第11話 お前のためにやったのだ

 マダールの街からひと晩かけて辿り着いたネロテアの街。

 街に住人の姿はなく、砂礫の帝国ディマシュカの兵をあらわす真紅のサッシュを腰に巻いた哨兵が、街の門を守っていた。


「……なんだか、物々しいわね」


 ザフに抱き抱えられるようにして駱駝に乗ったアーティカは、そのまま街の中央へ向かう。

 中央広場にはいつくものテントが立ち並び、最奥に汚れひとつない大きな白亜のテントが立っていた。そのテントには、皇帝を示す軍旗がばたばたと風に煽られ翻っている。

 皇軍がネロテアの街を徴収したのは本当だった。

 いったい、なんのために? 浮かんだ疑問は、駱駝の激しい揺れとともに霧散する。アーティカは青褪めた顔で半目のまま、ネロテアの街を無感動に眺めることしかできない。

 アーティカが駱駝の揺れに耐えている間に、ザフはテント群の前に手際よく駱駝をとめた。


「アーティカ、大丈夫か? 君の親戚はどこかな。探すのを手伝おう」

「……えっ? ……それは、えっと……」


 ネロテアの街にアーティカの親戚などいない。マダールの街で咄嗟に吐いた嘘が、アーティカを苦しめている。

 どうしよう。言い訳を考える余裕なんて少しもなかった。アーティカは、完全に駱駝にしてやられていたから。

 焦るアーティカに、ザフが人のよさそうな笑みを浮かべて「どうしたんだ?」だなんて聞いてくる。

 困り果てたアーティカに、ザフが爽やかな笑みを向けた。いつの間にか、ザフの琥珀色の双眸が黄金色に妖しく輝いている。


「手伝うよ。君の親戚が本当にネロテアにいるならな」

「……っ!」


 ザフの言葉に、アーティカの背筋がゾゾゾと凍った。

 駱駝を降りるアーティカに手を貸すこの男は、本当にザフなのか。好青年の笑みを浮かべているけれど、黄金色の目は笑っていない。いや、嗤っていた。

 気づけばアーティカは、周囲を皇軍に囲まれていた。


「スレイマン、女をここに連れて来い」


 まるで人が変わったかのような冷徹な目と声。ザフの呼びかけに呼応するように、ひとりの年若い青年が動いた。

 スレイマンと呼ばれた線が細く無表情な青年は、すぐに近くのテントの中から女性をひとり連れ出し戻って来た。


「陛下、連れて参りました」


 スレイマンに連れてこられた女性を見て、アーティカは思わず息を呑み、そして声を漏らした。


「あぁ……そんな……」

「姫様……っ! アーティカ姫様っ!」


 そこには、聖キュリエ教団の異端審問官にアーティカの身柄を売った裏切り者——サリアが、涙を流して立っていた。



 サリアと再会したアーティカは、裏切り者であるサリアと二人、テントに押し込まれていた。

 気まずい空気が漂うテントの入り口には見張りの兵が立っていて、逃げ出すことはできない。

 ザフ——いや、皇帝ザーフィルは、アーティカになにを望んでいるのか。どうしてここにサリアがいるのか。アーティカは警戒しながら、サリアに話しかけた。


「サリア……無事だったのね」

「はい。姫様の残したレンズのおかげで元ご主人様マルワーンが踏み止まり、死の嵐シムーンに呑まれずすみました。あのまま予定通りに後宮へ向かっていたらと思うと……ゾッとします」

