第3話 お願いだから焼かないで

 アーティカは西へ向かって走る砂漠馬の背の上で、交易都市バラドが砂嵐に呑まれてゆくのを見た。

 大きく柔らかな毛布に包まれたアーティカは、ヴィンスに抱き抱えられて砂漠馬に乗り、夜の砂漠を駆けて行く。

 駆ける砂漠馬の背後では、バラドの街を侵食するかのように、巨大な砂の壁がごうごうと音を立てて進んでいた。


「凄ぇ、本当に砂嵐が来た!」

「これなら足跡を残さず行ける。追跡を気にせず境界都市マダールへ行けますね、局長」

「魔女の言葉に従ったおかげだ。ありがとう、アーティカ」


 アーティカの頭上へ、ヴィンスのお礼の言葉が降ってくる。

 言葉でもらうお礼は嬉しいけれど、どうせ感謝するならアルハーゼンの書を返して欲しい。アーティカはそんなことを思いながら、ヴィンスの腕の中で、コクリと頷いた。

 このまま西へ駆けて行けば、たどり着くのは境界都市マダールだ。

 砂漠域の西端、砂を知らない街マダール。アーティカの祖国を滅ぼした砂礫の帝国ディマシュカと、異教の信徒たちが支配するイリベリス神聖王国との境目にある都市だ。

 砂漠の民と異教の徒が混在する都市は様々な境界が曖昧で、マダールを治めている人間が砂漠の民なのか、異教の徒なのかさえあやふやだという。

 アーティカは毛布の暖かさをありがたく思いながら、じわじわと押し寄せてくる不安に駆られて、砂漠馬を操るヴィンスの端正な顔を盗み見た。胸がざわつくときは、美しいものを見るに限る。

 ヴィンスは、アーティカを殺すために捕らえたのではない、と言っていたけれど、異教の信徒の言葉をどこまで信じてよいものか。


(わたしの言葉を無条件で信じてくれたけれど、それとこれとは話が別。……別なんだから)


