第4話 砂礫の帝国の無慈悲な皇帝

 オアシスでの一夜を過ごした後、アーティカは陽が登りきらない明け方のうちにヴィンスの砂漠馬に乗せられて、マダールの街に辿り着いた。

 砂の彼方、地平線から登る明け色の太陽を背負い、静かな早朝の街を闊歩する。


「ヴィンス、これからどこへ行くの」


 アーティカは眠い目を擦りながら、マダールの街を見渡した。

 境界が曖昧な街なだけあって、街並みを作っている建築様式はバラバラだ。丸い形の屋根ドームやアーチを持つ建物の隣に、白い石材を使った輝く壁を持つ瓦屋根の家が建っている。

 いくつもの尖塔を持つ教会の向かいには、アラベスクが美しい礼拝堂があり、様々な文字で書かれた標識や看板があちらこちらに立っていた。


「これから行くのは、私たちの拠点だ。……知らずに西へ行けと言ったのか?」

「砂嵐から逃げるのに最適な方向を示しただけよ。こんな偶然って、あるのね」


 ヴィンスに向かってパチリと片目をつむったアーティカは、街を見渡すのを止めて、今度は砂漠馬が連なる隊列へと視線を移す。

 乱れず二列で歩みを進める隊列は、異教の審問官というよりは、訓練された軍隊に近く思える。なによりも、彼らの持つ馬が、アーティカの目には脅威に映った。

 馬を所有することは、砂漠の民にとってある種の格式ステータスだ。砂漠を生きるための駱駝ラクダではなく、馬を持つ。それは、地位と権力を持つ裕福層にしか叶わない。

 その馬が、砂漠の行軍を可能とする砂漠馬が。ヴィンスを長とする審問官たち全員に行き渡っている。アーティカは、異教の信徒の財力と軍事力を想像して震えた。

 

(彼らは魔女わたしをどうするつもりなの。本当に殺さないでいてくれるの?)


 疑念を抱えながらも、無力で無財のアーティカは、ヴィンスを信じて付き従うことしかできない。

 けれど、何事も先制が大事である。ヴィンスたち審問官の拠点に到着したアーティカは、馬上から降りるなり、にこやかに告げた。


「わたしの牢獄へやはどこ? できれば陽当たりのいい場所がいいのだけれど」

「アーティカ……どうして君はそんなに潔いんだ。いや、それは君なりの諦めなのか?」

「わたしは潔くもないし、諦めがいいわけでもないわ。ただ、わたしは魔」


 魔女だから、と言葉を続けようとした口を、ヴィンスの片手が覆っていた。

 距離が近い。明け方の砂漠走破で少しくたびれた顔が、真剣な眼差しでアーティカを見ている。アーティカの喉が無意識にゴクリと鳴った。


「アーティカ、君は私の客人だ。亡国の王女を私が助けた——いいね?」

「ふぁ、ふぁい……」


 囚われの魔女の身分から客人に昇格したアーティカは、自分の口を塞ぐ手の隙間からふにゃけた返事をして、鋭い碧眼を見つめ返す。

 ヴィンスたちが審問官なのに審問官らしくないことと、関係があるのだろうか。なにか事情があるのなら、それを突けばアルハーゼンの書を取り戻せるかもしれない。

 アーティカは頭の中で静かに企みながら、教団支部と呼ばれる古いレンガ造りの古城の中へと足を踏み入れるのであった。


◇◆◇◆◇


 バルガの街より西南に位置する都クレセベテヒ。

 クレセベテヒは、砂礫の帝国ディマシュカの皇帝スルタンがおわす栄えた都だ。

 ドーム型の尖塔やレンガ作りの家々が美しく並び、モザイク・タイルで飾られた都。その中心にそびえ立つのは、皇帝が住まう白亜の宮殿。

 その政務室で、ひとりの不機嫌な男がため息を吐き出した。


「不可視の魔女は、まだか。予定では今朝、到着するはずだが?」


 男の名は、ザーフィル・アル=バウワーブ。砂礫の帝国ディマシュカの若き皇帝だ。

 健康的で張りのある浅黒い肌と艶のある黒い髪、人々を魅了する黄金のように妖しく光る琥珀色の双眸。長い手足を玉座から怠惰に投げ出しながらも、周囲にはべる宰相や財務長官、軍務長官たちを鋭く睨みつけている。

 誰もがみな、ザーフィルよりも年上だった。年季と経験、聡明さを感じる皺が刻まれた顔を顰めている。

 年若いザーフィルに誰も口を出せないのは、ザーフィルが皇帝だからという理由だけではない。ザーフィルが座る玉座が血によって築かれたものだから。

 皇帝の座に着く際に、ザーフィルは自分に歯向かうものを血の繋がりなど関係なく皆殺しにした。領土を広げるために侵略戦争を仕掛け、ことごとく王やそれに連なる者たちを屠ってきた。

