第41話 森の中の逃亡者①
ヴェスヴィア辺境伯領の北、ヤルミオンの森の中でもさほど深くはない場所。そこは人の手が入っており、間伐などもなされて木々の密度はさほどではない。
季節は秋を向かえ木々の葉も色づき、下草なども枯れ始めているが、まだまだ身を切るほどの寒さではなかった。
今も、昼前の柔らかい日差しが差し込み、鳥の囀りなども聞こえ、一見するとのどかな森のようにも見える。
だが、実際にはその森は今、相当の緊張をはらんでいた。1人の若い女が、茂みの中に蹲り必死に息を殺して身を隠していたのである。
それは、どこかちぐはぐな印象の女だった。
年の頃は20歳くらいだろう。
着ている服は貴族などに仕える侍女が身に着けているようなものだ。だが、サイズがあっていない。ほんの少しだが服が大きいのだ。
そして、その容姿も侍女には見えなかった。
高貴さを感じさせる豪奢な印象の大変な美貌の持ち主だったからである。
亜麻色の長く美しい髪を背中でまとめている。はっきりとした目鼻立ちで、特に菫色の瞳からは意思の強さを感じ取る事ができた。
事実、彼女は少なくともこのヴェスヴィア辺境伯領では最も高貴な女性だった。
彼女の名はベアトリクス・ヴェスヴィア。ヴェスヴィア辺境伯の一人娘だ。
そのベアトリクスが、このような姿でこのような場所で身を潜めているなど、尋常な事態ではない。
ベアトリクスが身を隠しているのは敵から逃れる為だった。
実際今も、彼女の敵は付近に散らばって彼女の事を探している。
その中の1人が、ベアトリクスが潜む茂みの方へと近づいて来ていた。男は、チェインメイルの上に白色を基調にしたサーコートを羽織っている。そして、ロングソードを腰に履いていた。
その男の足音に気付いたベアトリクスは、一層息を潜め足音を聞き取る事に意識を集中させる。
男が特に足音を隠そうとしている様子はない。逆に足早に動いている様子もない。普通にこちらに向かって歩いて来ているだけのように思える。
恐らく男はまだ茂みにベアトリクスが隠れていると気付いてはいないのだろう。
だが、今の状況で茂みの中を確認しないわけがない。見つかるのは時間の問題だ。
ベアトリクスは覚悟を決め、スカートのポケットから小ぶりなナイフを取り出すと鞘から抜く。そして、一層息を潜めた。
足音が茂みの直ぐ近くまで来た。そう感じたベアトリクスは自ら茂みから飛び出した。
そして、咄嗟のことに驚いている男から逃げるのではなく、逆に男へ向かって駆け寄り、その首めがけて迷わずナイフを突き出す。
ナイフは過たず男の首に当たった。
しかし、その刺突はそれほど鋭くはない。少なくとも、小さなナイフの一撃で相手を即死させるほどのものではなかった。
「ゴハァ!」
そんな悲鳴とも呻きとも取れる音が男の口から発せられる。
男は血が吹き出る首を押さえて蹲った。
ベアトリクスはその男を無視して走り出す。その表情は悔しげだ。渾身の奇襲が不首尾に終わったからである。
確かに相手に一撃を与える事はできた。だが、即死させられずに声を上げられてしまった時点で失敗だ。もう男に止めを刺しても意味はない。
男の声は周りにいる敵に聞かれてしまったはずだ。こうなってしまっては、少しでもここから離れるべきだった。
事実、男の声を聞きつけた追跡者達は声のした方へ向かって動き始めていた。
ベアトリクスは懸命に逃げた。
だが、追跡者達全ての目を潜り抜けてその場から離脱する事は出来なかった。
「いたぞッ!」
そんな声が上がる。追跡者の1人に見咎められてしまったのだ。追跡者達はその声の方に動き、ベアトリクスは確実に追い詰められた。
ベアトリクスにも追跡者達の姿が木々の合間に垣間見られるようになる。その中には6人ほどの集団も見えた。
ベアトリクスはその集団を率いる者を思わず激しい憎悪を込めて睨みつける。だが、直ぐにその集団と反対の方へ向かって走った。
「足を狙え!」
ベアトリクスの背後からそんな声が聞こえる。女の声だった。
そして、4本の矢が放たれる。そのうち1本がベアトリクスの右足をかすり傷つけた。
「あッ!」
そんな声を発して倒れてしまう。
「うッ、くッ」
