第6話 ナイトマーケット

 屋台通りのあちこちから、食欲を刺激する香りが漂っている。

 肉が焼け、脂が弾ける匂い、香辛料がたてる香り。ぐつぐつ煮込まれた野菜や肉のハーモニーが、アーティカの食欲を刺激する。

 目に映るすべてが新しい。アーティカは食べ物屋台の前を歩きながら、時折ヴィンスの腕を引き、ゴクリと唾を呑み込みながら尋ねて聞いた。


「見て、ヴィンス! あれはなんのお肉なの? あの壺はなにが入っているの?」


 アーティカの視線を釘付けにしているのは、羊肉をトマトで煮込んだスープ、香辛料が効いた謎の肉、香ばしい匂いで誘惑してくるパンだ。

 国が攻め滅ぼされてから三年間、アーティカは市井しせいで暮らしていたけれど、人目につくことを避けるために市場に足を踏み入れたことはない。

 だから余計に物珍しかった。


「どれも美味しそう!」

「気になるものがあったら、すべて買おう」

「いいの!? ……待って、でも待って。わたしには財産がひとつもないわ。どうやって買えばいいの」

「私の奢りだ。君は私の客人だからね」


 ヴィンスはそう告げると、アーティカが興味を示したスープや肉、パンを片っ端から買い込んだ。

 屋台や露天に並べられているのは、食べ物だけじゃない。宝飾品や日用雑貨だってある。

 店先に無防備に並ぶ宝飾品や宝石、あるいはその原石を横目で見ながら、お行儀悪く肉を挟んだパンにかぶりつく。もしサリアがこの場にいたら、嗜められそう。だなんて湿っぽく思いながら。

 パンで肉を挟むと溢れた肉汁をパン生地が吸い取って、手を汚さず食べられる。その後でスープを飲むと、トマトの酸味が広がって口の中がまっさらになったような気分になれる。

 それを発見したアーティカは、肉とパンとスープの無限ループの罠に陥って、欠片も残さず食べ切った。そうして隣を歩くヴィンスに話を振った。


「ねえ、ヴィンス。わたし、宝石が見たいの。ガラスがあればよかったのだけれど、レンズにできるような硝子は置いてないみたいだから」

「……君はよく見ているな。少し歩いただけなのに」

「だって、どのお店もキラキラしていて美しいのだもの」


 アーティカは、ふふふ、と微笑むと、目をつけていた露天商の元へと向かう。


「アーティカ、ここは……」


 ヴィンスが躊躇うのも無理はない。

 並べられているのはゴツゴツとした石ばかり。両隣の露天では、輝く宝飾品や磨き上げられた宝石、硝子細工を扱っているのに、この店が扱っているのは石ころだけ。

 けれどアーティカには、マダールの夜市でもっとも価値のある店だと思えた。


「こんばんは。見せてもらってもいいかしら?」

「おっ。美しいお嬢さん、お目が高いね! ワシの店は一見、地味じゃが宝石の原石を扱っておる。掘り出し物も紛れておるよ、じっくり見て行っとくれ」


 店主が朗らかにそう言って、皺がたくさん刻まれた浅黒い顔でくしゃりと笑う。

 アーティカは遠慮せずに原石をひとつずつ手に取って、じわりと魔力を染み込ませてゆく。

 魔女であるアーティカは、自分の魔力を原石に流すことで、その宝石が本来持つ輝きや価値を知ることができるから。


「凄い、水晶クリスタル緑柱石ベリルが沢山あるわ……」

「水晶や緑柱石……? もっと貴重で高価な原石でなくていいのか?」

「わたしにとっては、水晶や緑柱石が一番価値がある宝石なのよ。本当は蛍石があればいいのだけれど……あの石は設備が整っていないとレンズへの加工が難しいから」


 アーティカが欲しいのは、透明度が高く加工しやすい原石だ。

 なによりも重要なのは不純物がないこと。それから透明度が高いこと。すべてレンズに加工するために必要な条件だ。

 アーティカの魔術は、レンズという人工物アーティファクトを不可視のレンズに変える魔術クラフトだ。こんなに品質のいい原石があるなら、古城に囚われている間の時間潰しとして、レンズを造りたかった。


「アーティカ、君はレンズを作るつもりなのか? アクセサリー用ではなく?」

「そうよ、いけない? 魔女たる者、常に己の技を研鑽しなければ……ああ、待って。これはもしかしてヘリオドールかしら?」


 アーティカは、人差し指の長さほどの原石を握りしめ、魔力をじわりと注ぎ込む。

 原石を包み込んだ手のひらに返ってくる手応えと、目を瞑ったときに見える黄緑色の光。

 間違いない、これは黄緑柱石ヘリオドールだ。

 それも、かなり透明度の高い上質な。瞼の裏で光る澄んだ黄緑色の光が、ヘリオドールの透明度をアーティカに教えてくれている。


「おっ、そいつを見つけたのかい、お嬢さん。いい目を持っている。そいつの透明度は保証するよ、磨けば輝く逸材だ。どうするね、そこのお兄さん。お嬢さんへの贈り物にするかい?」