 美しいものに惹かれてしまうアーティカは、はじめて見た美しい人間ヴィンスに心を奪われつつあることを自覚できていない。

 そうしてそのまま、砂漠馬に揺られて夜の砂漠の行くのである。


◇◆◇◆◇


 しばらく変わり映えしない夜の砂漠を駆けていると、砂漠の行く先にこんもりと茂る黒い影の塊——オアシスがあらわれた。

 ヴィンスは西を目指していた歩みをわずかに変え、たどり着いたオアシスで、腕に抱えたアーティカに告げた。


「アーティカ。今夜はここで食事と休憩を行う。君、野外での食事の経験は?」

「あるはずないでしょう。……このオアシスで夜を過ごすの?」


 アーティカは、月が青白く照らすオアシスを眺めて呟いた。

 背の高い木々が数本と、大地を覆う豊かな緑。濁りのない泉と夜に開く花々。砂漠馬の上から眺める湖面は、星が映って美しい。

 天上で輝く月の青白さ、瞬く数多あまたの星々が、美しいものを好むアーティカの心臓を刺激して、手足がぽかりと熱くなる。

 アーティカの唇から思わず、ほう、と熱い吐息が漏れた。


「綺麗……。これが夜のオアシス。夜の砂漠が、わたしが磨いたレンズと同じくらい美しいなんて、知らなかった」

「ははは。あんた、そうしていると、ただの世間知らずのお姫様って感じだ」

「ジャック。無駄口を叩いている暇があるのなら、準備を急げ」

「へーいへいへい。人使いの荒い局長殿、了解しましたよ! ——やるぞ、てめぇら!」


 ジャックのひと声できびきびと動き出す審問官たち。どちらかといえばその動きは、聖職者というより軍人の動きである。

 彼らは砂漠馬に括り付けてあった荷物を解き、仮眠用の毛布や夜食用の調理器具などを取り出してゆく。女性審問官であるエラも、彼らに混じって準備をしている。


「アーティカ、君はこちらへ」


 馬上から降りたヴィンスが、アーティカを砂漠馬から降ろして手を差し出した。

 もしかして、これが噂に聞く異国の紳士のエスコートというやつであろうか。恐る恐る手を伸ばすアーティカの身体から、毛布がはらりと解けて落ちる。

 半裸に近い衣装ドレスに夜風が冷たい。アーティカが思わず肩を抱いて手を引っ込めると、ヴィンスがそれまで着ていた白い立襟コードを脱いでアーティカの肩にかけた。


「アーティカ、これを着て欲しい。君の服装は、私たちには刺激的すぎる」

「あっ……ごめんなさい。ありがとう、ございます」


 視線をそらして言いにくそうに告げるヴィンスの顔は、どうしてか赤い。

 うぶな反応をみせるヴィンスに、アーティカは返って戸惑った。捕らえた魔女に優しくするなんて。ひとりの人間として扱うなんて。こんなひと、みたことがない。

 なんて綺麗な在り方だろう。アーティカは、ヴィンスを試すように、しおらしく俯いた。伏せた長い睫毛が夜風に震える。

 けれどヴィンスの視線は、いつまで経っても明後日の方向を向いたまま。決してアーティカの身体を見ようとはしなかった。

 アーティカがコートの袖に腕を通し、薄く透けるドレスを数多の視線から覆い隠したところで、ようやくヴィンスの碧眼がアーティカを見る。

 アーティカは思わずホッとして、納まりきらなかった胸元を押さえながら、ヴィンスに聞いた。


「これから、なにをするの?」

「火を起こす」

「待って、もしかしてここでアルハーゼンの書を燃やすつもりなの!?」


 目を剥きながら思わず叫んだアーティカは、ヴィンスの肩を思い切り強く掴んだ。本能のままにヴィンスを鋭く睨みつける。

 月光に照らされた美しい顔が、アーティカを凝視している。

 美しいヴィンスは慰めにならなかった。アーティカは青褪めた顔で必死に首を振る。縦ではなく、横へ。何度も口の中で駄目だと呟き、目尻に涙を浮かべて訴えた。


「駄目、駄目よ。本当に駄目。アルハーゼンの書は悪魔の書じゃない。なんの変哲もない学術論文よ! ……確かに異界から召喚した本だけど、悪魔の書なんかじゃないの!」

「……学術論文? どうしてそんなものを魔女のあなたが……」


 アーティカの申告に、ヴィンスが眉を寄せて問い返す。

 怪訝な表情で見つめてくるヴィンスの碧眼が、ようやくアーティカの心を捕らえた。ヴィンスの目は光源の少ない夜であっても美しい。

 アーティカは乱れる心を落ち着けるように、ひとつ呼吸を吐きだした。そうして背筋を伸ばして言い切った。


「魔女だからよ」


 もしかしたら、最後の世代の魔女かもしれない。

 アーティカは喉の奥から込み上げてくるツンとした痛みを感じながら、瑠璃色の視線で射抜くようにヴィンスを見つめた。


「奇跡と神秘が失われた時、それに代わる万人が扱える技術が必要でしょう?」


 砂礫の帝国ディマシュカの皇帝が、祖国が護ってきた神秘を司る楔石を引き抜いた。

 けれど、楔石を引き抜いても抜かなくても、いずれ奇跡や神秘の力は衰える運命だった。人間の技巧クラフトが栄えることは、魔術クラフトの力を否定するのと同じこと。

 現に、ディマシュカの皇帝は魔女や魔術師に頼らず、人の力と技術だけで、精霊の国と謳われたアーティカの祖国を滅ぼしたのだから。

 奇跡や神秘の時代は終わり、これからは人間の時代がやってくる。

 だから召喚した。

 すでに人間の時代を送っている異界の書を。それがアルハーゼンの書だった。


「魔術を使わなくても奇跡を起こせる技術が書いてある書物。あのアルハーゼンの書は光学に特化していて、魔術を使わなくても視力を補うことができるレンズを作るための理論が書かれているのよ。まだこの世界に視力を補う道具はない。ただ、魔女わたしがレンズを磨くと不思議な力が宿ってしまって……」


 アーティカはため息を吐きながら、首を横へ振る。

 これまで何枚もレンズを作ってきたアーティカの手元には、今はもう、レンズは一枚も残っていない。どれも皆、魔女が磨きしレンズに相応しい不思議な力を宿していた。


「アーティカ。君が作るレンズは、一体……」

「予知のレンズ、あるいは先見のレンズ。わたしが作るレンズは、そう呼ばれていたわ」


 アーティカの言葉の先の先を読んだヴィンスが、ハッと息を呑んだ。


「皇帝がラウフバラドに攻め入ったのは、まさか……」

「そう。わたしが理由」

「アーティカ……」

「それなのに父様も母様も兄様も、わたしを逃すために殺されることを選んでしまった。わたしが狙いなら、わたしが真っ先に死ななければならなかったのに」


 選べなかったことや、起きてしまったことは、もうどうにもできない。

 意気地なしだった自分を責めるように、アーティカは奥歯をきつく噛み締めた。それから呼吸をひとつ、ふたつ。気持ちを切り替えるように吐いて、吸って、顔を上げた。


「とにかく、アルハーゼンの書だけは焼かないで欲しい。まだ最後まで読んでいないの。ねぇ、知ってる? 球面鏡や凹面鏡の原理について。半凸半球レンズの可能性については? 彼の書は本当に凄いの。理論があれば魔術を使わなくても、精霊の助けを得なくても、衰えた視力を助ける用具を作れるってことなのよ。それって、凄いことじゃない? 理論と技術さえあれば誰もが皆、見えるようになるのよ!」


 ほとんど息継ぎなしで訴えた。アーティカの必死さと情熱に気圧されたのか。ヴィンスは戸惑いながらも首を縦に振る。


「……わかった。君に異界文書を返すことはできないが、本は焼かないと約束する」

「ほ、ほんとう?」

「ああ。祖国の教団に引き渡すこともしない。私が預かろう」


 アーティカは、ヴィンスが確かにこくりと頷く様子を見とめると、思い切り破顔して抱きついた。


「ヴィンス! あなたって、本当に最高ね!」

「あ、アーティカ!? ち、近い……」

「ありがとう、ヴィンス。絶対に絶対に焼いては駄目よ、後世に必ず必要な書物なの!」


 アーティカは何度も何度もヴィンスに礼を告げ、その度に彼の白く柔らかな輪郭に頬擦りをくり返す。

 ヴィンスが顔を首まで真っ赤に染めて涙目で「アーティカ……」と蚊の鳴くような声で訴えるまで、それは続いた。


(なんて美しい精神なの! 欲のある男なら、今頃、腰を抱き寄せているでしょうに!)


 アーティカはヴィンスの清廉な精神に感心しながら、慌てた振りをして距離を取る。

 そうして自分の心臓が、どうしてか早鐘を打つように激しく鼓動していたことには、気づかない振りをした。



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