第8話 悪魔に魅入られし異端審問官
ヴィンスの言葉突然の告白に、アーティカは頭を押さえた。
「ヴィンス……あなたって、もしかして……」
審問官らしからぬ言動を取るヴィンス。彼は生まれた時から悪魔に憑かれているという。そして、聖職者というよりは騎士か軍人と言った方が似合っている彼の部下。まるで守り役のようなジャックと、侍女の仕事が完璧にできるエラ。
そのすべてが、アーティカの頭の中で警鐘を鳴らしている。これ以上深入りしてはいけない、と。
一方で、魔女としての好奇心が、ヴィンスの出自を詳しく知りたいのだ、と訴える。
進むべきか、とどまるべきか。迷い悩むアーティカに、ヴィンスが伏せ目がちに首を振る。その肩は、抱き寄せて慰めたいと思ってしまうほど、落ち込んでいる。
「アーティカ……この先を聞いたら、私は君を逃してやれない。それでも聞きたいと思うのか」
心細そうに首を横へ振るヴィンスの姿に、アーティカの胸がキュッと締めつけられるような音がしたから。
「わたしは砂漠の魔女アーティカ・アッ=サーイグ。ヴィンスが
にこりと笑ってみせたアーティカに、ヴィンスはその顔を泣きそうなほどくしゃくしゃにして言葉を詰まらせた。
なにも話せなくなってしまったヴィンスの代わりに、エラが口を開く。
「ヴィンス局長は、イリベリス神聖王国の王孫です。生まれたときから悪魔に魅入られてしまった孫が不憫であると、国王陛下が局長に異端審問官としての身分を宛てがったのです」
エラの言葉を継ぐように、今度はジャックが話し出す。
「まー、木を隠すなら森の中。悪魔の異能を隠すなら異端審問局の中ってな。審問官が異端の裁きを行っている最中に、逆に悪魔に魅入られる事故は、普通にあるからな」
「……私が暴走した際に、止められる人間が必要だった。審問局なら無理なく私を処刑できる。陛下もそのつもりで、国王直属の近衞騎士団から適性者を配置してくれた」
陰る笑みを浮かべるヴィンスを、眉を寄せてため息を吐いたエラが嗜めた。
「ヴィンス様……またそのようなことを言って!」
「仕方ねぇよ、エラ。坊ちゃんはいつだって自虐的だ。砂漠の国に来てからは、多少、マシになってたけどよ。それは、坊ちゃんのことをだぁれも知らねぇ国に来たから、開放的になってたってだけさ」
「……この通り、ジャックは幼い頃からの守り役で、エラは私の身の回りの世話をしてくれている。私に悪魔の異能があっても、離れずに付き従ってくれている大切な部下だ」
エラとジャックのことを話すヴィンスの顔が、ふ、と緩む。けれどその顔も、またすぐ曇りだす。
「私には父がいない。生まれながらにして悪魔の異能を持つ私の父は、もしかしたら悪魔なのかもしれないが」
「そんな話、聞いたことないわ」
「ありがとう、アーティカ。いいんだ、慰めはいらない。……父が悪魔でなかったら、私を生んだ母が王宮の塔に幽閉されるわけがない。いくら未婚で私を生んだからといって、陛下が母を幽閉するわけが……」
儚く笑うヴィンスが、辛い。アーティカは自分のことのように胸が痛くなる。
イリベリス神聖王国やキュリエ教が、悪魔をどのように扱っているのかは知らないけれど、人智を超えた異能を持つヴィンスや、彼を生んだ母親を恐れただろうことは想像に難くない。
「どうして私は、こんな力を持って生まれてしまったのか……。私が悪魔の異能を持っていなければ……いや、そもそも生まれてこなければ、母は幽閉されることもなく、乳母も生命を落とすことはなかったのに」
吐き出された後悔が、なんとも痛ましい。ヴィンスの碧眼は乾いたままで、歪んだ表情だけがアーティカの目に焼きついた。
きっと、ヴィンスはこれまでたくさん泣いたのだろう。泣いて泣いて、涙が枯れるほど泣いたのだ。
あんなに凛々しく、アーティカよりも年上に見えていたヴィンスの姿は、もう、どこにもない。
ここにいるのは、悪魔の力に傷ついて、背中を丸めて声も涙もなく泣く少年だ。
「ヴィンス……あなたは、あなたの中の悪魔を消し去りたいのね。だから魔女を探していた」
気づけばアーティカは、なにもかも諦めたかのように微笑みを浮かべるヴィンスを抱きしめていた。
背中に回した腕で、ヴィンスの広い背中を大きく撫でる。少しでも、慰めになりますように、と祈りを込めながら。
すると、ほんの少しだけ。呼吸ひとつ分だけ、ヴィンスの身体から力が抜けた。
「……私は、私の中に潜む凶悪な悪魔を消し去ってしまいたい。だが……だが、奇跡や神秘を持ってしても、悪魔は消えてくれなかった。そして、これからも消えてくれない。そうなんだろう、アーティカ」
もしかしたらヴィンスは、アーティカの言葉に絶望したのかもしれない。
