親✖子 のおはなし  涙の種類っていくつありますか?

凌 伍壱

第1話

「おとうさんさぁ、嬉しくって泣いたことある?」

七月の夏休みに入ったばかりの日曜日のランチタイム。夏色のポップで軽快なざわめきのする駅前のサイゼリア。

ざっと見渡して十代、二十代のキラキラした弾ける笑顔が、僕の視界に入り込む。夏の青空と強い陽射しを謳歌できる最強の世代。

この子たちにも親がいて、それぞれの親子関係があるんだろうなぁと、今の僕はそんなことに結び付けてしまう。

僕の向かいの席に座る、ひとり息子。小学五年生のナオキ。

一年間、バリカンひとつで季節をまたぐ、今時珍しい丸坊主頭のサッカー少年だ。

離婚したばかりで、同じ街には住んでいるのだが、帰る家は違う。帰る家が違うようになってから、日曜日のランチはこの店がオキマリになった。「焼肉がよくない?寿司屋にする?たまにはラーメン?」僕がいろいろな店を提案しても、彼はいつも「サイゼがいい」という。

サイゼリアの大ファンだ。とにかく気にいっているドリンクバーは、数種類の味を混ぜてオリジナルジュースにする。必ず注文するチキンのチーズ焼きは、ナイフとフォークを使って微笑みながら無我夢中で切り刻む。この作業が一番気にいっているようにも見える。

一週間が待ち遠しい。月曜日から日曜日の、この日を楽しみにしている僕がいる。

「嬉しくって泣く?なんで?」

改めて聞かれれば、嬉しくて泣いたこともなければ、そのことに疑問をもったこともない。

僕は飲んでいたコーヒーを静かに置いて、ナオキに尋ねた。

「ユウタって覚えてる?あのドッチボールで同じチームだった。ユウタがさ、自転車で車とぶつかちゃって、事故したんだよね」

運動神経抜群のユウタのことは、僕もしっかりと覚えている。

「でね、救急車で運ばれたんだけどさ、そんなにたいしたことはなかったんだよ。なのにさ、ベットで寝ていたユウタを、ユウタママが病院に飛んできて『たいしたことがなくて、良かった、良かった』って嬉しくって泣いたんだって」

切り刻むことを終えてフォークにチキンを刺し、「うまっ!」「うまっ!」と口にひとつ入れるごとに感想を口にする、ナオキの日焼けしたくしゃくしゃになるいつもの笑顔。

「そりゃあ、嬉しかったんだよ。嬉しかったのもあるけど、安心したんじゃないか?

交通事故って聞けば誰でもびっくりするしな」

僕もたいしたことがなかった、と聞いてほっとしながら、彼の顔をみていた。

「安心しても泣くのかぁ。泣くってさぁ、痛いときか悲しいときだけなんじゃないの?おとうさんは、ある?嬉しくって泣いたこと」

運ばれてきたピザとソーセージの盛り合わせに、ますます彼の笑顔の点数が増していく。

早くも百点満点に手が届きそうだ。

僕は、四十六歳。西嶋孝雄。

十九歳から水商売の世界にどっぷりとつかり、今は細々とガールズバーを経営している。

本来、「資格を取る」という作業にはさまざま勉強や試験を乗り越えて晴れて資格というものを手に入れるのだが、「親」になるのにはそれがない。誰にでも簡単に手に入れることができる「資格」だ。極端な言い方をすれば、十か月後には誰でも親になれてしまう。ナオキと住まいを分けてから、ひとり、「親」について悶々と考えてしまう時がある。

離婚の理由なんて、百人いれば百通り、それが悪いことだなんていわない。僕にも僕の人生がある。ナオキのそばにいるためだけに、自分の夢を捨てるのか?答えはNOだ。

ただ、子供とのことだけを考えると、大人の勝手な事情で別々に暮らすことになったナオキの目に僕はどう映っているのだろう。大好きなひとつのシュークリームをふたつに分けて、どっちが好き?なんて野暮な問いかけはしない。

