第38話 南方辺境領成立史

 エイクが向かおうとしているアストゥーリア王国の南部地域、レシア王国との国境に近いあたりは、王国において他の地域と区別して特に南方辺境領と呼ばれている。

 その理由は、この地域が比較的最近王国に編入されており、その際の経過により独自の制度が施行されているからだ。

 これには、アストゥーリア王国盛衰の歴史が大きく影響していた。


 そもそもの事の始まりはアストゥーリア王国の拡大である。

 オフィーリア女王と大精霊使いの間の子であるマキシムス2世は、オフィーリア女王の死の翌年、新暦977年に周辺への侵略戦争を開始した。

 当初その活動は極めて順調だった。オフィーリア女王の時代において、アストゥーリア王国は小国の一つに過ぎなかったが、周辺に存在した小国に対しては圧倒的に優位な立場になっていたからである。


 オフィーリア女王の治世は、概ね安定していた期間が長く、国力は充実し、周辺の小国に比べれば最も豊かで、民も幸福に暮らしている者が多かった。軍事・外交的にも優位で、小国の中でも盟主的な存在となって、苦境に陥った他国を助けたり守ったりする事すらあった。

 そのような状況だった為、アストゥーリア王国が拡大しようとした時、周辺の小国の民の多くは、むしろアストゥーリア王国の民となることを歓迎した。


 権力者の中にすら、無用の戦乱を起こすよりも素直にアストゥーリア王国に従った方が良いと考える者が少なくなかった。

 無論、王族など既得権益を奪われる事を嫌う者もおり、それなりに戦乱は生じたが、あっけなくアストゥーリア王国が勝利し、瞬く間に周辺の小国の征服は完了してしまったのだ。


 そうして征服された地域の民も、その後特に不自由する事もなく、アストゥーリア王国の統治はすんなりと受け入れられた。この時点で、アストゥーリア王国は大陸西方における有力国の一角を占めるようになった。

 そして、この時拡大した地域は、以後アストゥーリア王国の実質的な本国領域となったのである。


 だが、マキシムス2世はその後も侵略の手を止めなかった。

 紆余曲折の末に、北方の都市連合とは友好関係を継続し、東方のブルゴール帝国とも同盟を結ぶ体制を整えると、南方に位置したヴィント王国、次いで南東方向に存在したクミル王国と戦い、両国を征服したのだ。

 更に、アストゥーリア王国の拡大を嫌って介入して来た西方地域南部の強国レシア王国の大軍にも勝利する。

 結果、アストゥーリア王国は、ブルゴール帝国、レシア王国と並び称される列強の一員となった。

 この功績により、マキシムス2世は“大王”と呼ばれるようになる。


 アストゥーリア王国は、大王マキシムス2世の死後も繁栄を続け、やがてレシア王国すらも圧倒するようになる。

 そして1055年に、ついに王都を落としレシア王国をほぼ制圧した。

 ところがその翌年、東方よりやって来たハイドゥ・ルルカという卓越した武人の参戦によって情勢が変わる。

 レシア王国の残党軍に雇われたハイドゥは、残党軍追討の為に派遣されたアストゥーリア王国軍の部隊との戦いにおいて獅子奮迅の活躍を見せ、勝利の原動力となる。


 当時アストゥーリア王国はレシア王国の東に位置するラベルナ王国に対して、かなり無理がある攻勢を行っていた。加えて、北方都市連合やブルゴール帝国がアストゥーリア王国の拡大を警戒した、という外交的な情勢もあり、アストゥーリア王国はレシア王国の反撃に対して、戦力を集中させる事が出来なかった。

 この結果、ハイドゥ率いるレシア王国軍相手に幾度かの敗北を繰り返す事になってしまった。


 そして1057年。アストゥーリア王国は戦線を整理し、ついに戦力を集中してレシア王国軍と相対した。しかし、ハイドゥ率いるレシア王国軍に決定的な敗北を喫して、明らかな劣勢に陥る事になってしまう。

 その後、レシア王国は旧領を全て回復し、ヴィント王国・クミル王国も独立して、アストゥーリア王国の領土は本国領域にまで縮小した。


 1100年代になって、アストゥーリア王国は勢いを取り戻し、南方のヴィント王国へ侵攻した。

 ヴィント王国は、従前よりアストゥーリア王国を警戒しており、同じ立場のクミル王国と連携を強めていたのだが、これを機に国家合同をなしクミル・ヴィント二重王国となってアストゥーリア王国に対抗する。

