第16話 寝食を忘れるほど
短い間だったけれど、人間として扱われ、人間として過ごした温かい時間を思い出して微笑むアーティカに、サリアがカッと目を開いて食いついた。
「ひ、姫様……もしかして、姫様を連れていった異端審問官と、なにかあったのですか!?」
「なにかって、なに? なにもな……い、わけじゃないけれど……」
言葉尻を濁して誤魔化すアーティカの顔は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。アーティカは並べた素材を愛でる手を止めて、熱くなった頬を両手で包んで目を伏せる。
「なにかあったんじゃないですかー! どうされたのです、心を射抜かれでもしましたか!?」
「心を射抜かれたことなんてないわ。ただ……やっぱりあの
「だ、抱きしめた!? 姫様が!? 殿方を!?」
「殿方って……。彼はわたしよりも二つ年下なのよ。そんな子供が辛い運命を背負っていたから……」
「なるほどわかりました。母性本能を刺激されたのですね、わかります。それで、その後はどうなされたのですか!?」
野次馬根性剥き出しのセリアに押され気味だったアーティカは、ゴホンとわざとらしく咳払いをした。
「ともかく、あのレンズは観測範囲を限定しているから多少は保つだろうけど……」
けれど、と呟いて、アーティカはハッとした。
未来観測レンズは、不完全で脆い。実用に耐え得るレンズを造るには、どうしたってウェネティア硝子が必要だ。今まで宝石の原石で造った未来視レンズが割れずにいたことはない。
天気予知のレンズだって、数回使えば割れてしまうのに。
「ああ、どうして試用してから出てこなかったのかしら。ああああああああ、レンズが割れでもしていたらどうしよう!」
ヴィンスが贈ってくれたヘリオドールは、上質な原石だったけれど不安は尽きない。
あのレンズを造ったときは、ヴィンスの元から離れることになるなんて思っていなかったから、気の緩みから荒さがでているかもしれない。
途端に不安に駆られたアーティカを、サリアが生暖かい目で見つめていた。
「姫様がレンズを造って差し上げた殿方を差し置いて、皇帝陛下に献上する未来予知のレンズを完璧に仕上げるつもりですか?」
サリアの問いに、アーティカは答えなかった。曖昧に微笑んで、過ぎ去りし日を思い浮かべて吐息を漏らした。
「
「では姫様、どうするのです?」
「命令されてレンズを造るなんて、気分は乗らないけれど……用意された道具と素材に罪はないもの。使ってあげなくちゃ」
アーティカはそう言うと、寝台に並べた研磨材やレンズ素材を愛おしそうに撫でて目を伏せた。
ザーフィルから大量のレンズ素材を送られた翌日から、アーティカはずっと部屋にこもったままだった。
一日、二日と経過して、昼夜問わずレンズを磨き続け、木箱の中にあった素材も今では三分の二ほどになっている。
それでもアーティカは満足せずに、ひたすらレンズを造り上げた。
素材を寝台に並べたことを理由にして「身体を伸ばして寝ることは困難だから」と言い訳をして、寝ることもなくレンズと向き合っている。
そうして三日目の朝を迎えた。
「姫様、お食事をお持ちいたしました」
後宮の厨房で手ずから食事を作り、
けれどアーティカは、食事を運んできてくれたサリアのほうなど一度も見ずに、気泡の入った水晶を磨き続けている。
レンズを磨くとき、アーティカは寝食を遠ざけがちだ。レンズの素材は山ほどあって、磨いても磨いても減りはすれどなくならない。だから余計にムキになって磨き続けてしまうから。
「姫様、お食事です!」
「ありがとう、サリア。後で食べるから寝台の上にでも置いておいてくれない?」
アーティカはレンズを磨きながら、適当に言った。もはや自分が意味のある言葉を吐き出せたのかもわからないほど、レンズに夢中になっていた。
だからかもしれない。とうとうサリアの堪忍袋の緒が切れた。
サリアは運んできた荷台車を部屋の隅に置くと、レンズに夢中になっているアーティカの手を掴んで立ち上がらせる。
「……姫様っ! レンズ造りに夢中になるのは結構ですが、お食事をとってください!」
「あっ、なにするのよ!」
「お食事を! お取りになってから! です!」
「少しくらい食べなくても死なないわ。わたし、魔女だもの」
「屁理屈はおやめください、姫様!」
サリアは首まで赤く染めて、アーティカを食事の元まで引きずってゆく。
アーティカを荷台車の前まで連れてきたサリアは、今度は椅子を引っ張って、荷台車の前に置いた。
部屋にあるテーブルは、レンズ研磨材やレンズの素材となる原石などで埋め尽くされているから、食事を乗せた荷台車をテーブル代わりにするしかない。
「食べてください、姫様。今日という今日は、お食事をお取りになるまで見張っておりますから!」