妻のもとで暮らすほうが、彼にとってはいいに決まってると思ったからだ。彼の成長を一番近くで見ていたかった矛盾が、まだ僕の中で整理できないでいるだけだ。

「嬉しくて泣いたことなんてないよなぁ。嬉しさの一番上なんだろうな。涙にもいろいろな種類があるからね。一度くらいは、嬉しくて泣いてみたいよね。涙の質問、いい質問だよ!どんなことにでも、疑問をもつことはいいことだからね」

僕に褒められて、うん、うん、と深くうなづき、来週から始まるサッカー大会の話に今度は目を輝かすナオキがいる。指折り数える待ち遠しかった彼との時間は、あっというまに過ぎてしまう。

冷房の効いた店からおもてに出ると、もわっとした熱気と七月の太陽がじりじりと僕たちに近寄ってきて、一気に汗が噴き出してくる。

彼は「クソあちぃ!」と顔をしかめ、真っ白なTシャツの袖で汗を拭う。

ここで、また一週間のお別れとなる。

ナオキは右へ、僕は左へ。

彼はどこまで理解しているのかわからないが、乗ってきた自転車にまたがり、振り返りざまに「おとうさんさぁ、そろそろ帰ってきなよぉ」そう笑いながら白い歯をみせて僕に呟く。

その言葉に僕の目にはうっすらと、ふり幅の大きな葛藤の涙の膜が張る。

どんどん小さくなっていく、自転車を立ちこぎする彼の背中がゆがんで見えた。


 

「今日、女の子多い?少なかったら出勤したいんだけど」

初めて僕と会った面接の時から、ずっとタメ口の二十一歳、ヒナノからラインがきた。出勤すると言って来なかったり、時間ができたから出勤できると言ったり、彼女たちに振り回されるのも僕の仕事のひとつである。

階段で上がる雑居ビルの三階。ドアを開ければ、左右の壁に沿って平行に黒のカウンターが続く。壁は一面、鏡で覆われ、床と椅子は赤。店内は赤と黒の二色だけだ。 ボトルラックの隙間から、鏡に映る彼女たちの背中が客からは見える造りだ。椅子の数は、十四。そんなこじんまりしたガールズバーが僕の仕事場である。

開店の準備をしていた十六時頃、ドアが開いた。まだ営業まで二時間もある。

「ホント、うちのお姉ちゃん、クズだよ!また子供産まれたんだってさ!今度はホストの子だって。産めばいいってもんじゃないじゃん!避妊しろよ、避妊!」

ドアを閉めるなり、カウンターの中で開店準備をしている僕にはお構いなしに、ヒナノが椅子にどっかりと腰を落とし、客みたいな顔で僕に話しかける。

「上の子は、六歳だっけ?」

僕はオシボリの籠を隅におき、注文して届けられた酒を所定の場所に並べ、振り返りながら彼女の話を聞いている。

九つ年齢が離れているヒナノの姉は、上の子を自分の母親にあづけて、そのホストと暮らしているシングルマザーである。彼女が子供の頃、父親がいきなり蒸発して、母親と姉の三人暮らしとなった。蒸発した原因は、父親の不倫の末の駆け落ちだ。

母親はショックで、育児放棄となり働くことも家事もせず、この姉が年齢をごまかし夜の仕事でヒナノの学費や修学旅行のお金を出してくれていたのだという。

いいお姉ちゃんなのだが、男にだらしなさすぎる、とヒナノは嘆く。

「なんで産むかなぁ。自分がママって呼ばれたいときにしかミホのまえに顔を出さないくせに。それなのにミホはママのことが大好きでさ。クズ女のことがミホは大好きなんだよ!」

ミホとは六歳の姪っこのことだ。

彼女はカウンターの中で忙しく動き回る僕を、目で追いかけながら話を続ける。

「ねぇねぇ、見てよ。虫歯だらけなんだよ!

ミホは女の子なんだよ!歯は入れ替わるから虫歯でも大丈夫って、バカかよ、あの女。歯磨きしてあげないなんて虐待だよ!

