第14話 魔女の本能を刺激する貢物
「……イリベリス神聖王国の近隣にある小さな都市国家、工芸と水の都ウェネティアの職人が作る高品質な硝子であれば」
絞るようなか細い声で、
ウェネティア硝子は、鉛を含まないソーダ石灰から作られる高品質な硝子だ。
過去、アーティカが未来視レンズを造ったときに使った素材も、ウェネティア硝子であった。あと時はまだ未熟で、未来視に耐えられなかったレンズは割れてしまったけれど。
「ふぅむ。なるほど、なるほどな。ウェネティアの硝子を望むか、魔女よ。——いいだろう、手配しよう」
「待って、ウェネティアの硝子よ。陸路? 海路? どうやって買い付けるの。そんなに簡単に手配だなんて……」
「できるさ。いや、無理であってもやるだけだ。そうだろう?」
お前は違うのか? という視線がアーティカに刺さる。視線が刺さった胸がドキリと跳ねた。
ザーフィルの思考は、アーティカに少し似ていた。やれるかどうかではなく、やるのだと。アーティカはその似通う思考を好ましいと思う。
一度跳ねた心臓がトクトクと早く脈打って、アーティカの言葉を奪ってしまった。アーティカはもう、ザーフィルに抗えない。それを悟ったのかザーフィルが、ふ、と嗤う。
「これが時間稼ぎであったとしても、ウェネティアの硝子が高品質で、お前が望む素材にもっとも近いことには変わらない。無理であろうとも通してみせよう」
「……あなたって、自信家なのね。素材が揃っても、わたしがレンズを造るとは限らないのに」
「いや、お前は造るさ。それが魔女だろう?」
なぜ、ザーフィルはラウフバラドの仇なのだろう。宿敵で憎まなければならない男に魔女としての本性を理解されてしまって、アーティカの鼻の奥がツンとした。
喉の奥から込み上げてくる切なさは、歓喜か怖気か。
もう無理に人の振りなどしなくてもよいのだ、と言われたような気がして、アーティカはザーフィルに縋りつくように彼の背中に腕を回した。
けれど。
「馬鹿にしないで。わたしは人間よ。悪魔を受け入れ、悪魔そのものになってしまった
アーティカは静かに怒りを吐き出して、ザーフィルの背中に爪を立てる。
サリアの手によって、まぁるく磨かれた爪ではザーフィルに碌な痛みを与えることはできなかった。
けれど、ザーフィルの拘束からは解き放たれて、アーティカは数歩下がって距離を取る。そんなアーティカを、揺れる琥珀色の視線が追った。
「……なぜだ、魔女よ」
「わたし、美しいものが好きなの。美しい魂や美しい精神を持つ人間を愛しているから」
胸を張ってそう告げて、脳裏に浮かんだのはヴィンスの姿だった。
裏切られたはずなのに、もしかしたら聞き間違いだったんじゃないか、勘違いに過ぎなくて、アーティカの早とちりだったんじゃないか、と胸の内で庇ってしまう。
あの美しいヴィンスと比べてしまえば、悪魔に成り代わりつつあるザーフィルなど、取るに足らない。
「あなたは確かに魅力的。でも、わたしが欲しいなら、わたし好みの美しさを磨いてから出直してくれないかしら」
「は、ははは……まさか振られるとはな。
「悪魔に魔女の力が通じないように、魔女には悪魔の魅了は通じない。当然、皇帝陛下はご存じだったでしょう?」
アーティカはそう言い切って、金色の紅を引いた唇の口角をにぃ、と上げた。胸の内、腹の底が熱を帯びて跳ねている。
ザーフィルに言い返してやった、と疼く歓喜と興奮が、アーティカの体温を上げていた。
形勢逆転だ。頭を抱えたザーフィルが、引き攣った顔でアーティカと対峙しているのだから。
「……魔女よ、考え直せ。ただの人間にお前の価値はわからぬ。お前の望むものを与えられるのは、俺だけだ」
「そんなこと、知ってるわ。あなたなら、ウェネティアの硝子でさえ手に入れることもできるでしょう。でも……」
そう言いながら、アーティカは目を伏せた。彼が、恋しい。彼の美しい心が恋しい。彼を思うと、自分を違えずいられるから。
伏せた目を上げたアーティカは、きらめく瑠璃色の目でザーフィルを射抜いた。
「そういうことじゃないのよ」
アーティカは冷たく言い捨てると、立ち尽くすザーフィルに背を向けて皇帝の寝室を後にした。
◇◆◇◆◇
「ひ、姫様ぁ! こんなに早くお戻りになるなんて、よろしいのですか」
ひとり部屋へ戻ったアーティカを出迎えたのは、涙で瞳を潤ませたサリアだった。
おろおろとアーティカを気遣いながら、柔らかな毛布をかけて抱きしめてくれるサリアに、アーティカは自嘲気味に笑って首を振る。
「よくはないわね。でも大丈夫、こんなことくらいで彼は、わたしの首を撥ねることはないから。偉大なる砂礫の
「姫様……、あまり自暴自棄にならないでくださいませ。なにが陛下の不興を買うかわからないのですから」
