母を背負う

 そういって少年の身の上話が始まった。


 まず母は私の生物学的な親ではありません。戦後すぐのことだそうです。捨てられたのか実の親になにかあったのか、路傍に放り出されていた赤子の私を当時比較的裕福だった母とその家族が拾い育ててくれたのです。


 しかししばらくして私が普通の子供、もっというと普通の人ではないことが分かりました。一向に成長しない――厳密には少しずつ成長してはいたのですが余人に比べてそれが異常に遅かったのです。私は覚えていませんが、歩き始めるのに拾われてから四年半もかかったそうです。

 この低成長が現在までずっと続いているわけですが、当時からとても年齢相応の振る舞いができる状態ではありませんでした。他の同年代が職に就き、働き始めたときでさえ私の肉体はせいぜい二、三歳のそれだったのです。……それにもしわたしのがばれたとき、世間が私や母の一族に対してどう扱うのか――排斥されるなどとは思っていませんでしたが奇異の目を向ける者たちに押し掛けられることを恐れたのです。当時はちょうどテレビが頭角を現し始めた時期でもありましたから――母も私もそれを不安に思ったのです。

 これまでは財産も有りましたし、母に甘えて家にひきこもって難を避けることが許されていました。

 しかし、と一度話を切って男は小さな手でコップを持ちあげてお茶を飲む。


「母ももう年です。こう言っては不謹慎ですが、後事について安心して死んでほしい。いい加減に私もおとなとして独り立ちしたいのです。……ダメ元で先日ハローワークにいったのですが、まぁ当然というか門前払いされましてね。それからはどう私の真実を発信しようか、世間の人にどう受け止めてもらうかの試しをできないかということを考えていました」


「そうしたときに出会ったのが後藤さんでした。私に話しかけてきたあなたは明らかにわたしにを感じていました。私の直感でこう思いました。天恵だと。この人さえ納得させられなければ終わりだと。生来思い立って我慢ということを知らない性分でしたから、思い立ったが吉日とこうしてお話をしているのです」


 少年風の男は愛想笑いして「失礼の言い訳をすると、あなたの方もわたしに興味がおありのようでしたしね」と付け加える。



 奇怪だ。話を聞きながらわたしはそう思う。理解したのは彼が真剣に話しているということと、この男が自身の進退に対して非常に焦った様子であるということだけだった。やや間をおいて言葉を発する。


「いや、まあ……冗談だとは思いませんが……」


 コンコンコン


 「とても実感がわかない」そう話す前にドアを叩く音が部屋に響いた。男が立ち上がってドアを開けるとそこには藤谷婦人が立っていた。


「後藤さん、少しよろしいかしら」


 老婦人に呼ばれて椅子を立ち外へ向かう。部屋を出る直前、男が気まずそうに顔を背けているのが目の端に映った。バタンと扉を閉じたところで婦人が話し始める。


「とんでもない息子ですみませんね。家族以外とあまり関わってこなかったものですから、少し人との距離感がおかしいの。叱っておきますから、どうか許してね」


「いえ、むしろこちらが首を突っ込んだ方ですから」


 あら、と婦人が驚いた顔を見せる。


「小学生のころに彼を見かけたことがあるのです。先日みかけたとき、息子さんの姿が記憶のものとあまりにも同じだったので、一体どうしたものかと好奇心が湧いてしまったのです。記憶力には自信がありますから」


 図りかねた様子の婦人にこう説明を加える。


「そう……あの子のこと、感づいてらしたのね。人に違和感を持たれないように住まいを転々としてきたつもりだったけれど、何十年目にしてどうやらすごい人に見つけられてしまったわね」


「い、行く先々でこんな立派な家を……?」


 この家の外観や敷地の広さを思い返して、つい尋ねてしまう。いったいどれほどの金持ちなのだろうか。それに対して婦人がクスクスと笑いながら答える。


「まさか!ここは私の実家だから特別よ。他はアパートとかそんなものよ。ここは以前は弟が管理してたのだけど、終の棲家にと四年前にゆずってもらったの。まあ、建てようと思えば建てられるだけのお金はあったけれど、できるだけ残しておきたいしね」


 ところで、と婦人が真面目な顔で話題を変える。


「……気分を害されたらごめんなさいね。息子はあなたに何を話していたのかしら?もちろん無理にとは言わないけれどよかったら教えてくれない?最近はどうもわたしにも隠し事が増えてきて」


 なるほど、どうやらあの男、養い親になんの相談もしていないようだ。






 一方その間、部屋の中では男がしずかに待っていた。初めは椅子に座っていたが、二、三分で飽きたのか立ち上がって部屋の隅の本棚の方へ向かう。本棚の一角はファイルが占めていて、左から「アルバム1」、「アルバム2」、……と書かれている。

 男はその右端の「アルバム総まとめ」と書かれたファイルを手に取る。中には男の過去が納まっている。一ページ目には一枚の白黒写真があるだけだった。まだ若く十代後半の藤谷婦人が赤子の彼を抱いている。なぜ撮られたものなのかは男自身も知らないが、日付を見てまだ彼の異質さが分かっていなかった頃の写真だということは知っていた。

