第9話 不可視の魔女が造るレンズ
宝石職人が手で磨くよりも短時間で削られ磨かれたヘリオドールは、魔力的な補強もあってアーティカの手のひらでまぁるく輝いていた。
黄緑色が透ける美しいレンズだ。
「これは……綺麗だ」
「でしょう!? ひとは魔術や神秘に頼らなくても、理論と技術だけでここまで美しいものを作れるのよ。まあ、わたしは少し魔術の力を使っているけれど」
ヴィンスが、磨かれた二枚のレンズをうっとりと見つめている。
アーティカはひとつのヘリオドールから作られた二枚のレンズを、そっと差し出した。
「ヴィンス、これを。どれだけ使えるかわからないけれど」
「アーティカ、このレンズでどうやって未来を視ればいい。私は悪魔憑きだが、魔力を持っているわけじゃないんだ」
「ヴィンス、あなたの力は
アーティカは、ふう、と短く息を吐く。それは諦めなんかじゃなかった。アーティカはヴィンスの魂の気高さと強さを知っている。
だから、ヴィンスの美しい生き方に恥じぬよう、堂々と言った。
「わたしのレンズを舐めないで。魔力がなくても未来は視える」
「だがアーティカ。レンズ片手に戦場を駆け回ることは難しい」
「アーティカ様。レンズは必ず一枚でなければいけませんか?」
それまで黙ってレンズを見ていたエラの質問に、アーティカは否定するように首をひと振りする。
「そんなことはないわ。ただ、二枚重ねても精度や強度が上がるわけじゃないの」
「ヴィンス局長。レンズを二枚、お借りしても?」
「エラ、なにをするつもりだ?」
「ジャック、局長の目を直視しないために使っている
エラはヴィンスから二枚のレンズを、ジャックからは半仮面を受け取った。
そうして、半仮面の眼部の窪みにはめられた
「これで手元は空くでしょう。いかがですか?」
「ああ、これなら確かに両手が空く。問題ない。……心なしか、遠方がよく見える気がするんだが、アーティカ、これは?」
半仮面を身につけたヴィンスの碧眼が、レンズの奥でパチパチと瞬く。
ヴィンスから飛んできた疑問に、アーティカは待ってましたとばかりに勢い勇んでヴィンスの無防備な両手をがしりと掴んだ。
「それが本来のレンズ——単焦点の球面レンズの力なのです! 中心部を見てください、レンズ面の中心がもっとも美しく視えるポイントです。……周辺部を使ってみた場合は、その……少し歪んで見えてしまうのですけれど、そこもまた、可愛いというか、人が作ったもの特有の愛しさがあるというか!」
「そ、そうなのか」
「そうなんです! レンズを通すと光が屈折するわけなのですが、その屈折を利用して焦点位置をずらすことでモノの見え方を制御することができるんです。今回は遠方、それも距離を超えた遥か彼方……未来を視るということなので、レンズの種類は凹レンズで調整したんですよ!」
「あ、アーティカ。このレンズにデメリットはあるのか?」
「あります。……ヘリオドールを使うことで視界を明るくできるのですが、その分、真昼の砂漠では目が疲れてしまうかもしれません。暗い屋内や雨天では最適なのです。黄色系は青色の光である短波長をカットして中間波長を補強できますから、結果的にコントラストが上がるんです。砂漠のような日差しの強い青天時によく視えるレンズをご希望でしたら、ブルーカラーのレンズがいいですね。……作りましょうか?」
アーティカは真顔で言った。アーティカの真剣さに畏れをなしたか、ヴィンスが慌てて首を振る。
「い、いや……アーティカが作ってくれたレンズで十分だよ」
「そうですか……。ヴィンス、そのレンズは試作も試作。ヴィンスの感情の揺らぎを感じ取って、振れ幅が大きい時に未来を映す仕組みになっています。日常生活に困ることがあったら教えてください、いくらでも調整しますから」
アーティカは魔女としての顔で柔らかに微笑んだ。
ヴィンスに渡した二枚のレンズは、まだ未完成に過ぎない。これからもっともっと観察して、試行して、精度を高めてゆく必要がある。
それまでずっと、ヴィンスといられるだろうか。できれば、同じ時間を過ごしたい。歳のわりには大人びてしまっている
「……ありがとう、アーティカ。本当にありがとう」
椅子から立ち上がったヴィンスが、アーティカを抱きしめながら、そう告げた。
暖かく厚みのある胸板、逞しい腕。はち切れんばかりに鼓動する心臓の音。泣きそうなのに甘く震えるヴィンスの声。
ああ、いとしい。
けれど、アーティカは魔女でヴィンスは異端審問官だ。手を伸ばして掴んではいけない
こんなことは、あってはならない。協力したのは利害が一致しただけ。
それがわかっているのに。わかっていると思っていたのに。
顔が熱い、身体が熱い。喉の奥から熱が込み上げてくる。ヴィンスの拍動と、自分の心臓が同調する。心臓の高鳴りを痛いくらいに感じた。
気づけばアーティカは衝動の赴くままに、ヴィンスの背中に腕を回して抱きしめ返していた。
その日の昼間。
アーティカがレンズを造り、エラがそのレンズをはめ込んでから、ヴィンスはずっと半仮面をつけたままで古城を歩き回っているという。
仮面にレンズをはめ込むのは、確かにいいアイデアだった。
けれど、もっとこう、ヴィンスの美しさを際立たせるようなシンプルな作りにしたい。
たとえば、レンズの周りを金属かなにかで細く縁取って、紐かなにかで耳に固定するような形状とか。
そんなことを考えながら、アーティカはヴィンスを探して古城を散策していた。
「彼女は本当に亡国の王女なのですか。魔女なのではありませんか」
「彼女は私の客人だ。それでも疑うのか」
アーティカがある部屋の前を通りかかった時、扉を隔てた中からヴィンスの声が漏れ聞こえてきた。
(なんの話だろう。……もしかして、わたしの話?)
