第12話 未来を確定させるレンズ
アーティカが去った古城では、ヴィンスが青褪めた顔で執務机を拳で殴りつけていた。振り上げた拳が仮面を掠めて、執務机の上にカツリと落ちる。
「アーティカ……っ、アーティカはまだ見つからないのか!」
オーク材で作られた執務机は硬く、力任せに叩いたヴィンスの拳はじぃんと痺れていた。痛みを味わいながら深く息を吐き出したヴィンスが、投げやりに椅子に身体を預ける。
「局長、騒ぎすぎですぜ」
いつ部屋に入ってきたのか。ジャックが扉を背にして腕組みをしながらヴィンスを見ていた。
ジャックの顔には、幼い子供の癇癪を眺めるような寛大さと失笑が浮かんでいる。ヴィンスは思わず目を伏せて、気まずそうに下唇を噛んだ。
「お嬢さんの行方は今、砂漠班の奴らに探させているが……あんたが騒ぐと古城班に怪しまれるぞ」
「……っ、だが! 街の噂では、マダールの近くまでディマシュカの皇軍が来ているらしい、って……危険だ」
「それとこれに、なんの関係があるんです?」
ジャックの冷徹な言葉に、ヴィンスはハッと息を呑む。呑んだ息が肺に落ちて、ヴィンスはようやく自分が取り乱していたことを自覚した。
いけない、人の上に立つ人間は、いつだって冷静であるべきなのに。ヴィンスは深呼吸を二回して、熱くなっていた頭を冷やす。
その上で、ヴィンスはジャックの指摘を否定するように首を横へ振った。
「アーティカの国は、アーティカを欲した皇帝によって滅ぼされたと聞いた。皇帝はアーティカを狙っている。今でも探しているに違いない」
「それならいっそ、砂礫の皇軍にお嬢さんが見つかったほうがよろしいのでは?」
「なぜ、そんなことを?」
「本国の母君に、魔女を生贄にするよう強制されたのでは?」
「……さすがだな、ジャック。耳が早い」
ヴィンスの守り役であるジャックは、その大柄な身体と陽気な顔立ちを利用して、雑な性格であるかのように振る舞っている。けれど、その本質は諜報能力にある。
なんの力もない幼いヴィンスが生き残れたのも、すべてジャックのおかげだ。
だから、ヴィンスがまだ打ち明けていない話をジャックが知っていたとしても、なんの不思議もない。
「俺が知っている、ということは、お嬢さんも知ってしまった、ということでは?」
「そんな、まさか……」
けれど、思い当たる節にヴィンスの眉間に皺が寄る。ヴィンスは顎をさすりながら、頭を巡らせた。
「いや、そうかもしれない。アーティカの行方がわからなくなったのは、私が母の使者と話をした後からだ」
「ははは。魔女のいる空間で、不用心に内緒話をするからですぜ。局長の失態だなー」
ケラケラ笑うジャックの気楽さが、今のヴィンスには自分を責めているように思えて、知らず知らずのうちに奥歯を噛んでいた。
収めたはずの苛立ちが再び沸き起こる。燻んだ色の金髪を掻きむしろうとしたところで、扉をノックする音が聞こえた。
咳払いをひとつして「どうぞ」と告げると、部屋に入ってきたのはエラだった。
「ヴィンス局長、アーティカ様らしき女性がマダールの街を出たという情報を得ました」
「エラ、ご苦労だった。アーティカはひとりで街を出たのか?」
「いえ、それが……」
エラが気まずそうに、ヴィンスから視線を逸らす。
「どうした、エラ。……もしかして、アーティカはひとりじゃないのか?」
「はい。ザフという若者とともに街を出たようです。ディマシュカ皇軍が一時的に接収しているネロテアの街へ向かった、と」
「なんてことだ、アーティカ……」
ヴィンスは、古城から姿を消した魔女の名を呼びながら石造りの天井を見上げ、嘆息した。
そうして一度、目を瞑る。
ジャックのいう通り、このまま
魔女を生贄にして悪魔を退けるだなんて。そんな言葉は体裁のいい嘘だ。彼らの狙いは、ヴィンスに宿る悪魔の力の強化だ。
ヴィンスは知っている。自分の目にどうして悪魔が宿ってしまったのか、を。
母や教団の人間は、ヴィンスが母胎にいたときに悪魔に魅入られた、と言っているけれど、それは違う。
(どうせ彼らは嘘ばかり。嘘にまみれた聖職者など、滅ぼしてやりたい)
ヴィンスは、執務机に落ちた仮面を手に取ると、アーティカが造り上げた不可視のレンズをそっと撫でた。
ようやく見つけた不可視の力を持つ
そんなアーティカに、なにを聞かせた? 助けてくれた恩人を生贄にするだなんて話を、不用意に聞かせたのはヴィンスの失態だ。仮の身分であるとはいえ、魔女や魔術師の類にのエキスパートである異端審問官であるのに、アーティカが持つ力を侮っていた。
ヴィンスは深呼吸を何度もしてから、アーティカが残したレンズが収まっている半仮面を身につける。少しでもアーティカの優しさを感じていたかった。
すると、である。黄緑色のレンズの向こうに、
(これは……これが未来視か!)
