第17話 大切な話をしよう
「屁理屈はおやめください! 姫様が魔女であっても……ひとから生まれた人間なのです。他人にはない力を持つからといって、ご自分をまるで怪物かなにかのように扱うのはおやめください!」
ぼろぼろと大粒の涙を流して訴えるサリアの姿に、さすがのアーティカもレンズを磨く手を止めた。
「私は姫様に、ご自分を大切にしていただきたいのです。亡国の王女としてでもなく、魔女としてでもなく。ただひとりの人間として、幸せになって欲しいのです」
アーティカに長く仕えてくれているサリアの言葉に、アーティカの人間としての心が揺れる。
揺れてざわめいて、けれど魔女としての存在に傾いているアーティカには、それが酷く煩わしかった。
ああ、痛い。心が痛い。棘が刺さっているかのようなチクチクとした痛みに、アーティカは顔を顰めてサリアを見る。
サリアは人でなしになってしまったアーティカを、まっすぐ見つめていた。
「逃亡生活中は上手く生きていたではありませんか。朝起きて食事をとり、仕事をして昼食を取りましたよね。午睡にまどろんで目覚めてから少し仕事をして、夕食をとって身を清め夜は寝る。そういう普通の人間としての生き方を、もうお忘れですか」
サリアの言葉は理解できる。気持ちだってわかる。それでもアーティカはサリアの言葉を否定した。
「でも、わたしはレンズを磨きたいの」
「それは日に、四枚も五枚も造らなければならないことなんですか」
「ええ。必要なことよ」
サリアの真摯な視線を受け止めて、アーティカはひとつ大きく頷いた。
アーティカだって、考えなしにレンズを造っているわけじゃない。目的もなく大量に磨いているわけじゃなかった。
(
その時のために、ヴィンスと再会した時のために、アーティカはレンズを磨いていた。
ヴィンスのために造った
未来観測用のレンズは、素材が物を言う。
大量に造って、特別な一枚を手元に隠す。そうして、ヴィンスと再会した時に磨き上げた特別なレンズを渡す。
ただ、それだけのために
(これがすべて無駄になったとしても、わたしがやりたいから、やるの)
アーティカの脳裏に浮かぶのは、苦しみに耐えるヴィンスの顔だ。
あの美しい顔を、彼の横顔を、押しつけられたであろう運命からくる苦痛から解放したい。そんな願いにも似た夢のために、アーティカは自分の人間性を犠牲にしている。
ほとんど失われた人間としての感性の中で、最後に残った感情はひとつだけ。
(——ああ、ヴィンスに会いたい。あの美しい魂に触れたい)
切に思い、夢に浸るアーティカの耳に、扉をノックする音が聞こえた。
こんな夜更けに部屋を訪ねてくる人間など、一人しかいない。
「アーティカ妃。ザーフィル陛下がお呼びです。——陛下の寝室へ来るように、と」
返ってきた声は案の定、皇帝ザーフィルが信を置く宦官宰相。スレイマンが告げる無情なる要求だった。
◇◆◇◆◇
肌が透けるエメラルドグリーンの薄絹衣に、スリットが入っている
女性としての凹凸や、なめらかな曲線を惜しげもなく晒す
一度目は
では、三度目は。
今度は逃げられないかもしれない、と思いながら、スレイマンが退出した自室で、アーティカはサリアに化粧をしてもらっている。テーブルの上に並べていたレンズ素材や研磨材は、すべて床の上に転がすことにして。
「……姫様。姫様はなにを望まれますか」
アーティカの唇に
なにかしらの決意を持ってアーティカに問うたことがわかるくらい、鏡越しに見るサリアの表情は暗く沈んでいる。
アーティカは胸の内をざわつかせながら、努めて明るく返した。
「わたしが望むこと? サリア、わたし……なにを聞かれているのか、わからないわ」
「姫様は
「……待って。どうして今、そんな話を」
アーティカは思わず振り返った。その視線の先で佇むサリアは、真剣な目でアーティカを見ている。
「大切な話です、姫様。……後宮では、皇帝陛下の子を孕んで産んだ妃が権力を持ち、自由になることができます」
「そんなこと、知っているわよ」
「本当にそうですか? 姫様は今、皇帝陛下に夜伽の誘いを受けているんです」
サリアがなにを言わんとしているのか。アーティカにもわかってしまった。
今、ザーフィルの後宮には、女たちの頂点として君臨すべき母后がいない。ザーフィルは父帝からその座を奪い取った際に、家族をすべて殺してしまったから。
皇帝の妻となり得る有力な妃もいない。ザーフィルが後宮を再編した際に、誰も彼もを殺してしまったから。
そういう場所で、どう生きるのか。サリアはそう問うている。