うちの母親と同じで育児放棄だよ!私が虫歯だらけで子供のとき口を開けて笑えなくって、うまく笑顔ができないって泣いてたこと、お姉ちゃんも知ってるくせに!」

虫歯だらけで大きく口を開けて笑う、無邪気なミホの写真をスマホで見せてくれた。

高校卒業してお金を貯めて、一番最初にしたことが歯をキレイにすることだったと彼女は言う。

「私がどれだけなにもしてくれない母親のことで泣いたか、苦しんだか、お姉ちゃんは知ってるはずなのに。育てる気がないんなら産むなよ!ふざけんなって!産むなよ!ミホがかわいそうだよ!」

彼女にかける言葉が見つからない。

僕は、スマホの中で見せるミホの愛くるしい今の笑顔の先にも、笑顔が続きますように、と思いを馳せる。

「やっぱ、今日ムリ!帰る!簡単に産むなよ!ふざけんなって!」

バックを片手に椅子から立ち上がったボーイッシュショートなアヤノの一重瞼の大きな瞳に、自分の十代と重ね合わせた、ミホの将来を悲観する憤りの涙の膜が張る。

「親が子供を愛するって、あたりまえのことじゃないんだよ。子供よりも自分が一番なんて思ってる親なんて、ゴロゴロいるしね」

そんな残酷な言葉を、あえて僕は飲み込み、口にはしない。

出ていくヒナノの背中に「気をつけてな。また、出勤できるときあったら頼むね」

そんな言葉しか掛けられない僕がいる。



 土砂降りの雨の音がうるさいくらいに聞こえる台風の夜。「やっぱ、お客さん来ないね。今日は閉めようか」と女の子たちを帰し、【CLOSED】のプレートをドアノブに掛けようとしていた時だ。二階の雀荘のオーナーの篠原さんがひとりの男の人を伴ってドアを開けた。

「西嶋さん、やっぱオワリ?この台風じゃねぇ。うちもお客さんゼロでさ」

「いえいえ、大丈夫ですよ。さぁ、どうぞ」

僕はカウンターの中から席に案内して、おしぼりを差し出した。

篠原さんは、同じビルの二階、三階という付き合いから始まって、今ではこの店の常連さんになった人だ。彼に対しての接客は女の子ではなく、いつも僕ではあるが。

僕より一回りと少し年齢が上のバツ二。現在、離婚後に知り合った女性と事実婚中である。シルバーでカラーリングされた真っ白な短髪と、原色をおしゃれに着こなすファッションは年齢よりも全然若く見られる六十歳である。今日は、夏の空を思わせる鮮やかなスカイブルーの七分袖Tシャツだ。

「こちら、永井さん。西嶋さんと同い年くらいですよ。家に帰るのが嫌で嫌で、ウチの雀荘が別荘みたいになってる人です」

篠原さんは笑いながら永井さんに目をやり、僕に永井さんを紹介した。

「別荘だなんて。篠原さん、そんないいもんじゃないでしょう。エアコンも効きが悪いし。初めまして、永井です」

永井さんは、おしぼりで手を拭きながら、僕に軽くお辞儀をした。髪はツーブロックで六・四にジェルで自然な感じでわけている。端正な顔立ちに清潔感のある濃紺のスーツが似合うエリートサラリーマンという風体である。

僕は、篠原さんの芋焼酎のボトルを出して、三つのグラスに酒を注ぐ。

「西嶋さん、この永井さん、かわいそうなんですよ。ここからタクシーで千円もかからないところに住んでるのに、家に帰りたがらないんですよ」

いつもの芋焼酎のロックを唇に濡らす程度にチビチビとやる篠原さんが笑う。

なにも語ることなく、苦笑いを浮かべながら永井さんもグラスを傾ける。

なにやら、ややこしそうな話題であると思った僕は、ミックナッツと篠原さんのいつもの馬刺しジャーキーを皿に盛りつける準備をしていた。

「西嶋さん、駅前のSSSサンライズ知ってるでしょ?あのタワマン。あそこを買ってるんですよ。すごいでしょ、永井さん。奥さんが女医で永井さんは大手製薬会社の部長。パワーカップルって言うんですか?かわいいお嬢さんが二人いて、仮面夫婦を一生懸命やり始めて、もう四年になるんですよね?ねぇ、永井さん」

一生懸命、仮面夫婦をやり始めたという篠原さんの言い回しに、笑うところではないと、僕はぐっとこらえて視線を下に落とした。

際どい話をあけすけに「今日のランチはカツカレーにしましたよ」的な軽いノリで僕に話す篠原さん。さすが篠さんだなと、僕の口元が緩む。

「下の子が八歳だから五年ですよ、五年。篠原さん」と諦めたような笑みを浮かべて話をする永井さんに、「訂正するところですか?そこ!」と三人で声を出して笑った。そこで、初対面の永井さんと僕との距離も近くなったような気がした。

なにが原因でこうなったのか、見当もつかないと永井さんは言う。

洗濯は家族と別。食事も用意されてない。

小学生の娘と中学生の娘は、母親がいないときには仲良くできるのだが、母親に怒られるのか?母親の前ではいっさい口もきかなくなる。

リビングで家族でテレビを見ていても、永井さんが帰宅すればドアを締め切るか、もしくは部屋を移動してしまう。盆、正月には、娘二人を連れて奥さんが自分の実家に帰ってしまう。

永井さんの両親には、かれこれ五年、孫の顔すら見せていない。

意を決して離婚の話を永井さんがしても、子供二人が大学卒業するまでは受け付けない。奥さんからは、二度と離婚の話はしないでください、と強く言い渡されているという。

「八歳の娘が大学卒業するまで、あと十四年。マンションのローンと生活費、娘たちの私立の中高一貫の学費は折半。さらに大学のお金ね。奥さんからすれば、そこだけが永井さんと別れたくない理由なんですよ。結局、金なんですよ」

篠原さんは、タバコに火をつけて「この分析に間違いないでしょう?」というような誇らしげな顔で僕を見ている。

胸を張るところじゃないだろう、とツッコミたくなる場面ではあるが、初対面の僕には、なにしろ多すぎる永井さんについての情報量だ。

しかし、人はホント見かけによらないものだなぁと、永井さんの顔をまじまじと僕は見つめた。

外野からみれば、誰もが羨むタワーマンションに家族四人、幸せいっぱいの仲良く暮らす人生の成功者の景色しかでてこない家庭である。

お金があるからといって幸せそうに見える家庭でも、やはりいろいろな悩みを抱えているのだ。

「六十歳ですか。篠さんの年齢まで仮面夫婦やる意味あるんですか?十四年ってメチャクチャ長いし、時間がもったいなくないですか?」

僕は、立ち話も足が疲れるので、カウンターの奥からハイカウンターチェアを持ち出し、そこに腰かけ、永井さんの返事を待った。

「日によって自分の考えがバラバラなんですよ。娘たちの笑い声や匂いのするあの部屋に帰れば癒されるし、彼女たちとできるだけ一緒にいたいと思うし。

自分のこれからの十四年なんて、やりたいことなんて別になにもないし。

またある時は、話かけても返事もしない、無表情な妻の顔を見るだけで怒りを通り越して、やりきれなさから逃げ出したくなるときもあって。こんないびつな家庭環境に娘たちをおくこと自体に申し訳なく思って泣けてきたり。

また日が変われば、自分の人生、これでいいのか?一人暮らしで気ままに暮らすのも悪くないんじゃないか?とか、今時、世間体を気にするわけじゃないが、自分の両親を悲しませるんじゃないか……とか、考えがまとまらないままの五年なんですよ」

関を切ったように僕に語りだし、薄紫のネクタイをほどき、苦悶の表情で芋焼酎をぐいっと永井さんはあけた。

彼の気持ちは手に取るようにわかる。

永井さんに僕の現在の境遇の話をした。毎週日曜日に、ナオキとサイゼリアでデートをする話を。離婚したばかりの僕は、彼からしたら、もしかしたらこれから自分が歩き出すところへ、先に歩き出している先輩にあたるかもしれない。

そんな顔で興味深々、大きく頷きながら、僕の話を真顔で聞き入る永井さんがいる。

「もったいないよなぁ。五十前なんてなんでもできるのに。考え方や価値観なんて、人それぞれだからなんとも言えませんけどね。

もう一度、結婚だってできますよ。俺なんて二回も結婚してますからね。

だけど、六十になった俺から言わせると、場面、場面で人生の終盤を感じることが増えてきますよ、いくら人生百年なんて言われてる今の時代でも」

グラスをゆらゆら揺らして、中で動き回る氷を見つめながら少し酔った篠原さんがつぶやく。正解のない難問。特に珍しくもなく、そこらへんに転がっている石ころくらいによくある話だ。ただ、石ころにしては自分の人生だけじゃなく、取り巻きすべてを左右する大きな話でもある。今の僕でさえ、ナオキとの葛藤のふり幅に涙することもあるというのに。

「あのね、西嶋さんも永井さんも、子供が可愛くて仕方がないのはわかりますよ。

でも、ずっと一緒にいられるわけでもないし、逆にいたら『いつまで実家にいるんだ。自分、独りで生活してみろよ』ってケツでもたたくでしょ。子供だっていつまでも子供じゃないんだ。俺は二回結婚してて、二回目の奥さんには子供いないんだけど、最初の奥さんには子供がいるんです。今でもたまにメシを食うけど、男としての俺の生き方、息子に羨ましがられてますよ。子供が大人になったときに、親をひとりの人間としてどう思うかって話ですよ。そばにいなきゃ愛情が伝わらないってわけじゃないしね」

篠原さんの話に、唇に力を入れて腕組みしたまま、天井を見上げる永井さんがいる。彼は日々、この難問と向き合い仕事もしているのであろう。

「今の自分のしてることって、十四年後の自分は後悔すると思いますか?篠原さん」

僕の方をチラッと見てから、篠原さんの方に永井さんは顔を向けた。どちらが、正解、不正解ということはないのだが。

「ああ、すると思うよ。娘たちもやがて結婚して独立していく。今は想像もできないと思いますけどね。

でもねぇ、しょせん、人間最後はひとりですよ。自分の手でハンドル握って、アクセル踏んでブレーキ踏んで人生、進んでいくんです。どこに向かってるかって?しあわせって言うとハードルが上がっちゃうから、ふしあわせじゃないところに向かっていくんですよ。

その方がマトが広くていいでしょう。それぐらいの気持ちでいいんです」

しあわせを欲しがるのではなく、ふしあわせではない日々を探してみる。

なんとなく気持ちが楽になる。

これからの自分ひとりの生き方なのに、自分ひとりのことではない歯がゆさ。

いろいろなシガラミで動けなくなっている永井さんがいる。

何十周もグルグル変わる考えに、決断できない自分に対して彼の目いっぱいに自己嫌悪の涙の膜が張る。

真面目すぎるから、真面目過ぎるが故の自己嫌悪である。

「大人になって抱える問題って厄介ですよね、仕事も家庭も人間関係も」

僕は、飲むペースが早くなった篠原さんのグラスに酒を注ぐ。永井さんのグラスにも氷を足して水で割り、そう声をかけた。

——つまんねぇ人生になっちゃったなぁ……やめたいよ……もうやめたい。

ボソッと一言、うつむいたままの永井さんが漏らす。篠原さんのやさしい手のひらが、永井さんの背中をやさしく、ぽぉん、ぽぉん、と包み込むようにたたく。

窓ガラスにぶつかる雨粒の砕け方で、雨足が強くなってきたのが、店の中にいてもわかるほどだ。沈黙の中でバチバチと店内に雨音だけがうるさく響く。

「西嶋さん、一曲歌っていいですか?」

そう笑って、カラオケのリモコンを篠原さんが引き寄せた。壁に掛けられたモニターには、篠原さんの選曲したタイトルが浮かび上がる。

「篠さん、いい歌いれますね」

僕の声に、うなだれていた永井さんが目線をあげる。そして、口を真一文字にした永井さんが椅子をくるりと回転させて、モニターに向かって顔をあげた。

「やりきれない今の暮らしと、今だけは生きてる意味なんて探さなくてもいいんだよ」という、せつなくてやさしいバラード。

しゃがれた声で篠原さんが、気持ちを込めて精一杯唄う。マイクを持つ篠原さんの背中の後ろで、永井さんの肩が大きく揺れて崩れて落ちた。












































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