 しかし、それでも二重王国は劣勢に立たされ、結局旧ヴィント王国領の大半がアストゥーリア王国に占領されてしまう。

 ここに及んで、二重王国はレシア王国に救援を依頼。奪還した領土の一部割譲という条件を提示して、レシア王国の即時参戦を実現した。


 レシア王国の参戦により一転劣勢となったアストゥーリア王国は、こちらもまた自国領土の一部を割譲してブルゴール帝国に救援を依頼した。

 こうして、争いは西方全土を巻き込む大戦へと発展することになったのだった。


 


 大戦は決定的な決着が付かぬまま、やがて和平が成立することになる。

 そして結果として、ブルゴール帝国とレシア王国は勢力を拡大した。戦闘は両国の国内では起こらず国土の荒廃を免れた上に、領土の割譲は間違いなく行われたからだ。

 逆にアストゥーリア王国とクミル・ヴィント二重王国は衰退した。国内で繰り返し戦闘が行われたたからである。

 特にクミル・ヴィント二重王国は、実質的なレシア王国の属国となってしまう。

 そうした中で、最大の被害を被ったのは旧ヴィント王国領だった。


 大戦の中でヴィント王国領は、北はアストゥーリア王国に占領され、南はレシア王国に割譲され、二重王国の元には東の一部しか残らなかった。

 そしてそのままの状況で和平が成立した。つまり、旧ヴィント王国領は三分割されてしまったのである。

 更に言えば、レシア王国領とアストゥーリア王国領の間には、緩衝地としていずれにも支配されない土地が出来たのだが、その土地は妖魔が住み着いてしまう。つまり、妖魔の領域も含めれば4分割だ。


 アストゥーリア王国における南方辺境領とは、この時アストゥーリア王国によって支配されるようになった、旧ヴィント王国領のことなのである。

 そして、この戦乱の中でアストゥーリア王国は、南方辺境領においては貴族が相応の軍事力と自治権を有することを許容した。これは、それまでのアストゥーリア王国の基本政策を覆すものだった。


 アストゥーリア王国では、オフィーリア女王によって貴族の権力を大きく抑制する政策が採られた。貴族の軍事力を削減し軍を王国政府直轄としたのもそのひとつだ。この政策は王国の拡大期にも堅持されていた。

 しかし、大戦が始まった際アストゥーリア王国は、ヴィント王国の貴族の降伏を促す為に、降伏後も軍事力の保有と一定の自治権を認めることにした。この結果、相応の有力貴族4家が降伏に合意した。


 加えて3人の有力な軍指揮官に、戦後の爵位と封土の授与そして部隊への指揮権の継続を提示して奮起を促した。

 これもまた極めて例外的な行いだ。

 アストゥーリア王国では、大きな功績を挙げた平民に爵位を授与することも頻繁に行われる。エイクの父ガイゼイクが男爵位を得ていたのもそのような例だ。

 そのような爵位は最初は1代限りとして授与されるが、その後も功績を挙げ続ければ世襲が認められるようになる場合もある。


 これも、平民も功績次第では貴族になれる事にして、既存貴族の権威を下げる為の政策だった。

 だが、そのような場合も領土が与えられることは殆どない。領地持ちの貴族を増やしては中央政府の力が弱まるからである。

 ところが、その大戦の際には、極めて例外的に領地持ちの、それも一定の軍事指揮権すら有する貴族を新たに作ることとされたのだ。


 大戦が終結した後、当時の王国政府はそれらの約束を守り、旧ヴィント王国貴族4家、元指揮官3家が南方辺境領に封じられた。

 だが、その領土の配置は王国政府の意向によって決められた。旧ヴィント貴族達に対しても配置換えが行われたのである。

 具体的には、最も広い街道が通り、軍を動かしやすい南方辺境領中央部には、その国境近くに守りの要として要塞都市ピルネが築かれ、その周辺は王国政府直轄領とされた。

 政府直轄領の西には旧ヴィント王国の貴族4家が、東には元指揮官の3家が配置された。

 以後、旧ヴィント王国貴族は南方旧貴族、元指揮官の貴族は南方新貴族と呼ばれるようになる。

 そして、その体制が今も続いているのである。

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