 アーティカの国、精霊の国と呼ばれたラウフバラドも犠牲となった国の一つだ。

 精霊ジン信仰を持たないザーフィルは、ラウフバラドの楔石を嗤いながら引き抜いた。抜いた楔石は戦勝品として持ち帰り、白亜の宮殿の中庭に無造作に打ち立てある。


「魔女の行方を知るものはいるか。バルガの街の奴隷商が捕らえた、と聞いたぞ!」


 誰も答えようとしない臣下に痺れを切らしたザーフィルが、苛立ちを隠さず怒鳴った。それでも年寄衆は、誰ひとりとして口を開けることはない。

 精霊や神秘を恐れぬ皇帝が、魔女を求めている。

 その理由がわからずに、年寄衆は顔を見合わせ顰めっ面で沈黙を守っていた。

 魔女は砂漠の宝だ。そう言い伝えられている。魔術クラフトの恩恵によって栄えた国も数知れない。

 そんな国々をことごとく屠ってきた皇帝が、今更魔女を求めて、どうするつもりか。年寄衆の読み合いの中、臣下の中で一番若い青年政務官がひとり、ザーフィルの前に出た。


「申し訳ありません。昨夜、バルガの街が死の嵐シムーンに呑まれたため、魔女の運搬よりも街の復興に人手がかかっております」

「復興よりも魔女の受け取りと運搬を優先しろ」


 ザーフィルは背まで伸びた黒髪をサラリと指で弾きながら、こみ上げてくる嗤いを隠さず表情に乗せた。


「……ふ。もしかしたら魔女はもう、バルガなどにはいないかもしれんなぁ」

「しかし、死の嵐の中、バルガを出ることはできないでしょう」

「相手は魔女だ。それも不可視の魔女。天候を読み、逃げることくらいやるだろう」


 不可視の魔女と渾名されるアーティカは、少し先の未来を視るレンズを造りだす。そのレンズは、魔力を持たない普通の人間——ザーフィルでも扱える代物だという。

 未来を視ることができるなら。

 砂漠の覇権を握り、西の大陸を手にかけることができる。

 それを知っていて逃げているのか。それとも追われる獲物の本能か。

 ザーフィルは、まだ見ぬアーティカを思って、真っ白な犬歯を剥き出しにして豪快に嗤った。


「ハハッ。逃げてばかりだなぁ、魔女よ。いったい、どこまで逃げるつもりやら」


 ザーフィルの言葉に同意する臣下はいない。愛想よく笑って頷く者さえいない。勇気を持ってバルガの街の報告をした若き政務官でさえ、俯いていた。

 孤独を抱えたまま栄光を手にしたザーフィルは、戦場を恋しく思った。

 背中を預けられる友ジュードも、意見をぶつけ合うことのできる軍師スレイマンも、皆、砂漠の前線に置いてきた。

 戦場はいい。生き死にの中で削り合う息吹と魂が、生きていることを実感させてくれるから。

 このままつまらぬ宮殿で、魔女が献上されるまで待つよりも、いっそのこと砂漠馬を駆って探しに行けばいいのでは。そんなことさえ思う中、突然、政務室の扉が叩かれた。


「皇帝陛下。バルガの街の奴隷商を名乗るマルワーンという男が、謁見を申し出ております。後宮ハレムに入れる女たちを引き連れているようです」


 マルワーンという名の奴隷商は知っている。魔女を捕らえたのだ、という手紙を寄越してきた男だ。

 ザーフィルは、まったく期待していない顔でつるりとした顎をさすった。


「バルガの奴隷商か。……いいだろう、通せ!」



 ザーフィルは、肥え太ったまるい腹を器用に抱えて片膝を付き、頭を下げているマルワーンを、玉座の上から見下ろしていた。

 肝が据わっているのか、豪胆なのか。マルワーンは、震えることも青褪めることもなく皇帝への挨拶を述べた。


「ディマシュカの太陽、ザーフィル・アル=バウワーブ皇帝にご挨拶申し上げます」

「顔を上げろ、マルワーン。……正直に言え。お前が捕らえたという魔女は、今もここに連れてきているのか?」

「そ、それは……」


 ザーフィルに問われたマルワーンが言い淀む。視線もあちこちに彷徨わせ、額や首から汗が吹き出しはじめる。

 捕らえたはずの魔女を逃したというのに、堂々と謁見を申し込み、澄ました顔でやり過ごそうとするなんて。

 ザーフィルは、くくくと喉を鳴らして笑った。

 宮殿でザーフィルに傅いている臣下より、よほど骨がある。肝が据わっているマルワーンに、ザーフィルは上機嫌で口を開いた。


「どうせ逃げられたのだろう?」

「も、申し訳ありませんっ! 欠品は魔女ひとり。魔女以外は揃っております。この埋め合わせは、商品リスト以外の女奴隷でどうか!」


 欠品が魔女ひとりなら、魔女に仕えていた女召使が残っているということだ。その女から魔女の行方を聞きだせばいい。

 ザーフィルは玉座から身を乗り出してニヤリと笑った。


「マルワーン。俺が望むものは魔女だ、ただの女奴隷ではない。だが、お前が運んできた女たちには罪はない。マルワーンよ、憐れな女たち全員を俺に保護してもらいたい。そういう話でよかったな?」

「そ、それは……っ、……はい。仰せの通りに」


 魔女アーティカを逃した責を、マルワーンの全財産である女たちと相殺する。

 ザーフィルの案に、首を差し出すよりもマシと判断したか。マルワーンは苦渋に満ちた表情で頷いた。

 これで、魔女の行方を知るかもしれない女召使と、魔女を迎えるために必要な後宮奴隷の女たちが手に入った。後者に至っては、費用をかけずに手に入れた。


「心優しき、マルワーンよ。女たちのことは心配するな。俺が引き受けよう。……もう下がっていいぞ」


 そうして平身低頭なマルワーンが去った後、ザーフィルは顔に浮かべていた笑みを一切消した。


「魔女は必ず手に入れる。逃げた魔女を探せ、必ず生かして俺の前まで連れて来い」


 けれどザーフィルは、ふと思いつき、口角を上げて静かに嗤った。


「いや、お前たちに任せられるものか。——俺が出よう」



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