「姫様が皇帝陛下の誘いを受ける気がおありなら、私は腕によりをかけて姫様を砂漠領で一番の美姫に仕上げてみせましょう。けれど私は姫様の味方ですから、皇帝陛下が忌避するような醜女に仕上げてみせますよ」
そう言ったサリアは、片目をパチンとつむっておどけて見せた。だからアーティカも思わず吹き出して、
「ふ、ふふふ! いいわね、サリア。そうしてちょうだい!」
と。肩を揺らして笑い出し、サリアの戯言に乗ることにした。
とはいえ、ザーフィルが忌避するような醜女に仕上げようにも、アーティカが美しいことは既に知られてしまっている。
それだけじゃない。
今のアーティカは魔女として磨かれた力が外見的な美しさとなって、人間の器に収まりきらないほど溢れている。
では、どうするか。サリアは腕の見せ所だと言わんばかりに知恵を絞った。
鏡に映るシンプルな装いに仕上がった自分を見て、アーティカからポロリと不安が漏れ出した。
「ねえ、サリア。もう二度と会うことができない人に、会いたいと思ってしまうの」
胸の内からその存在を消すことができなくて、ことあるごとに思い出す。
もう会うことができない——いや、会えば生贄として砂漠の悪魔に捧げられてしまうのだから、会おうという選択すらできない
それなのに、心の奥にずっといて、ことあるごとに思い出す。自分を裏切ったヴィンスに操を立てるかのように、アーティカはザーフィルから逃れようと足掻いてしまう。
ヴィンスのことを思うたび、アーティカの胸の内は、ぎゅっと締めつけられるように痛くなる。
その痛みが、裏切られたことによるものなのか。それとも、ヴィンスの過酷な運命を憐れんでのことなのか。アーティカにはわからない。
だからどうにもできなくて、途方に暮れているのである。
「わたし、どうすればいい?」
「姫様。その方はお亡くなりに?」
「いいえ、生きているわ」
「であれば、姫様も生きて後宮を出るしかありません。生きていれば、いずれ会うこともあるでしょう。希望を捨ててはなりません」
アーティカの髪を手に取って、丁寧に梳きながら答えるサリアの言葉が静かに響く。
「それは……サリアが聖キュリエ教団の異端審問官にわたしを売ったときのように?」
「姫様……その節は大変申し訳なかったと反省しております。けれど、不思議と後悔はしていないのです」
「どうして?」
「姫様が、はじめて『他人』を見て綺麗だ、と。美しいとおっしゃったから」
ふ、と。鏡越しにサリアと目が合った。サリアは髪を梳く手を止めて、誠実な眼差しでアーティカを見ていた。
「ですから、彼らに姫様を売っても大丈夫だ、と。いえ、彼らなら姫様を魔女としての役割や、砂漠域から自由にしてくれるのではないか、と思ったのです」
サリアは、決して開き直っているわけではなかった。今まで心の内側に押し込めていた罪悪感が噴き出したかのように、その表情は暗く落ち込んでいた。
その一方で、サリアから告げられた本音に、アーティカは抱えていた鉛のような気持ちが軽くなったように思えた。
もしかしたらヴィンスにも事情があったのかもしれない。
サリアのような隠された意図や、わたしが読み切れなかった言葉があるのかもしれないのだ、と。
思い返せばアーティカは、ヴィンス本人と話して「生贄にする」と告げられたわけじゃなかった。
アーティカを古城に招いたヴィンスは、砂漠班の騎士以外は、信用するなとも言っていたじゃないか。あのときヴィンスと話していた男は、砂漠班の騎士ではなかった。
いくつもの断片が組み合わさって、一枚の絵が描かれるように、アーティカのもやつく気持ちがスッと晴れた。軽くなった気持ちの分だけ、ヴィンスのことを恋しく思う。
だから、アーティカを売ってしまったことに罪悪感を感じて目を伏せているサリアを解放したくて、アーティカは内緒話をするかのように囁いた。
「ねぇ、聞いて。わたし、サリアの英断のおかげで、素敵なひとに出会えたのよ」
それを聞いたサリアの目が途端にキラキラ輝きだすのを見て、アーティカの頬は自然と緩む。
アーティカは、ザーフィルに献上せず隠し持っていたレンズを手に乗せて、サリアにそっと差し出した。
水晶、緑柱石、蛍石。透明度の高い原石を磨いて造ったレンズたち。そして、硝子板を削って磨いた未完成のレンズも混ぜた。
幾枚ものレンズは飾りとして身につけやすいように、レンズの縁を金属で覆ってバチ環をつけてある。
「サリア、お願い。彼のために造ったこのレンズを身に纏わせて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます