第10話 逃亡。そして出会い

「はぁ……、はぁ……っ」


 石造りの無人の廊下にアーティカの呼吸が響く。

 見知らぬ男と言葉を交わすヴィンスの会話を偶然聞いてしまったアーティカは、生命の危機を感じていた。

 早くここから逃げなければ。焦る気持ちに足がもつれ、着慣れない神聖国風のドレスに絡む。

 あっ、と息を呑んでいるあいだに、アーティカは無様に膝から転んでしまった。


「痛ぁ……っ、……もう!」


 膝を打った痛みと悔しさで、アーティカの目尻が滲む。

 行き場のない怒りを石造りの廊下を叩くことで発散させた。けれど、かえって手のひらを痛めてしまって、アーティカは苦々しく顔を顰めた。

 この古城が、異端審問官の城が、安住の地だとは思っていなかった。それでも、また逃亡生活を送るのか、と思うと気が滅入る。


「……逃げなきゃ。まだ罪を償えていないのに、死ぬわけにはいかない」


 魔女の魔術クラフトを、人の技巧クラフトだけで再現させること。

 それが、最期の世代の魔女の務めだ。そう信じて生きてきた。自分の罪を償うには、それしかない、と。

 でも、どうやって? ——滅びゆく国から逃げ出したあの時と同じことをすればいい。

 アーティカは手のひらに魔力を集め、廊下にぺたりと押しつけた。神経を研ぎ澄ませ、目蓋の裏に未来を投影する。


(この先は……駄目、まっすぐ進んだらジャックに見つかるわ)


 不可視の力を持つ魔女が、その力を自分のために使ったら。

 当然、魔力を流して読み取った未来が視える。古城の構造を透視することだってできる。

 レンズを通した未来は、観測した時点で確定されてしまうけれど、魔女の目は特別だ。

 目で視る未来は変えられて、レンズで視る未来は変えられない。変えられる自分の未来だって、数秒先から長くても数分先の未来だけ。

 アーティカは額に汗を滲ませながら、深呼吸をして立ち上がった。今は無力感からくる感傷に浸っている場合じゃない。

 数分先の未来でジャックと鉢合わせすることを避けるために、まっすぐ進まず廊下を曲がる。それが遠回りであっても、アーティカは気にしない。

 逃げること。生きて逃げのびること。それが大事だ。

 しばらく廊下を進んで右に折れる角に来たところで、アーティカは再び不可視の力を使った。


(ここは隠れてエラをやり過ごさなければ)


 少し戻って空き部屋に隠れ、エラが通り過ぎるのを待つ。息を止めて、一秒、二秒。三秒数えてから、アーティカはそっと廊下へ戻った。

 大丈夫、誰もいない。

 そうして同じことを何度も何度も繰り返し、陽が傾くころ。ようやくアーティカは古城を抜け出すことに成功したのである。


◇◆◇◆◇


 ヴィンスと歩いた夜市ナイトマーケットを、今日はアーティカひとりで歩く。

 行き交う人々は笑顔で明るく、出店や露店が立ち並ぶ通りはランタンの灯りが揺れている。活気あふれる夜市で、アーティカだけが俯いていた。


「神聖国風のドレス……売れるかしら」


 着の身着のままで古城を出てしまったアーティカは、夜市の中で目立っていた。

 黒く波打つ髪と小麦色の肌を持つ砂漠の民が、神聖国風のドレスを身にまとっているのだ。目立つに決まっている。

 昨日は肌が白く髪の色も燻んでいるとはいえ金の髪をしたヴィンスが隣にいたから、アーティカが目立つことがなかっただけ。

 早急に服装をどうにかしなければ。と、アーティカは考えて、夜市を彷徨い歩いている。


「なあ、知ってるか。ディマシュカの皇帝が近くまで来ているらしい」

「なんだってこんなところに? 砂漠の切れ目から北側は、もう隣の国だってのに。皇帝は神聖王国イリベリスに戦争でも仕掛けるのか?」

「そうなったら、マダールの街は今にも増して潤うぞ。俺は歓迎だね」


 ははは、と笑う男たちを横目に見ながら、アーティカはある店を探していた。

 半年前まで二年半。サリアとともに逃亡生活を送っていたアーティカは、大抵の物なら換金できることを知っていたから。

 だからこの夜市にだって、古着ドレスを買い取って換金し、ついでに砂漠の民が着るゆったりとした普段着を売ってくれる店があるはずだ。

 アーティカが左右に首を振りながら歩いていると、聞き覚えのある声が彼女を呼び止めた。 


「おや、お嬢さん。今日はひとりかい? どうだい、原石でも見て行くかい」


 原石屋の店主が、皺がたくさん刻まれた浅黒い顔で朗らかに笑っていた。


「あっ、原石商のおじさま。……ごめんなさい、急いでいるの」

「なんだい、困り事かい? ワシでよけりゃ、手助けしようか」

「それなら……マダールの街で一番高くこのドレスを買ってくれる店はどこか知ってる?」

「それならいい奴がいる。ザフ、困っているお嬢さんを助けてやってくれ」


 店主が後ろを向いて、誰かを呼んだ。呼ばれて出てきたのは若い男がひとり。

 ザフと呼ばれた青年は、店主の手伝いをしていたようで、いくつもの原石をごろごろと詰め込んだ木箱を抱えながら、露店の後ろから姿をあらわした。

 白い纏布ターバンを巻いて髪をすべて仕舞い込み、琥珀色の目を細めた朗らかな笑みがよく似合う年上の青年だった。


「ん? ……珍しい服を着ているんだな、お嬢さん。そのドレスを売りたいのか?」

「そう、そうなの。このドレスと普段着を交換してもいいの」

「なら、俺について来な」


 そうしてアーティカが、ザフに言われるがまま後をついて行くと、古着屋に辿り着いた。

 マダールの街の路地裏にひっそりと建っていた。その店で神聖国風のドレスを売り、得たお金で砂漠の民が好んで着る長衣アバーヤを買う。いくつもある長衣の中から、真昼の空のような青生地に、錦糸で裾が縁取られている長衣を選んだ。

 古着屋で着替えも済ませたアーティカは、原石屋に戻ろうとするザフを引き留めるように言った。


「ザフ、もう一つ助けてくれる? 服を買って余ったお金で駱駝に乗りたいの」

「お嬢さん、旅ははじめてか? 癇癪起こして家出をするなら、もう少し備えてからのほうがいい。砂漠は危険だ」

「そんなこと、知ってるわ。でも……行かなきゃいけないの」


 このままマダールの街にとどまっていれば、いずれヴィンスたちに見つかってしまう。

 そうなればアーティカは古城に連れ戻されて、今度は自由を奪われるだろう。自由だけじゃない、生命だって危うい。

 決意に満ちてきらめく瑠璃色の目を見て、ザフがなにを思ったか。ザフは興味深そうに笑うと、髭のないつるりとした顎をひと撫でして口を開いた。


「……へえ、そうか。なら仕方がないな。どこに行きたいんだ? 東は数日前に砂嵐に襲われて復興中だし、北は神聖王国、西は海だぞ」

「えっ、えっと……み、南! 南の方へ行きたいのだけど!」

「南……というと、ネロテアの街か? へぇ……あんな辺鄙な街にお嬢さんひとりで?」

「そ、そうよ。ネロテアの親戚に会いに行くの」


 アーティカは、咄嗟にそう言った。

 ネロテアにアーティカの親戚などいない。アーティカの家族や親族は、すべて砂礫の帝国ディマシュカの皇帝に殺されたのだから。

 今はマダールの街から離れることができればいい。そんなアーティカの打算が透けて見えたのか。ザフの琥珀色の双眸がすぅっと細まった。


「親戚、ねぇ。……お嬢さん、ネロテアの街はつい昨日、ディマシュカの皇軍に徴収されたらしいけど」

「……っ!?」

「それでもいいなら、俺が送ろう。お嬢さんひとりじゃ、心配だ」


 ザフはそう告げてニコリと笑うと、右手をアーティカに差し出した。

 もし、ここで断れば、きっと怪しまれる。アーティカは無意識のうちに右手に魔力を這わせ、ザフの手を握っていた。

 握った手からは、なにも読み取れない。不吉な未来は視えなかった。だからアーティカは安堵して、こくりと頷いた。


「……お願いするわ」

「それなら決まりだ。お嬢さん、名前を聞いても?」

「わたしはアーティカ。よろしくね、ザフ」



 マダールの街を出たアーティカとザフは、満点の星空の下、一頭の駱駝の上でゆらゆらと揺れていた。

 駱駝のコブはひとつだけ。そこへ鞍と手綱をつけて荷物をくくる。駱駝に乗ったことがないアーティカは、ザフに抱えられるようにして駱駝に跨っていた。

 砂漠を行く駱駝は、決して乗り心地がいいとは言えない。上下左右に揺れて、気持ちが悪い。アーティカは青い顔で駱駝にしがみついている。

 砂漠馬で夜の砂漠を走破したときとは、まるで違う。苦行のような行程だ。


「アーティカ、もしかして駱駝に乗るのははじめてかい?」


 死にそうな顔をして口元を押さえるアーティカを見て、けらけらとザフが笑う。

 ぐらぐら揺れて身体の中身がシャッフルされているはずなのに、どうしてザフは平気なのか。アーティカは恨みがましい目でザフを睨んだ。


「……は、話かけないで。出ちゃ駄目なものが出そう……うっぷ」

「ははは、面白いな。そんなんで駱駝に乗ろうとしたたのか。それに、駱駝酔いをしている人間なんて、はじめて見たよ。アーティカ、そんな調子でマダールにはどうやってたどり着いたんだ?」

「それは……砂漠馬に乗って、駆けて、きた、から……」

「へぇ、砂漠馬。凄いなぁ、アーティカ! もしかして、どこかのお姫様? 何頭いる?」

「わたしの馬じゃ、ないわ……馬は……ああ駄目、本当に駄目、出そう……うぅ」


 アーティカは想像以上に揺れる駱駝に対応することで精一杯で、ザフの何気ない会話に馬鹿正直に答えてしまっていた。

 王族や豪族、大商人でもない砂漠の民が、馬を所有することなどできないことも、頭の中から飛んでいた。

 青褪めた顔でぐったりするアーティカの姿に、さすがにこれ以上は世間話などできないことに気づいたザフから、苦々しい笑みが漏れる。


「ごめんごめん、これで最後にするから。……アーティカ、君の連れは?」

「わたしはひとり……よ。……ひとりに、なっちゃった……」

「そうか、ひとりか。それならよかった」


 ぼそりと呟いたザフの目は、人々を魅了する黄金のように妖しく光り、そして——愉しそうに嗤っていた。



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