黄緑色をした景色の中に、ヴィンスはアーティカの姿を視た。
ここにはいないアーティカは、聖王国風のドレスではなく、砂漠の
場所はどこか。時間はいつか。美しいモザイク・タイルや白亜の壁。毛足の長い絨毯に、贅沢を極めたような装飾品の数々。窓からは月明かりが差し込んでいる。
すべてが燃えていた。青い焔で燃え盛る廊下を駆け抜け、長い長い階段を登る。
(
ヴィンスにしか視えない未来の中。燃え盛る塔の屋上で、青い焔に囲まれていたアーティカは、
思わず駆け寄ってアーティカを救いたい……そう思っても、ヴィンスの足は現在に貼りつけられて一歩も動くことはできない。
そうして、頬に太刀傷が残るその武人がアーティカに向かって曲刀を振り上げたところで——未来視は途切れた。
「……アーティカは、砂礫の帝国に囚われた。そうか、ザフという男……その男がアーティカを連れ去ってネロテアにいる皇軍に引き渡したのか」
「局長、なにか視えたのですか」
「ああ、視えた。
レンズが視せた未来が、どれくらい先の未来なのかはわからない。
ヴィンスがわかるのは、今視た未来を現実のものにさせてはならない、ということだけ。レンズで観測した以上、アーティカがなんらかの理由で斬りつけられることは確定してしまったのだから。
でも、どうすればいい? 惑うヴィンスになにを思ったか。ジャックが陽気な態度で近づいて、ヴィンスの肩を組んでニヤリと笑った。
「お、なんだ? あのお嬢さんを取り戻しにでも行くか?」
「やめなさい、ジャック。ですが、私もジャックに賛同いたします。あとはヴィンス局長がどうしたいか、では?」
「私は……」
か細く呟いた声が耳の奥でこだまする。
私は一体、どうしたいのだ。頭の中で反響する声は、果たして自分の声か悪魔の声か。
悪魔の力を宿して生まれたヴィンスを、アーティカは優しく抱きしめてくれた。苦痛と苦難しかない運命を変えようとレンズを授けてくれた。
だから。
「私は、アーティカを助けたい。私の未来を救おうとしてくれた魔女を、私が救いたい」
◇◆◇◆◇
ネロテアの街で皇軍に捕らえられたアーティカは、ディマシュカの都にいた。
一日半もの行程を駱駝で行くのか、と絶望したのは束の間で、ザーフィルの手配によって砂漠馬が調達され、アーティカはなんの問題もなく都へ連行されたのである。
ディマシュカの都クレセベテヒは、美しい都だ。
潤沢に湧き出る泉を一般開放しており、誰でも水を使うことができる。上下水道が完備されており、衛生面にも気を遣っていることが窺い知れた。
そんなクレセベヒテの中心に建つ宮殿。その奥の宮。
温かい蒸気で満たされた
その間、サリアはずっと泣いていた。
「姫様……申し訳ありません」
サリアは、ぐすぐすと鼻を鳴らし嗚咽を漏らしながら、それでも決してアーティカを磨き、清め、身形を整える手は止めない。
ザーフィルから、アーティカを美しく磨くよう命じられているから。
だからアーティカは、脱衣所に用意された
「いいのよ、泣かないでサリア。あなたの主人は、もうわたしじゃないもの。サリアは命じられた仕事をしているだけ。そうでしょ?」
「ひ、姫様ぁ……!」
「奴隷商館での身繕いの続きだと思えばいいの。ただ、それだけのことよ」
もしかしたら、後宮へ来ることは定められた運命だったのかもしれない。
アーティカがヴィンスと過ごした数日は、きっと最後の自由だったのだ。夢のような刻を思い出すと、アーティカの胸がツキリと痛んだ。
痛みを抱えながら、アーティカはサリアにされるがままに着飾った。露出の多い琥珀色の薄絹のドレス。胸衣と
アーティカが身じろぐたびにシャラリと鳴るコイン、ふわりと揺れるショール。ザーフィルの目の色と同じ色のドレスを身につけて、金色の紅を唇に引く。
なんて主張の強い装いか。ヴィンスの気遣いとは大違いだ。彼は、アーティカに似合う色合いのドレスやアクセサリーを与えてくれたのに。
そうして美しく着飾ったアーティカは、部屋の外で控えていたスレイマンに連れられて、ザーフィルがいる寝室へ連れて行かれたのである。
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