第5話 着飾ることの意味と
教団支部の古城は、思っていたよりもひんやりとして快適だった。
砂漠域で見かける城とは違う造りに、アーティカはそわそわしてしまう。この古城に
もしかして異国では、部屋の割当てと同じように、仕事も男女の領域が混ざっているのだろうか。
「ねえ、エラ。あなた方の社会の女性は、男性に混じって仕事をしているの?」
砂漠の民は、家庭に隠され守られて生きることが最良だと教えられる。
だから、男性に混じって審問官をしているエラの姿を見た時は、衝撃的だった。
「我々、聖キュリエ教団では少数派ではありますが、女性でも
「ご家族の反発はなかったの?」
エラは振り返らぬまま、アーティカの部屋となる客室の扉を開けながら、少し低めの声で答えた。
「私が育った国の多くの民が聖キュリエ教団の教団員ですから、許容されています」
「そうなのね。凄く凛々しくて、格好いいわ」
「ありがとうございます。さあ、アーティカ様。砂漠の旅の汚れを落としましょう。湯桶を用意しますから」
エラはそう告げて、アーティカを板張りの床の上に置かれた木製椅子へ座らせた。それから一度部屋を出て、湯の張る木桶を抱えて戻ってくる。
「……エラ。もしかして、ここで服を脱げというつもり?」
アーティカは顔を引き攣らせてエラに問う。表情を変えずに頷くエラを見て、長い長い息を吐き出してしまった。
男性がいるわけでもない部屋で、衣服を脱ぐことを厭う理由はない。けれど、である。
(どうしよう、ひとりで服を脱いだことなんてないわ)
アーティカは逃亡生活中も、奴隷として囚われていたときも、身の回りの世話はすべて女召使であったサリアに任せきりだった。
それでも脱げというのなら、やってみるしかないのだ。と、もたつく手つきで服を脱ぐ——が、やはりできない。
昨夜ヴィンスに借りた上着は脱ぐことができたけれど、その下に隠していた
「アーティカ様、私がお手伝いしても?」
「……騎士様にお手伝いいただくわけにはいかないのでは?」
「アーティカ様がそのようなことをお考えになる必要はありません。もし、私の侍女としての腕を不安に思ってのことでしたら、実践にて証明いたしましょう。よろしいですね、アーティカ様?」
エラがにこりと微笑み、柔らかな声で言った。
あの柔らかな微笑みと声は、昨夜見た。奴隷商館の女性部屋にいた女たちを笑顔で脅した時の顔だ。
これは承知しなければ殺される。本能的に察知したアーティカは、「は、はい……」と頷く選択肢しか残されていなかった。
そういうわけで、
エラの手は豆だらけで硬くはあったけれど、手つきは丁寧で、侍女としての腕は疑うまでもなかった。
暖かい湯に浸して絞った布で、アーティカの褐色の肌を拭く。そのエラの白い手が腿に差し掛かった時、ハッと息を呑む音が聞こえた。
「アーティカ様……この腿の痣は鞭打ちの跡ですか」
「よくわかるわね」
「鞭打ちの傷は見慣れていますから。……なるほど、あの奴隷商人ですか。次にあったら腹の肉を削いでおきましょう」
「エ、エラ。それはちょっと過激すぎない? ほ、ほら、わたしはただの客人なのだし」
「アーティカ様は甘すぎます。ああいう
エラが誰かを脅す時の柔らかな表情で、物騒なことを言い出した。
もしかして、危険思想の持ち主かな? アーティカがそんなことを思って顔を引き攣らせていると、エラがアーティカの華奢な手を両手で握りしめ、懇願するように叫びだした。
「アーティカ様。私は審問官である前に、ひとりの騎士なのです。
「そ、そうなの? ……エラが楽しいのなら、いいけれど」
柔らかく微笑みを浮かべるエラも、こうして鬼気迫るものがあるエラも、どちらも同種の圧力を放っている。
それに気づいてしまったアーティカは、もう頷くことしかできなかった。
鏡越しに、夕暮れ時のオレンジ色の陽射しが見えた頃。
「さあ、できましたよ、アーティカ様」
長時間の身繕いに耐えたアーティカを労うように、エラが両肩に手を置いた。
鏡の中のアーティカは、見慣れないドレスをまとっている。エラが用意したイリベリス神聖王国風のドレスだ。
控えめだけれど化粧もしてあって、落ち着いた
腰を細く魅せるためのコタルディ。デコルテは台形に広く開いていて、中央にはボタンが並び、袖の外側にも並んでいる。
刺繍が施されたベルベットのベルトが腰に巻かれ、開いた首元を飾るネックレスはアーティカの目の色に合わせたのかブルー・トパーズだ。
