決してアーティカの眼を見ようとはしなかった。

 それを思い出したから。アーティカは眼を伏せて、必死で抵抗をした。


「い、嫌……知らない」

「そうか、知っているんだな? 俺に当てて欲しいのか?」


 嗤うザーフィルは、悪魔のようだった。白眼を黒く濁らせて、白い犬歯を剥き出しにして、ニタリと愉悦を浮かべてクツクツ嗤う。


「はじめて会ったとき、神聖国風のドレスを着ていたな。なるほど、お前にドレスを贈った異国人か。ならば捕らえて殺さなければな」

「違う、彼じゃない!」

「ほう。やはり男か。異国の騎士か? それとも騎士ナイト気取りの愚かな男か?」

「彼は愚かな人間じゃないわ。わたしが知り得る限り、もっとも美しいひとよ」

「……なんだと?」


 アーティカの言葉に、ザーフィルの頬がヒクリと引き攣った。

 しまった、これは怒らせた。悪手を打ってしまったことに気づいたアーティカが、反射的に身構える——と。

 それまで閉ざされていた屋上の木扉が、勢いよく開いてひとりの騎士装束の男があらわれたのだ。



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