「そうだな……そうしようか」


 店主の言葉に、ヴィンスが懐を探り出す。だからアーティカは慌てて首を振り、ヴィンスの袖をくい、と引く。


「ヴィンス、なにを言ってるの」

「アーティカ、君は私のなんだ?」

「なにって……客人でしょう? 待って。待ってヴィンス、まさか……」

「店主、そのヘリオドールの原石をいただこう」

「ヴィンス!」


 有無を言わさぬ微笑みを浮かべたヴィンスには、アーティカの抗議の声など届かない。

 ヴィンスは、店主が差し出す手のひらに硬貨を数枚じゃらりと乗せた。そうして、満面の笑みで硬貨を受け取った店主から原石を受け取る。


「へへへ、毎度あり! お嬢さん、いい彼氏を持っているじゃないか」

「ち、違う! 違います、そんなんじゃ……ああ、もう!」

「アーティカ、受け取ってくれないのか? 君が受け取らなければ、私は無駄に散財したことになる」


 原石を差し出すヴィンスが、見捨てられた砂狐フェネックのような目でアーティカを見ていた。心なしか大きな耳が、しゅんと垂れているようにも思える。


「うぅ……ヘリオドールに罪はないもの、ありがたく頂戴するわ……」


 アーティカが原石を受け取ると、ヴィンスの顔が華やぐように輝いた。

 安堵しながら緩んだ頬と細められた目。ランタンの灯りを受けてきらめく碧眼の美しさに、アーティカは負けたのだ。


(なんてひとなの……困る、こんなの困る!)


 思いがけずヴィンスの心からの笑顔を見てしまったアーティカは、それからずっと、古城の自室に戻るまで、ばくばくと鼓動する心臓に耐えなければならなかった。



 翌朝。

 アーティカは朝日が昇るころに起き出して、窓辺にしつらえた椅子に座りって原石を眺めていた。


「あなたはどんな不可視のレンズになるのかしらね、楽しみだわ」


 ふふ、と笑いながらアーティカは原石を太陽に照らす。

 ああ、はやくレンズとして磨きたい。硬度もあり、衝撃に弱い部分もないヘリオドールなら、アーティカの魔術クラフトだけでも磨き切れるだろう。

 朝日に透かした原石は、磨く前だからか光を通すことはない。けれどアーティカの目には、黄緑色に輝く美しいヘリオドールが確かに視えた。

 どれくらい見つめていただろう。開け放った窓の外からパンが焼ける香ばしい匂いが漂いはじめたころ、アーティカの部屋の扉を誰かがノックした。

 原石に思いを馳せていたアーティカは、警戒心が薄らいでいたのかもしれない。無防備に扉を開けたアーティカは驚いた。

 開けた扉の先に立っていたのは、ヴィンスだったのだ。


「アーティカ、おはよう。もしかして、それは昨日の?」


 ヴィンスはアーティカが握りしめていた原石ヘリオドールを目敏く見つけたらしい。

 原石に魅了されたままだったアーティカは、とろけるような微笑みを浮かべて、ひとつ頷き、原石を朝の陽にかざして見せた。


「そうよ、興奮して早く起きたから、ずっと眺めていたの」

「喜んでもらえたようで、なによりだ。アーティカ、朝食の前に少しいいだろうか」

「よくありません、局長」

「エラ! ……君はアーティカの食事の用意をしている時間じゃなかったか?」

「話を逸らさないでください。局長、着替え前の女性の部屋を訪ねるのはマナー違反です!」


 ヴィンスを追って来たらしいエラがそう告げて、「話をしたいのなら朝食の席で!」と言いながら無慈悲に彼を追い出した。

 アーティカはエラに着替えを手伝ってもらっている間、イリベリス神聖王国であっても先ほどのヴィンスの振る舞いは非常識なことであることや、ヴィンスも含めて男たちとは絶対に二人きりになってはいけない、などと説教をされたのだった。



 そういうわけでアーティカは、ヴィンスに朝食の席に招かれたという形で、二人きりの食事をすることになった。

 厳密にいえば二人きりではなく、アーティカ側の付き添いとしてエラが、ヴィンス側の付き添いとしてジャックが同席している。

 白いテーブルクロスの上に並べられた朝食は見事で、神聖王国式だ。

 香ばしく焼いた丸パン、塩漬け肉を薄く切って焼いたもの、トマトと大蒜ガーリックのペースト。

 どうやって食べればいいのかわからないアーティカは、ナイフやフォークの存在を無視することにした。

 ヴィンスやジャックがするように、パンを手で割り、肉とトマトペーストを挟んでかぶりつく。口の中に広がる味は、どこか懐かしいようで未知の味。昨晩食べた食事と構成はほとんど同じなのに、まったく違う味がする。


(お、おいひい……! 朝から重いかなって思ったけれど、気にならないわ!)


 大胆に口を開けてパンにかぶりつくアーティカ見守るエラの表情は、少し硬い。

 けれど、大蒜が効いたトマトと焼いた肉、それからパンとの組み合わせが最高で、抗えない。苦言を言い出しそうなエラの存在は、アーティカの意識からすっかり抜け落ちてしまった。

 そうしてあらかた朝食を食べ終わったところで、ヴィンスがジャックとエラに手を振った。それを合図に、二人は席を外して朝食部屋の扉の前まで下がる。

 今からヴィンスの話がはじまるのだ。アーティカはそう予感して、トマトがたっぷりついた口を、手元にあったナプキンで拭って背筋を伸ばす。


「アーティカ、この世界から奇跡や神秘が失われる、という話は本当なのか? 君の思い過ごしではなく?」



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