#11 和子転戦す
神戸から戻って和子は、ずっと迷っていた事に決着をつけた。
上子の進学に合わせて東京に移る。
父が亡くなってから少しずつ母の様子がおかしくなり始めていた。以前と違って頻繁に電話をかけてくる。くどくどと同じ事を繰り返し、繰り返し話し続ける。
日によって言葉は変わっても言いたい事は一つ。
「あんたは私を一人で死なせるつもりだろう。自分たちの事ばかり守って、私を見捨てるんだ。この親不孝者がっ!」
「こっちには来ないでね。来られても困るわ」
和子は十五の自分を置いて東京に行った母から、今までに三度こう言われた。
大学に進学する時 大学を卒業した時 母子家庭になった時
その母が今度は来ないとなじる。大阪には行かないと譲らない。和子もまた、今さら上京など考えられないと思っていた。しかし、神戸に行って心が変わった。
家族の事情を知る友人はやめろと言った。和子と母が近づくことは互いの為にならないと。「そうかもしれない。でも…」和子は言った。
「親がね、親らしくないからって見捨てる覚悟は私にはない。もし、関東にあんな地震が起こったら、今の母ではどうしようもなくなる。私、後悔を一生ひきずりたくないの。それこそ残りの人生すべて母に縛られてしまう事だと思うから。本当は、それが嫌なのかも知れない」
神戸の復興はまだまだだったが、カイロの需要は落ち着いて、会社も通常営業に戻り始めた三月。和子は泥鰌部長に辞表を提出した。
震災当日は奈良からの電車が長時間止まった為、ずいぶん遅れてやってきて大災害の現実を何も把握していないのに、連絡が取れず皆が心配している営業マンを
「なんで奴は無届で欠勤してるんだっ!」
などと規則振りかざして怒りまくり、和子とは何度も衝突したあげく、
「もう、あんた辞めてんか!」とまで言った泥鰌部長だったから、和子の辞表を喜んで受け取ると思いきや、
天井を指差して「ちょっと」と言った。
上階の会議室に行くと、「何で辞めるんや」と聞くから、母が歳を取ったので東京に移ると答えると「ほんなら、もう少し後でもええんちゃうか。今月は決算やで、6月まで決算事務が大変なんは、あんたも分かってるやろ」と食い下がる。
〝そんなもん知らんわ! 〟と思ったのが顔に出たのか、テキは作戦を代えて来た。「一月から大変な思いして頑張って来た分のボーナスは受け取らんで行くのか?」
遺憾ながらグラッときた。〝そら損や…〟引越にも進学にもお金がかかる。もらう権利のあるものは貰いたい。
「時期については、もう一度考えてみます」と言うと「ほな、この届はわしが預かっとくから、はっきり決まるまでこの事は絶対誰にも言ったらあかんで」と妙に優し気な声で言った。
なんとも不審で気持ち悪いのに〝黙ってる〟訳がない。その日のうちに営業事務のおたか姉さんを呼び出してジンライムをおごった。
「なによ、あんた知らなかったの。あんたんとこのナマコ課長が泥鰌に一矢報いてやったって嬉しそうに言いふらしてたのに」
さすがおたか姉さん。全部知っていた。
事の発端はやはり震災当日の衝突だった。和子に
「社長がクビだというなら辞めますけど」(お前にそんな権限ないだろう)
と返されて憤懣やるかたない泥鰌は翌日、社長室に駆け込んで
「平井さんは不要です。辞めてもらおうと思います」と訴えた。社長は
「部長が必要ないと判断するならそうして下さい。ただし、人手が不要という理由なら新しい人員の補充は一切認めません」と、ちょっと変わった返事をした。
それでもあきらめずに泥鰌は、日頃無能扱いしているナマコ課長を呼び出し、手を取らんばかりに「こういう事だ。これからは二人で頑張ろう」と言ったのだが、そこでなまこから思いがけない逆襲を受ける。
「無理ですよ、部長。平井さんは経理と給与計算、僕は総務と税務のパソコン入力を手分けしてやってるんです。補充なしに、僕が全部一人で毎日打ち込むなんて物理的に不可能です。部長が平井さんの分の入力をして下さるなら別ですが」
後半は、なまこ渾身の皮肉である。
手書きの数字の美しさと計算の速さが自慢の泥鰌の扱えるキカイは電卓止まり。
導入されたコンピューターなぞ認めていないし、覚えようとした事もない「カチャカチャカチャカチャ長いことかけて数字打ち込んで、ぎょうさん紙つこてズルズル打ち出して、そんな計算、手書きならちょっとの紙つこて、とうに終わってるわ! 」と、なまこの仕事が遅いと言いつのってきたのだ。
コンピューターが職場に一台二台と導入され始めた頃は、ソフトの数も少なく打ち出しにも時間がかかって、本来の威力を生かしきれなかった事もあって、こんな上司はどこにでもいた。
ナマコに協力を断られてはどうしようもなく、さらにナマコによって泥鰌が私怨で和子を辞めさせようと暗躍した、という噂が社内中に広まってしまい、泥鰌は渋々和子をクビにする事をあきらめた