好奇心を刺激されたアーティカは、視てはいけないと思いながらもそっと手に魔力をまとわせ、ヴィンスの声が聞こえてきた扉に手を当てた。
「その仮面。魔女の
「……っ、しかし! しかし彼女は善良な魔女だ。砂漠から出なければ我々の脅威にはならない」
魔力を通して視聞きしたヴィンスの声は、普段よりも荒れていた。ジャックでもエラでもない誰かと話すヴィンスは、酷く焦っているようだった。
それが珍しくて余計に興味をそそられて、アーティカは自分の手を耳と目代わりにして扉に張りつくようにして話を視る。
「絆されているだけでは? あなたはまだ若い。情にも脆い。そして感情的だ」
「そ、れは……」
「魔女は魔女です。善良であっても害悪であっても、変わりない」
冷たく言い放つ相手は、男のようだった。ヴィンスを追い詰めてゆく声は、扉越しでもアーティカを不快にさせるような陰湿な響きを持っている。
アーティカは苛立ちざわつく腹を押さえながら、ジッと魔力を研ぎ澄ませた。
アーティカの力は本来、見えないものを視る力。だから今アーティカが視聞きしているのは、部屋の中で話しているヴィンスと男の口元だ。
魔力を使って視た唇の動きを、読唇術で読み取ってゆく。読み取った唇の動きに耳で聞き取った声色を乗せ、魔術的に再結合することで、アーティカの頭の中では彼らの会話がはっきりと視えた。
「そんなあなたに本国の司祭様の言葉を贈りましょう。魔女を悪魔に差し出せば魂が、呪われた目が、解放される、と。捕らえた魔女の生命を刈り取り、悪魔に捧げるのです」
「彼女を生贄に捧げろ、と? それで私は悪魔から解放されるのか。私の目は元に戻るというのか」
「はい。司祭様だけでなく……様もそれをお望みです」
「そうか。そうなのか……わかった」
息とともに吐き出されたヴィンスの言葉に、アーティカの背筋がゾゾゾと凍る。
それは魔女としての直感か、それとも生き物としての本能か。
(……いけない、本当に殺される)
やはり魔女と異端審問官は、相容れぬ存在なのか。アーティカは血の気の失せた顔で、扉から離れるように後ずさる。
このままでは、いけない。黙って生贄にされるわけにはいかない。
アーティカは音を立てないように靴を脱ぎ、柔らかな足で古城を駆ける。
乱れる息のまま走るアーティカは、ずっと鼻の奥がツンとして痛かった。頭の中は真っ白で、耳元ではうるさいくらいに心臓の音が鳴っている。
瑠璃色の目を閉じた刹那、浮かんだのはアーティカを裏切ったセリアや、奴隷商人であるマルワーンの顔。
(ヴィンスには……彼にだけは、裏切られたくなかった)
アーティカの心臓が、じくじくと痛みに蝕まれてゆく。ああ、これが悲しみか。それとも失望か。
失ったのは、どんな希望か。あるいはこれから失うのか。
アルハーゼンの書も、ヴィンスのために造ったレンズも。魔女の力を使えば、取り戻すこともできるだろう。
けれど、と思う。すべてヴィンスに残していこう。きっと今後、彼が穏やかに過ごすための助けになるだろうから。
そうして魔女の頭脳が、これからの行動指針を冷静に弾き出す。
アーティカは、鈍く痛む胸と、今にも叫び出しそうな口元を押さえながら駆け出して、その場から離れることしかできなかった。
◇◆◇◆◇
「陛下、ネロテアの街の徴収が完了いたしました」
マダールの街の南方、砂漠域の中でも辺境の地とされる区域にぽつりと存在するオアシスの街ネロテア。
街の住人は皆、レンガ作りの家に閉じこもり、誰ひとりとして街に出ることはない。
かつて街の中心部であった広場にはいくつものテントが立ち並び、砂漠の戦士たちが身体を休めている。
そのテント群の中で一際大きな白亜のテントの中。ザーフィルは簡易的に作られた玉座に座り、軍師であり最小でもあるスレイマンの報告を聞いていた。
「相変わらず仕事が早いな、スレイマン」
ザーフィルが満足そうに頷いたところで、赤髪で巨躯の男がテントの入り口にかけられた布をばさりと捲り上げ、ずかずかと中へ入ってきた。
「ザーフィル、こんな辺境の街を徴収してなにを考えている?」
それは、ザーフィルが唯一、背中を預けることができる将軍ジュードであった。ザーフィルは、頬に太刀傷が残る男の顔を見るなり、ため息を吐いた。
「ジュード、俺が望むものはただひとつ。今も昔も変わらない。知っていることをいちいち聞くな」
「……魔女か」
ジュードの言葉にザーフィルがニヤリと笑う。
「マルワーンは誠実ではないが、いい仕事をした。魔女の女召使を後宮奴隷として売り払ってくれたからな」
「まさかお前がその女召使を拷問して、魔女の居場所を吐かせたのか?」
ジュードが呆れたように肩をすくめた。
長年の友なだけあって、ジュードはザーフィルの性格をよく知っている。そして、武人であるだけあって、ジュードは女子供に甘い。
ザーフィルはジュードがなにか言い出す前に、座っていた自分の膝をひとつ叩いた。そうして、浮かべた笑みを深くする。
「魔女は必ず手に入れる。不可視の力は俺のものだ」
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