「そう……よかった」


 サリアの目は、再会してからずっと涙で濡れている。けれど対するアーティカの目は渇いたままだ。

 アーティカは冷めた目でサリアを見ていた。涙で頬を濡らす彼女を見ても、ザーフィルへの警戒が働いて少しも感情が動かない。

 そんなアーティカの手を、サリアが涙ぐみながらそっと握りしめた。


「姫様も無事でよかった……でも、皇帝の手からは逃げられなかったのですね」

「……えっ?」

「申し訳ありませんでした、姫様。姫様が異端審問官に連れて行かれれば、後宮へ行かずともよくなると思って、姫様が魔女である、と。私が浅はかでした」

「サリア……もしかして、わたしのために?」


 アーティカの心臓が、どくりと跳ねた。そのままトトトと鼓動して、瑠璃色の瞳が激しく揺れた。

 はかなくニコリと笑うサリアに、アーティカの警戒心が、ふと緩む。凍っていた感情が溶け出して、アーティカはサリアを優しく抱きしめた。


「ああっ……そんな、そうだったのね。サリア……ごめんなさい、てっきり裏切られたものだとばかり……」

「いいんです、姫様。なにも告げなかった私も悪いのです。そんな浅慮な考えだったから、結局、姫様も捕らえられてしまった」

「サリア、違う。サリアのせいじゃないの……わたしが、わたしが考えなしだったから」


 サリアは裏切っていなかった。アーティカは、自分の唇を噛み締めて何度も首を横へ振りながら、サリアの背中を大きく撫でた。

 アーティカが謝罪を重ねようと開いた口は、けれど言葉を発する前に閉ざされた。


「もういいかな、お嬢さん方。皇帝——ザーフィル陛下がお待ちです」


 テントの入り口がばさりと開いて、彫刻のように表情の硬いスレイマンが顔を覗かせたから。

 スレイマンは無表情のまま、アーティカだけを連れ出した。ザーフィルの元へ行くために。



 ネロテアの街に立ち並ぶテント群の中で、ひときわ目立つ白亜のテント。それが砂礫の帝国ディマシュカの皇帝スルタンが滞在するテントである。

 アーティカはサリアと引き離されてただひとり、白亜のテントに連行された。

 拘束されるようなことはなく、腰に曲刀シャムシールを下げた赤髪の兵士に連れられたアーティカは、テントの入り口に下げられた布をくぐった。

 中へ入ったのはアーティカだけ。広いテントの中では、簡易的な玉座にゆるりと座るザーフィルが共を連れずに待っていた。

 ああ、舐められている。たかが女ひとり、どうってことないのだ。アーティカの目元は、今にもひくりと痙攣しそうだった。


「アーティカ・アッ=サーイグ、精霊信仰の本拠地であるラウフバラドの姫君よ。砂漠の旅は楽しめたか?」


 ニヤリと嗤うザーフィルの前で、アーティカは礼もせずに立ったまま。


「ザフ……いえ、ザーフィル・アル=バウワーブ皇帝。まさか皇帝自ら、ただの亡国の王女を捕らえに来るなんて思っていなかったわ」

「ははは、そうだろう? だからお前を捕えることができたんじゃないか」


 嫌味混じりの言葉を受けても、ザーフィルは嗤ったままだ。

 そこには、ともに砂漠の夜を越えたザフはいなく、アーティカの祖国ラウフバラドを滅ぼした皇帝としてのザーフィルしかいない。

 ザフという好青年が虚構であったことが、物悲しい。ほんの少し寂しさを覚えて、アーティカは目の前の皇帝に問うた。


「……マダールの原石店の店主は、あなたの諜報員なの?」

「あの爺は善良なる帝国民だ、なにも知らない。不可視の魔女が美しく磨かれた宝石よりも、不恰好な原石を好むと聞いていたからな。あの爺含め、周りの店主たちに協力を願っただけさ」


 魔女を求める皇帝の包囲網は、思っていたよりも静かに張り巡らされていた、ということか。

 あの時は、ヴィンスに裏切られて傷心していた。だから判断力が鈍っていたのかもしれない。アーティカは無意識に奥歯を噛んでいた。

 ああ、ヴィンスは今頃どうしているだろう。急に姿を消した魔女を、どう思っているだろう。次に逢ってしまったら、今度こそ魔女として殺されるのだろうか。


「魔女よ。異国のドレスを着て異国人と腕を組み、宝石ではなく原石に目を輝かせていたお前は、どの客よりも目立って印象的だったそうだ」


 くくくと喉で嗤うザーフィルに、アーティカの顔が引き攣った。


「……あなた、随分とわたしのことを調べたのね。そんなにわたしに興味があるの?」

「あるさ、あるとも。お前を手に入れるためにお前の国を焼いた。わざわざ楔石を引き抜いて、俺の宮殿の庭に打ち立ててやった。お前のために後宮も整えた。……まあ、多少、人手不足なのは否めないが」

「だから感謝して、自分のものになれと? ——冗談じゃないわ!」


 傲慢なザーフィルの言葉に、今度はアーティカが声を荒げて叫んだ。カッと頭に血が上り、アーティカの背中が燃えるように熱くなる。


「あなたは楔石がどんな役割を担っていたのか知らずに抜いた。だからそんな無意味で馬鹿なことができただけ!」

「……なんだと?」

「楔石はラウフバラドの宮殿になければならなかった。いいえ、楔石がある場所に宮殿を建てたのよ。それなのに、それなのに……! もう、なにもかも意味をなさない。奇跡と神秘の時代は、すぐに終わりを告げるでしょう」

「……それがどうしたというのだ? この世から精霊ジンが消えても悪魔シャイターンは消えない。奇跡と神秘が失われたとして、お前の魔女としての力は不滅だ。魔女の力の源流は、悪魔の力と同じもの。そうだろう?」

「……っ」


 アーティカの言葉が、喉の奥のほうで絡まった。

 なぜ、皇帝とはいえ、たかが人間であるザーフィルが魔女と悪魔の関係を知っているのか。アーティカの背筋をゾゾゾと嫌な予感が駆け上がる。

 怒り心頭であったアーティカが、急に警戒心を露わにしたことで、ザーフィルの顔に浮かんだ笑みが深くなる。


「お前は、お前のために国が滅び、家族や民が死んだことを悲しんでいるのか? 精霊が消えゆく未来を本気で嘆き悲しんでいるのか? 違うだろう? お前は少しも悲しんでいない。手に入れた異界の知識を、技術を、思うがままに振るいたい。そう思っているはずだ」

「そんな、ことは……」

「言い訳をするな。それが魔女という生き物だ。俺はすべて承知している。魔女であるお前の本性を愛してやれる」


 ザーフィルが玉座からゆらりと立ち上がり、アーティカの元へと踏み出した。

 アーティカはザーフィルとの距離が縮まってゆくのを、ただ見ていることしかできない。もう、なにも考えられなかった。追い詰められた獣のように息を殺し、身動きひとつできないでいる。


「アーティカ、俺がお前の望む未来を創ってやろう」


 悠然と嗤うザーフィルがアーティカの手を取り、指先へ口付けながら、そう告げた。アーティカを見つめる黄金色の双眸が、妖しくギラリと輝いていた。



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