そのほとぼりも冷めぬうちに、和子の方から辞職願が出た。このタイミングでは補充が許可されない可能性があるし、社内の目も自分に厳しいだろう。喜んで乗って来ると思ったのに、泥鰌が退職の先延ばしを勧めたのはそういう事だったのか…
分かってみれば、和子にはいささか溜飲の下がる話だが、社長がなぜ泥鰌を困らせるような言い方をしたのかは不思議である。
「全部専務、オヤマ専務の仕業よ」酔いのまわったおたか姉さん小さな皮のバッグを胸に抱えて、しなしなと肩を揺らして歩くオヤマ専務の物まねをして豪快に笑う。
専務は、和子と泥鰌がぶつかったその日のうちに、社長に事の顛末をご注進に及んでいた。社長は全くの俗物で、社内スキャンダルは大の好物だ。専務は銀行から天下ってすぐそれを見抜き、ご注進と密告で、目障りな奴の足を引っ張りながら、すぐに社長の懐に入った。
「銀行屋の常とう手段よ」おたか姉さんはカウンターにキスする程、つぶれながらそう言った。
社長は自分の味方をした訳じゃなく、日頃交際費などで細かい事ばかり言う泥鰌部長をこのチャンスにいたぶって楽しんでただけか…
でもまあ、おかげで夏のボーナスを取り逃さずに済んだわい。
和子は、退職日を給与計算締め日の七月十五日と決め、子供たちは新学期に合わせて四月に母のところに先に行かせた。
移って来ることが確定してから母は手のひらを返して強気になり
「勝手に子供の世話を押し付けて」とか、
「何なのこの子たちは、まともな躾もできてない」
などと和子に電話で言いつのった。子供が横で聞いているのに、と腹が立ったがもう流れを止める訳にはいかなかった。
そんなある日、和子は社長室に呼ばれる。社長の横にはオヤマ専務がピッタリ貼り付いて立っている。アニメの敵ボスってこんな感じだったなあ、と考えていると社長が話しかけて来た。
「辞めて東京に行くねんてなあ」
「はい。お世話になりました」
「で、どうすんねん?」
「はっ?」
「仕事や。決まってるんか?」
「いえ、まだ… 」
「うちなあ、東京に別会社があるんやけど。そこ、行かへんか?」
東京の別会社。本社を長男が継ぎ、次男である現社長が社長に収まるはずだった独立した販売会社〝東京梅木〟。仕事は梅ノ木化学製品の東日本への販売がほぼ九割。決算で「赤字になりそうです」と報告がくれば、社長のメモ紙一つで販売済の梅ノ木製品の値引きをして仕入れ値を下げ赤字を防ぐ。という雑な経営を総務部長の泥鰌はいつも怒ってたなあ。
などと考えていて返事が遅れたら、社長が畳みかけて来た。
「これはまだ、わしと専務以外誰も知らん事やが、あれ、三~四年のうちに本社と合併したい思てんねん」
びっくりやっ! でも、ちょっと嬉しいかも…
社長が泥鰌にもまだ明かしていない腹の底を見せてくれたと思った。
ただし、その〝底〟は二重底の一段目に過ぎなかったのだが。
「それでなあ、専務に見に行ってもろたら、東京梅木の経理処理にちょっと問題があってな、すぐには一つにでけへんのや。あんた行って、本社のやり方に揃えてくれへんか」
「これまでの税理士事務所はすでに切って、銀行系のちゃんとした税理事務所に変えたから、そこの担当と相談しながらやればいいんですよ」
オヤマ専務が口を挟んできた。そうか、去年東京に数ヶ月の長期出張をしていたのはその下調べだったのか。税理士が一番に切られるなんてどんな税務処理をしてたんだろう?
「まあ、大変な仕事ではあるけどなあ… 」
営業事務の課長の顔が浮かんだ。東京梅木の事務員と毎日仕事で連絡を取るのが仕事だ
「そっらもう、どえらいオバハンやでえ」と言ってたなあ。
こっちの女の子の電話の態度が悪いと、電話だけで大泣きに泣かせて辞めさせてしまった。という話は有名よね。
社長が身軽な次男坊で東京梅木の専務だった頃、やんちゃの尻拭いを散々してきたから社長は自分に頭が上がらないと公言しているらしい。
ざっくり数えても和子より5歳以上年上だよなあ。うん、オバハンや。
「あんまりにもキツイ事があったら言ってきて、バックアップは約束するから」
専務に優しい事言われれば、言われる程おそろしい…
考えさせてもらいます。と一端保留して戻ったが、このご時世、四十を過ぎた子持ちのおばはんには、有難い話とも言える。
鬼が出るか、蛇が出るかワカランが、いずれ受けるしかないだろうな。
結論は上京後、東京梅木の実質的な責任者、なのに未だ平取の部長に会ってからという事にして七月、和子は梅ノ木化学を退社した。
平成ブラック梅ノ木化学(大阪編) 真留女 @matome_05
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