決して消えることのない悪魔という存在。
その悪魔に魅入られて、母親から遠ざけられ、父親は不明。それなのに、やさぐれるわけでもなく、腐すこともなく、清廉潔白に生きてこれたなんて、まるで奇跡のような美しさ。
けれど、ひとはいつだって、感情的に生きている。
清らかに生きようとしても揺れる感情が悪魔の焔となってあらわれてしまうのが、ヴィンスの宿命だ。
運命に抗い、挫折し、それでも折れない強くて美しい魂。ヴィンスはそれを持っている。
「ヴィンス、これまで頑張って生きてきたのね」
「アーティカ……」
「今のわたしには、なにも言えない。
「でも……なに?」
「あなたの悪魔の力の暴走を対処するための手段なら、与えることができるわよ」
ヴィンスを抱きしめながら、アーティカは確信を持ってそう告げた。
今、アーティカの脳裏に浮かんでいるのはひとつの原石だ。
透明度が高く、気泡も混ざっていない高品質な原石。それでいて、アーティカの
それが今、アーティカの手元にはある。
「わたしは砂漠の魔女。不可視のレンズを造る魔女。あなたが望むならあなたのために、先読みのレンズを造りましょう」
◇◆◇◆◇
アーティカにあてがわれている客間に移動した四人は、窓際に椅子を持ち寄って顔を突き合わせていた。
「結局のところ、悪魔の焔が暴走する前に対処できればいいのでしょう? 暴走の原因を取り除けばいいだけのこと」
こともなげに言ってのけるアーティカに、ジャックが引き攣った顔で首を振る。
「いやいや、お嬢さん。そう簡単なことじゃねぇんですって。それができてたら、局長はこんな砂漠の地に飛ばされてないんで」
「簡単なことじゃないのは、わかってる。それでもやるのよ」
アーティカの強い意志が、言葉の強さにあらわれていた。
魔女として、自信満々に見えるように胸を張った。胸の内は震えていたけれど、微笑みの裏側に上手に隠して。
「わたしの不可視のレンズは観測した未来を確定させる
「……確定未来に介入して、未来を強引に書き換えることができる?」
「理論上はね。まだ実践したことはないの」
「それ、できるんです? めちゃくちゃ精度を高めねぇと実現しないでしょ。
ジャックが疑わしく思っていることが丸わかりの目で、アーティカを見ている。そんなジャックをエラが険しい顔で嗜めた。
「ジャック。あなた、砂漠で救われておきながら、アーティカ様の魔女としての腕を疑うの?」
「でもあれって、天候予知でしょ。未来観測とはワケが違う」
「あなた、詳しいのね」
「こう見えても、異端審問官なので。予習復習は息をするのと同じくらい馴染んでますぜ」
ジャックが軽々しくニカリと笑う。
アーティカは、ジャックの指摘が痛いほどよくわかっていた。
これまで造り上げたレンズは皆、天候や災害、農作物の出来栄えを予知をするような、狭い範囲を観測するレンズだけ。
未来観測は、魔術を超えて魔法の領域にまで踏み込まないと実現できない高高度の技だ。
アーティカの抱える不安を感じ取ったのか、ヴィンスの端正な表情が曇る。
「……アーティカ、できるのか? 不可視の力は意図せず付与されるんだろう。それを制御するなんて……君に負担をかけたくはない」
「言ったでしょ。できるできないじゃない。やるのよ」
アーティカはすべての不安を呑み込んで言い切った。毅然とした態度を見せたアーティカに、ジャックがヒュウと口笛を吹く。
これでもう、後戻りはできない。
アーティカの胸は、不安よりも愉しみで震えていた。誰かのために、という大義名分の元、自分の魔女としての
「アーティカ、君の異界文書は必要か?」
「言ったでしょ、ヴィンス。あれは学術論文だって。アルハーゼンの書そのものに、魔術的な力はないの」
アーティカはそう告げて、ヴィンスに片目をつむってみせた。
そうして、ヘリオドールの原石を両手で包み、魔力を注ぐ。余分な石を削ぐために荒く研磨する。
露店で買い与えられたヘリオドールには、厚みがあった。だからアーティカは二つに割った。そうして形が定ったら、あとはひたすら魔力を通して磨くだけ。
研磨機や研磨剤を用いず魔力で削り、二枚同時に磨いて形成するその技は、まさに
未来を読みすぎては駄目。トリガーとなる感情の振れ幅を感じ取りすぎても駄目。
(ああ、愉しい。考えることが愉しい。技巧を施すことが愉しい。困難に挑むことが愉しい。——だからわたしは、魔女なんだ)
なんて業が深い。アーティカは魔力に酔いながら、人間としての階層を一歩だけ踏み抜いて、魔の領域へ足を踏み入れてゆく。
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