第7話 悪魔は決していなくならない

 随分と単刀直入に聞くものだ。ヴィンスの真剣な眼差しに感心しながら、アーティカは肯定するように頷いた。


「信じられないかもしれないけれど、本当よ。奇跡や神秘をこの世に繋ぎ止めていた楔石が、失われてしまったから。それ以前からも、徐々に失われていたの。その最後の砦が楔石だったから」

「失われた楔石を作り直して打ち立てても駄目なのか?」

「楔石は代替がきかないの。一度引き抜かれてしまえば、それで終わり。楔石が抜かれた深淵あなから、奇跡や神秘の源である精霊たちが、彼らの世界へ帰ってゆく」


 ヴィンスの質問は、少しも異端審問官らしくない。

 彼らが信仰するキュリエ教は、彼らが崇める神とその神が起こす奇跡しか認めない。だから魔女の存在を許さないし、砂漠の国が崇めている精霊や神秘の力を否定する。

 それなのにヴィンスの言動は、失われゆく運命にある奇跡や神秘を追い求めているかのように思えた。


「どうしてヴィンスが気にするの?」

「……実感が湧かないんだ。私たちが追ってきたものが、この先、失われる? そんな馬鹿なことが本当にあるのか、と」

「ヴィンスの仕事がなくなることを不安に思っているのなら、少なくともヴィンスが引退するまでは今と変わらず奇跡も神秘も存在し続けるでしょうね」


 アーティカの言葉は、ヴィンスの不安を慰めるものではなく、ただの事実だ。


「それでも少しずつ薄れて、衰えてゆくことでしょう。そうしてある日、消えるのよ」

「……君はそんな未来をレンズで視たのか?」


 ヴィンスの碧眼は、怖いくらいに真剣だった。

 だからアーティカは逆に、ふ、と力が抜けたような笑みを浮かべて首を振った。縦ではなく、横へと。


「視なくてもわかるのよ、魔女だから。それに、遠い未来を見通すレンズを作るには、水晶クリスタル金剛石ダイヤモンドよりも透明度が高い素材が必要だから」


 アーティカは、長い長い息を吐き出した。

 透明度の高い素材は、なかなかお目にかかれない。削り出し磨き上げる際に割れやすい天然石からは、削り出せないだろう。

 それでも、イリベリス神聖王国の近隣にある小さな都市国家、工芸と水の都ウェネティアの職人が作る硝子であれば、あるいは。

 彼らは、鉛を含まないソーダ石灰から作られる高品質な硝子を作り上げることができるから。


「……そう、か」


 ヴィンスが酷く暗い顔をして呟いた。

 それきり黙ってしまって、無言の時間に耐えられなくなったアーティカは、行儀が悪いとわかっていながらも、空の皿が並ぶテーブルへ両手を叩きつけた。


「ねぇ、なんなの? わたしと話したいことって、そんなことじゃないでしょう?」

「……アーティカ、奇跡や神秘がこの世から失われたら、悪魔も消えてくれるだろうか」

「え、悪魔? どうして突然、悪魔なんて……」

「魔女がいるなら、悪魔もいるだろう?」


 まさか、異端審問官の口から悪魔という言葉が飛び出してくるとは思わなかった。

 らしくないとはいえ、ヴィンスは審問官。まるで悪魔の存在を認めているような口振りにアーティカは当惑した。

 瑠璃色の目がパチパチと瞬く。少しも困惑を隠せないまま、アーティカは口を開いた。


「残念だけれど、悪魔はいなくならないと思うわよ」

「えっ?」

「悪魔は人の心の醜悪さが産み出すもの。それは時代を経ても変わらない。人間が存在する以上、悪魔もまた存在し続けるから」

「悪魔は駆逐することが、できない? そんな……それは……」


 ヴィンスの手が震えている。アーティカを見てもいなかった。

 一体、なにを恐れているのか。彼が感情的になる様を見るのは、これがはじめてだ。それにしては、どこか様子がおかしい。


「悪魔を消滅させられない? そんなことは、あってはならない!」


 ヴィンスが突然叫び出し、焦点の合っていない虚ろな目で立ち上がる。

 部屋にいる誰もが、ヴィンスの異変に驚愕していた。美しい碧眼が金色に染まり、白眼は黒色に変わっていたから。

 まさか悪しき精霊ジンに憑依でもされたのか。アーティカは慌ててヴィンスの元へと駆け寄った。


「ヴィンス!? 落ち着いて呼吸を……きゃっ!」


 ヴィンスを落ち着かせようと、アーティカが彼の背中に背を添えた、その刹那。全身から青い焔がぼうっと燃え盛り、アーティカの手を焼いたのだ。

 悪しき精霊など、生ぬるい。その姿は、まるで悪魔だ。

 砂漠の民が伝え聞く、青い焔で世界を焼く悪魔そのものだった。

 放心して動けないアーティカに、その身を呑もうと青い焔が迫り来る。


「アーティカ様! ——局長、目を覚ましなさい! ジャック、局長を止めて! 局長の目を見ては駄目よ!」

「へーいへいへい。局長、起きてくださいよ、っと」


 エラの指示を受け、ジャックがふところから目元を覆うだけの仮面マスクを取り出し、素早く身につけた。仮面の目元は黒瑪瑙オニキスが嵌め込まれている。

 綺麗な黒い色。アーティカが見惚れた次の瞬間、ジャックはその長く逞しい脚でヴィンスを蹴飛ばした。


「げほっ、げほ……っ。……ジャックか、助かった」