痛みに耐えながら上半身を起こしたベアトリクスに声がかけられた。先ほどの女の声だ。
「随分手間をかけさせてくれたな。ベアトリクスお嬢様」
そう告げたのは、見る者にやや男性的な印象を与える女だった。
年の頃は20代後半だろう。長身で、赤い髪を極端に短く整えている。容貌は整っており十分に美しいといえるが、可愛らしさや可憐さよりも、精悍さを感じさせる。
しかし、身に着けているのは女性用の板金鎧である。特別に仕立てられたその鎧は赤色を基調に彩色され見た目にも美しい一品だった。
そして、薄い板金が体にぴったりと合うように仕立てられていて、その身体が確かに魅力的な女性のものである事を教えていた。
この女が、追跡者達を率いる者だった。
その顔には、相手を嘲る邪な笑みが浮かんでいる。
女は、5人の部下を引き連れベアトリクスまで10mほどの距離のところに立っていた。
5人の部下達のうち1人は板金鎧に白色のサーコートを着て、抜き身のロングソードを手にしている。
他の4人は弓矢を手にしており、チェインメイルの上に、やはり白いサーコートを着ていた。
どうやら、そのサーコートがこの男達にとって制服のような意味を持っているようだ。
男達はひとつの部隊に属する兵士なのである。
ベアトリクスは上半身を起こしたままの体勢でその者達を見た。
疲労困憊していた上に足に傷を負ったベアトリクスは立ち上がる事ができない。それでも、右手にナイフを構えて、その女を射抜くような鋭い目で睨みつける。
そして、その名を口にした。
「オスグリア・ラモーシャズ……、貴様……」
強烈な憎しみを帯びた、殺気すらこもった言葉だった。
しかし、オスグリア・ラモーシャズと呼ばれた女は気にも留めていない様子で言葉を返す。
「どうした? お嬢様。何か言いたいことでも?」
ベアトリクスは叫ぶように応えた。
「なぜ、父上と、アロイスを殺した!
私達は、貴様らのことを十分すぎるほどに厚遇していたはずだ。父上は貴様らを信頼し、貴様の姉を後添えに望んでいたし、貴様の姪をアロイスの婚約者にした。
アロイスもだ。あの子は貴様の姪を好ましく思っていた。お前の事も剣の師と慕っていたではないか。黙っていても、いずれ我が家は半ば貴様達のものになっただろう。それを、なぜ!!」
「半ばでは満足できないからだ。時を待つのも面倒だしな」
「貴様らは……」
「それに、確かに辺境伯と間抜けなアロイスお坊ちゃまは私達を疑っていなかった。
お坊ちゃまなど、最期の瞬間まで意味が理解できていなかったようだぞ。私の剣で胸を突き刺された時の、お坊ちゃまの間抜けな顔なぞ見ものだった」
「くッ!」
身内の最期を愚弄され、ベアトリクスは悔しげな声を漏らす。
オスグリアは構わず言葉を続けた。
「だが、お前は違った。そうだろう?
だから、二重王国に人をやって、私達の事を調べさせた。お前だけ城から逃げおおせたのも、私達の動向に気を使っていたからだ。違うか?」
「そうか、やはり、貴様らが目に余る非道を働いていたという噂は事実だったのだな。二重王国から亡命することになったのも、それが理由だったのだろう」
「非道などしていない。高貴なる者としての当然の権利を行使していただけだ。
だが、それに文句をつけて我らを罪に問おうとした者がいたのは事実だな。確かに、おかげで国に居られなくなった。
そして、そのことを知れば、辺境伯も私達を放逐しただろう。だから、決行を急ぐ事になったし、方法も乱暴になった。
つまり、この時期にこんな方法で辺境伯たちを殺す事になった原因は、お嬢様が私たちについて調べたせいということになるな。
まあ、どちらにしても、時期と方法が変わっただけのことだが」
「貴様らは、最初からそのつもりで……」
ベアトリクスとオスグリアがそんな問答を続けているうちに、他の追跡者もその場に集まって来ていた。
抜き身の剣を持った5人の兵士達がベアトリクスに近づきその周りを取り囲む。
覚悟を決めざるを得ない状況だ。
(もはや、これまでか)
そう考えたベアトリクスは、それでも気を強く保ちオスグリアを睨みつけた。
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