「……そうね、サリア。ごめんなさい」
アーティカは一度サリアをギュッと抱きしめて、すぐに離れた。部屋の扉の向こう側に、誰かの気配を感じたから。
「どなた? 鍵は開いているわよ」
警戒しながら扉に向かってそう告げる。と、扉の向こうから姿を見せたのは、ひと抱えほどの木箱を抱えたスレイマンだった。
スレイマンは共も連れずにひとりきり。ここは
戸惑うアーティカやサリアに気づいていながら、スレイマンは箱を抱えたまま、恭しく頭を下げた。
「失礼、魔女殿。陛下よりあなたへ贈り物があります」
「宰相殿……ここは男性の出入りが禁止されている後宮では?」
「魔女殿はまだご存じでない? 私は男性の象徴を陛下によって斬り落とされております。後宮女人を孕ませる力と凶器を持たぬ宦官です」
なんでもないことのように自分が宦官であることを告げたスレイマンに、アーティカは言葉を返せなかった。
スレイマンは得体の知れない笑みを深めると、アーティカの前で抱えていた木箱を下ろして跪いた。
「さあ魔女殿。どうか受け取っていただけませんか、中身を確かめずに拒絶することだけはおやめくださいますよう」
「あら。わたしのこと、よくわかっているのね」
木箱は色とりどりのモザイク・タイルで飾られて、所々に宝石や硝子が埋め込まれていた。木箱の中になにが入っているのか、という好奇心が疼き出す。
これも魔女の性分か。木箱の中身を確かめずにはいられないアーティカは、ひとつ息を吐き出した。
「……いいわ。サリア、箱を開けてちょうだい」
アーティカのひと声で、サリアが木箱の蓋を開けた。箱の中を興味津々の眼差しで覗き込んだサリアから、ほう、と簡単の息が漏れる。
「……まあ! 姫様、ご覧ください。きっと気に入りますよ」
「わたしは簡単に靡かないわよ。……ああ、なんてこと」
サリアに急かされるように木箱を覗いたアーティカは、思わず息を呑んだ。
もし、箱の中身がドレスなら。アーティカはザーフィルへの関心を完全に失っていただろう。
もし、箱の中身がただの宝石ならば。アーティカはザーフィルに失望しただろう。
けれど。
ザーフィルがアーティカに贈ったものは、いくつものゴロリとした色気のない宝石の原石と、その原石を磨くための研磨材だった。それから、ウェネティアの硝子に比べれば質は劣るものの、硝子板も少し入っていた。
(こんな……こんなことで、わたしは揺らがない。けれど、でも!)
数えきれないほどの原石と硝子板、そして研磨材があれば、いくらでもレンズを造れるではないか。
アーティカの頭の中は、造ってみたいレンズや、付与してみたい
ウズウズとニヤける口元を隠せない。心臓がドクドクと脈打っている。手のひらだって、しっとりと汗を掻きはじめていた。
こんな物で懐柔されてはならない、と思う一方で、利己的なアーティカが「別にいいんじゃない?」と囁いている。
そんなアーティカに、跪いたままのスレイマンが、顔を下げたままで真摯に告げた。
「魔女殿。先ほどの陛下の態度は性急すぎました。代わりであっても謝ることはできませんが、どうか陛下のお心の欠片だけでも受け入れてくださいませんか」
スレイマンの真剣さに、アーティカの彷徨っていた理性が姿勢を正す。物欲を頭の中から追い出した理性は、アーティカの首を横へ振らせていた。
「……
「ああ見えて陛下は寂しかったのです。悪魔の心臓を抱え、いつまた裏切られるかわからない。悩みを打ち明けて下さることもなく、同類もいない」
まるで自分ごとのように告げられるザーフィルの話を、アーティカは静かに聞いた。
悩みを打ち明けることもできず、同類もいない。
それは、アーティカにも身に覚えのある辛さだったから。国のためという理由で、家族に未来視レンズの製作を望まれていた頃のアーティカは、確かに寂しい思いと窮屈さを抱えていたから。
心が揺らぐアーティカにできた隙を、スレイマンは見逃さなかった。彼は健気に眉を寄せ、縋るような表情でアーティカに言った。
「そこへ
まるで、アーティカこそが希望だ、と言わんばかりのスレイマンの表情と声に、アーティカは奥歯をキツく噛み締めた。
◇◆◇◆◇
一方その頃、マダールの街の郊外にある古城の
「皆、聞いてくれ。ここに集まってもらったのは、私がもっとも信頼を置く騎士たちだ」
ヴィンスが広間に呼び寄せたのは、
決して多くはないけれど少なくもない騎士たちの視線を受けたヴィンスは、ただ、自分のためだけに言葉を紡いだ。
「私はこれから、アーティカを奪還すべく
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