 男は数秒その写真を見たのちページをめくる。その後のページはパッと目を通すだけで済ます。


 パラリ、ページをめくる。パラリ。パラリ。はじめのうちは婦人の他にその親兄弟が映っているものも数枚あったが、めくるごとにそれも少なくなる。三ページめの途中で早くも男と婦人のどちらか片方しか写らぬようになる。写っていない方が写真をとるのだ。

 パラリ。パラリ。パラリ。七、八ページもめくると写真の中の母親は年相応の大人っぽさを帯びてきたが、彼はまだ幼子だった。

 パラリ。パラリ。パラリ。写真がカラーになった。

 パラリ。パラリ。パラリ。母に白髪が増えてきた。段々親子というより祖母と孫というような見た目になってくる。写真の画質もどんどん上がっていく。


 パラリ。パラリ。パラリ。

 パラリ。パラリ。パラリ。

 パラリ。パラリ。パラリ。

 

 最後のページを見終わり、アルバムを閉じる。数秒目をつむった後、はあっと溜息をついて今度はアルバムの逆からパラリ、パラリとめくっていく。


 ガチャリ。


 扉が開く音がする。ドキッとして男は少し慌て気味にアルバムを棚に戻す。隠す意味もないのだが。

 男が目を向けると部屋に入った後藤が扉を閉めるところだった。


「母との話は終わりましたか?」


「はい、まぁ……」


 会話は進まず沈黙が流れる。先に沈黙を破ったのは、部屋に入ってからなにやら考え込む様子をしていた後藤だった。


「お母さまにはなんのご相談もされてないのですね。婦人はあなたがもう何十年かは遺産のやりくりで生活すると思っておられましたよ。」


「ええ。うまいこといく前に相談したところで不安にさせるだけなので。普通に考えて十一、二歳のが働ける場所にまともな所は少ないですからね。中身は云十歳とはいえ凡人ですし」


「もっともな考えです。しかしその考えでいくと先ほどの真実を世間の人に受け止めてもらうか云々はあなたのひとりだちにとって無意味なのでは?」


 図星をさされたのか男が目を伏せてふっと息を吐く。


「……おっしゃる通りです…………」


 再び沈黙が流れる。男が窓から外を見やる。黒みがかった雲が立ち込めていて、時刻以上に外が暗くなっていた。


「天気が悪くなってきましたね。雨が降ってしまう前に帰られた方が良いでしょう」


「あ、じゃあこのあたりで失礼を……」


 後藤も気まずくなったのか帰り支度をする。

 婦人は玄関で別れの挨拶をしたのち出てこなかったが、男の方は屋敷の門の外までついてきた。


「今日はありがとうございました。ずっと人に秘めてきたことなのであなたに話せて気持ちが少し楽になりました。学業の方、頑張ってくださいね」


「ありがとうございます。そちらも色々苦労は絶えないでしょうが、あまり気に病まれないようにしてくださいね。何か困りごとがあれば微力ながらお力添えします」


 帰宅する後藤を見送ったのち、男はフッと息をしてから自嘲気味に笑みを浮かべて独り言を言う。


「店員や配達員くらいとしか話してこなかったので気づかなかったが、僕はとてもではないね。未熟が過ぎる」


 屋敷に戻ると母がリビングにおいてあるベッドに戻ろうとゆっくり廊下を歩いていた。最近はあまりベッドから出ない。今日は珍しかった。その背中を見て、老いた母の姿とアルバムの若い姿を比べる。アルバムの自分と今の自分を比べる。


「お母さん」


 声をかける。聞こえなかったようだ。年齢以上に健康だった母も、最近は近くでないと会話できないくらいには耳が遠くなっている。靴を脱ぎ小走りで追いかけて隣に並ぶ。


「お母さん!」


 母が気づく。


「僕がおぶって運ぶよ」


 母がちょっと意外な顔をする。


「いいわよ。まだ重たいでしょ」


「いいから」


 腰をかがめて背負う体勢をとる。そう?といって母が背中にもたれる。

 背負った母はやはりそれなりに重たかった。


「大丈夫?重くない?」


「もうだよ」


 そうとだけ答える。


「子供の成長は結構少なく見積もってしまうものみたいね」


「何年たっても」と付け加えてフフッと背中の母が笑う。

 

 それを聞いて心の中で思う。違う、実際まだなのだ、と。頭でそう考える一方で、とめどなく思いがあふれてくる。背負った母の重みを感じつつ、落とさないように注意して足を進めながらその気持ちを整理する。


 でありたい。せめて母の前ではおとなぶっていたい。小さい体だけど、年に合わない未熟な精神だけど、それでも親に成長を感じてほしい。少しでいいから。

 孝行の一つ二つにもならないかもしれないけれど、もうおとなの子供だと思ってもらいたい。

 

 だっていつまでたっても、僕は母のだから。

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おとなの子供 荒糸せいあ @Araito_Kaeru_0828

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