「おはようございやす、局長。お目覚めで? とりあえず、レディに謝るのが先ですぜ」


 蹴られた衝撃で、我を忘れていたヴィンスが自我と意識を取り戻した。

 ジャックは慣れた手付きでヴィンスに手を貸して立ち上がらせ、ふらつくヴィンスをアーティカの元へと送り出す。

 なにもかも、予定調和。織り込み済みの対応で、手慣れている。そんな気配が漂う連携だった。

 よろよろと歩くヴィンスは、その美しい顔に柔らかな金髪を汗で貼りつけていた。宝石のような碧眼は伏せられていて、少しもアーティカと視線が合わない。

 それでも謝罪の意思しかないヴィンスは、アーティカの足元にひざまずき、火傷を負ったアーティカの手を取った。


「……ああ、すまないアーティカ。私はなんてことを……君を失いたくないのに」


 けれどアーティカは、ヴィンスの謝罪の言葉など、まったく耳に入らなかった。

 魔女が悪魔に魅入られたかのように、ヴィンスに視線が釘付けのまま。わなわなと震える唇と舌に言葉を乗せた。


「ヴィンス、あなた……悪魔シャイターンの異能を持っているのね?」


 アーティカは、項垂れるヴィンスの手に自分の手を重ね、そっと静かに魔力を流した。

 目蓋の裏に映るのは、青く燃え盛る焔と渇いた熱風。砂漠の悪魔がアーティカに向かって微笑む幻が、ぼんやり浮かぶ。

 ヴィンスの内に潜む悪魔が砂漠の悪魔シャイターンなら。アーティカはひとつの可能性に思い当たって、自分が負った火傷の傷など気にせず口を開いた。


「……ヴィンス、もしかしてバルガの街を死の嵐シムーンに襲わせたのは、あなた?」


 顔を伏せていたヴィンスがのろのろと顔を上げ、碧眼に戻った双眸にアーティカを映した。揺れる瞳で、彼はゆるゆると首を横へと振るう。


「襲わせてはいない。だが、あの砂嵐を呼んでしまったのは事実だ」

「どういうこと?」

「局長は悪魔の眼を制御できてねーのよ。さっきみてぇに、感情が昂ると……ボンッ!」

「バルガに向かったときは、魔女に会える昂ぶりで感情が不安定でしたからね」


 ジャックとエラの言葉に、ヴィンスが無言で頷いた。


「ヴィンス……あなたって意外と子供っぽいのね」

「仕方ねーのよ。こう見えても局長は、成人したばかりのヒヨッコだからなぁ」


 項垂れるヴィンスの髪を、ジャックが子供にするようにわしわしと撫で回す。ヴィンスがムッとして、ジャックの手を払うように腕を振るった。


「やめろ、ジャック。成人すれば大人だろう!」

「……成人したばかり? 待って、もしかしてヴィンス、あなた……わたしより年下なの?」


 アーティカは信じられないものを見る目でヴィンスを見つめた。

 長身で大人びた顔立ちの美しい青年。部下にしっかり指示を出し、従わせるだけの力がある男。それが、少年を卒業したばかりの年下だったなんて。

 ヴィンスは少し照れたように目を伏せて、ぼそりと答えた。


「私は……十七だ。神聖王国イリベリスの成人は十六だから」

「なんてこと……そんな若さで悪魔シャイターンに魅入られてしまったなんて」


 アーティカの言葉に、ヴィンスがハッと息を呑んだ。途端に顔が青褪めて、アーティカの肩を掴んで揺さぶった。


「アーティカ、私が焼いてしまった傷は大丈夫なのか!? 私が幼い頃、大切な乳母を誤って焼いてしまったときは……後から火傷が広がって、全身が炭になるまで燃え続けたんだ」

「大丈夫、問題ないわ。わたしは魔女よ」


 恐慌状態に陥って、再び碧眼が金色に染まりつつあったヴィンスに向かって、アーティカは片目を瞑って微笑んでみせた。

 砂漠の悪魔は、砂漠の魔女であるアーティカとも関わり合いが深い。魔女であることが幸いして、アーティカの火傷痕は致命傷には至らなかった。

 けれど、悪魔の焔は人間の魂を焼く。

 アーティカが負った火傷は、じわりじわりと広がりアーティカの身体と魂を蝕み燻って、やがて燃え尽きるだろう。

 それが何年後のことか、それとも何ヶ月後のことかは、わからない。今すぐではないことだけが、わかっている。

 死を回避することもできるけれど、条件が揃わなければ成すことはできない。

 だから魔女アーティカは、微笑んだ。自分より二つ年下の青年に心配をかけないように。けれどその笑みは、かえってヴィンスに不安を抱かせたらしい。

 ヴィンスがそっと手を伸ばし、微笑むアーティカの頬に触れた。


「アーティカ……本当に大丈夫なのか?」

「心配しないで、ヴィンス」

「アーティカ、君だけだ。私が焼いても無事でいてくれたのは。君が魔女でよかった」


 アーティカは火傷をしていない方の手でヴィンスの手を取り、笑みを重ねた。


「それよりも、乳母を焼いてしまったと言ったわね。そんなに幼い頃から悪魔に魅入られているの? いったい、いつから……」

「生まれた時から」

「えっ?」

「生まれた時からだ。私の秘密は母と国王陛下、それから夜の砂漠を共にした部下……あとは君しか知らない」

「待って、どういうこと? どうして国王が出てくるの」



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