「砂漠の民が着るようなゆったりとしたドレスは、寒さの厳しい我が国にはありません。どこか苦しいところはありませんか?」
「ええ、大丈夫。でも、もう陽が沈むわ。こんな風に着飾ってどうするの?」
「ヴィンス局長がお望みなのです」
「えっ……ヴィンスが?」
エラの言葉を受けて、アーティカの視界が途端に暗くなった。
ヴィンスが望んだ、という言葉が刃のように胸に刺さる。
うぶで可愛い
ヴィンスには信頼を寄せつつあったのに。アーティカを女奴隷でも魔女でもなく、ひとりの人間として尊重してくれる姿を見せてくれたから。
だからアーティカは裏切られたような気持ちになって、奥歯をきつく噛み締めたまま、ヴィンスが待つという古城の
(わたしが魔女だから、どうにでも扱っていいと思っているのかしら。そうだとしたら、許せない。それに……)
もしかしてヴィンスは、野外で致す趣味でもあるのだろうか。
聖王国風のドレスは、後宮風のドレスよりも露出は少ないけれど、前開きボタンでさぞかし脱がせやすいだろう。
もしやヴィンスは、露出過多な服装よりも、隠れているほうを好むのか。だからオアシスでコートを羽織らせたのか。まさか、そんな。アーティカのとどまるところを知らない妄想力は拡大の一途を辿り、歩む足も荒くなる。
気づけばもう玄関口で、着飾ったヴィンスが待っている姿が見えた。
憮然とした表情を隠しもしないアーティカを見つけたヴィンスが、一瞬、目を輝かせたように見えた。そうして頬を朱色に染めて、アーティカに手を差し出したのだ。
「アーティカ、マダールの街を一緒に歩かないか?」
「それって……」
「どうか私に、あなたとデートをする権利をいただけませんか?」
想像していた答えとまるで逆の答えに、アーティカの頭が熱く燃える。途端に顔が、恥ずかしさと申し訳なさで赤く染まった。
もしかして、早合点しすぎた? アーティカは自分の早とちりを恥じながら、「はい……」とか細い声で頷いて、恐る恐るヴィンスの手を取るのであった。
夜の
市場に吊り下げられた赤いランタンの灯りや、店先に掲げられたランプの光で、夜だというのに散策するのが苦にならない程度に明るい。
食べ物を売っている屋台がひしめき合っているエリアは、白い煙が立ち上り、そうでない宝飾品や日常雑貨などを売るエリアは、ランタンの灯りで幻想的に輝いている。
陽が落ちて涼しく、寒さに耐える聖王国風のドレスがちょうどいい。エラは素晴らしい侍女である、と感心しながら、アーティカはヴィンスの腕に手を添えて夜市を歩く。
「アーティカ、すまない。教団支部の厨房がまだ片付いていなくて、今日の夕食はマダールの
隣を行くヴィンスが、申し訳なさそうにそう告げた。
それを聞いてアーティカは、そういえば、と思い出す。一日がかりで身繕いをしている途中で出された食事は、携行食のような簡易的なものだった。
アーティカはそれを、魔女に対する嫌悪からくるもので、仕方のないことだと思って素直に受け入れていたけれど、単に厨房が開いていないだけだったらしい。
「厨房の片付けが終えていないって……ヴィンスたちは普段、あの古城で暮らしているわけではない、ということなの?」
「ああ。私たちは、バルガの街の奴隷商に魔女が囚われている、という有力な話を聞いて、馬を飛ばしてきた。古城の保守点検をする班と、
「……あら。わたし、古城の外では魔女と名乗っていいの?」
「多少はね。けれど、古城の中では駄目だ、誰が聞いているかわからない。砂漠の夜を共にした部下たち以外は、信用してはいけないよ」
部下だの班だの。ヴィンスは時折、聖職者として相応しくない言葉を使う。だからアーティカは、浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「ヴィンス、あなたって時々、騎士や軍人のような物言いをするのね」
「アーティカ。私は、私たちは聖キュリエ教団の異端審問官だ」
アーティカの疑問に答えたヴィンスは、「魔女であることを隠せ」と暗に告げてきたときと同じ顔をしている。
ああ、これは聞いてはいけない話だ。アーティカはそう直感し、無言で何度も首を縦に振った。
それに気をよくしたのか。
「さあ、行こうアーティカ。君は夜市もはじめてなんじゃないか? マダールの夜市には、美味いものが沢山ある。気に入ってくれればいいのだが」
と。ニコリと笑うヴィンスの誘いに、アーティカが抗えるはずがなかった。
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