アーティカの肩を押さえて強制的に椅子に座らせたサリアが、目端を吊り上げて鼻息荒く訴えている。
「なんでもいいから、口にしてください!」というサリアの言葉が、今にも聞こえてきそう。
「……サリア、大袈裟すぎない?」
アーティカは、集中力を切らしたくないのだ。だから食事を取らず、寝もせずにレンズを磨き続けている。
魔女としての力が高まれば高まるほど、人間から離れてゆく。人らしい生活をしなくてもレンズを磨き続けることができるから。
「大袈裟なんかじゃありません! 姫様はつべこべ言わずに、食べてください!」
アーティカの人間らしい生活を巡って静かに展開された攻防は、部屋の扉をノックする音によって一時中断させられた。
きっと、スレイマンだ。
開かれた扉から顔を覗かせたのは、アーティカの読み通りスレイマンだった。
「アーティカ妃にご挨拶申し上げます。ザーフィル陛下よりともに食事を取らないか、とお誘いいただいております」
スレイマンが携えてくる言伝は、この三日間同じ言葉である。だからアーティカは、陶器のような作り物の笑顔でニコリと笑う。
「……ですが、今宵もお断りした方がよさそうですね」
「ええ、そうしてちょうだい」
「姫様……、一度くらいは皇帝陛下のお招きに応じた方がよろしいのでは」
ため息混じりにそう言ったサリアの魂胆は、アーティカにもわかっている。
サリアはアーティカに食事をとって欲しいのだ。人間らしい文明的な生活を贈って欲しいのだ。
ザーフィルの招待に応じて晩餐を共にすることになれば、入浴をして身を清め、ドレスもあらためる必要がある。そうして招かれた晩餐では、必ず一皿につき一口は食べなければ失礼にあたるから。
だからサリアは、アーティカにザーフィルとの食事を勧めたい。その気持ちはわかっている。けれど、とアーティカは首を横へ振った。
「あの男が望んだのよ。わたしにレンズを造れ、と。わたしはその望みを忠実に叶えているだけ。そうでしょう、宰相殿?」
「……ええ、そうなりますね。今のところ、あの短気な陛下がお許しになっているのですから、問題はないかと存じます」
「ほらね。心配しすぎなのよ、サリアは」
「ひ、姫様ぁ〜!」
どうしてもアーティカに食事を取らせたかったらしいサリアは、涙目になっていた。
それを横目で見ながら、アーティカは椅子から立ち上がってスレイマンと向き合う。そうして、隠し持っていたレンズを四枚手渡した。
「宰相殿、今日のレンズを献上いたします。右から、蛍石の天候予知が二枚、水晶の物質透過が一枚、
「確かに受け取りました」
スレイマンはアーティカから恭しくレンズを受け取ると、余計な会話はせずに退室していった。去り際に宰相らしい気遣いの言葉を投げて寄越しはしたけれど。
「……アーティカ妃。どうかご無理はなさらないよう。陛下も妃のお身体を心配されております」
「善処するわ」
「ひ、ひ、姫様ぁ〜〜〜!」
こうしてアーティカが食事を取るだの取らないだのという件は有耶無耶となり、それでも諦め切れないサリアの嘆きが虚しく響くのであった。
その日の夜も、アーティカは一心不乱にレンズを磨いていた。
さすがに三日の空腹は身体の臓器がギブアップを訴えて、わずかばかり食事を口にした。けれどアーティカが口にしたのは、焼いたパンひと切れだけ。
それからずっと、水しか飲まずに集中している。サリアが嘆き、悲しむ様を頭で理解はしているものの、関心が寄り添わずに向き合うことができないでいる。
「姫様ぁ……もう寝てください。食事もとらず、睡眠も取らないなんて……死んでしまいます」
サリアがグスグスと泣いている。わかっていても、アーティカが手を止めることはない。
寝ることもなく、食事も取らず、ただレンズを磨く。アーティカは自身の
それは、魔女の業である。
なにもかも忘れて、レンズを磨く。人としての形は溶けかけて、けれど溶けたままではレンズを扱えないから、常に再構成して身体の輪郭を保つ。
そのお陰で、ヴィンスの青い焔に焼かれた傷が意図せず蒸発してしまった。
なにか大切なものを失ったような気がするのに、もう、わからない。
「大丈夫よ、水は飲んでいるでしょ? 食事だってとったわ。それにサリア、わたしに付き合って起きていなくてもいいのよ」
「駄目です。私が寝てしまったら、姫様は一睡もせずレンズを磨くに決まっています。一度でものめり込むと、人間としての形を保つ努力をお忘れになるでしょう?」
「わたしは魔女だもの。人間としての形なんて知らないわ」
人間としての在り方を忘れつつあるアーティカはそう言って、心配するサリアに向かってニコリと笑うのだった。
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