おとなの子供

荒糸せいあ

見慣れぬ少年

 わたし、後藤あかねは常人にはるかに勝る抜群の記憶力をもつ。本は一度読めばそらんずることができるし、人の顔は道ですれ違った程度でも忘れることが無い。

 だから人から第一印象とのギャップを感じて驚かされることも常々なのだが、そんなわたしがこの人の第二印象ほど驚きを与えるものはあるまいと思っている人がいる。


 その頃は大学の夏休みで実家にかえっていた。同じ県北ではあるがわたしが高二のときに引っ越したところなので知らないところも多い。

 八月十六日、昼下がり。勉強の気分転換に父がやっている庭の畑に出ていたときのことだ。小学高学年くらいの男の子が買い物かごを持って家の前の坂道をのぼっていくのが目に入った。


「えっ」


 思わず声が出た。それが聞こえたのか少年がわたしにむかってこんにちはと挨拶をする。

 あまりの驚きに放心したわたしにはそれに対してペコリと会釈をするのが精いっぱいだった。


 生まれて初めて自分の記憶力を疑った。さすがのわたしでも一度見ただけとなると覚え違いもあるのか、と。その少年はすでにわたしの記憶の中にいた。十年前、家族といった旅行先の東京の百貨店で、わたしは今と変わらぬ姿の彼を見たことがあった。


 家の前を通り過ぎた少年が入っていった先は三つとなりの家だった。あまり詳しくないが、藤谷さんという老婦人がすんでいるところだ。自治会の会長として彼女がおととしの夏祭りの挨拶をしていたのを覚えている。


「藤谷さんのご家族ってどういう方たちなの?」


 家に戻ったわたしは母にそう尋ねた。母はとりこんだ洗濯物をたたみながら話す。


「藤谷さんって三つとなりの?彼女独り身じゃなかったかしら。少なくとも旦那さんはいらっしゃらないはずよ。……名家らしいから跡継ぎの養子をとられていることはあるかもしれないけど。どうして?」


「いや、さっき十歳くらいの子供が入っていくのをみかけて……」


 あら、不思議ねとのんきに答える母にわたしはさらに尋ねる。


「その子見たことない?」

 肩をすくめて覚えてないわ、と母。その日謎の少年についてこれ以上の進展はなかった。


 次の日からわたしは庭によくでるようになった。あの少年がまた見れやしないかと考えたのだ。初日は見かけなかった。二日目もだれも通らなかった。三日目、ようやく買い物かごを持ってでかける少年と出くわした。


「こんにちは」


 今度はこちらから挨拶をする。それに気づいた少年が挨拶を返す。


「畑仕事ですか?大変ですね」


 帽子をかぶって畑のそばに立っているのを見てそう思ったのだろうか。子供特有の高い声で尋ねられる。わたしは待ち伏せまがいのことをしていたことに罪悪感を覚えて正直に答える。


「あー。いや、えっと……ごめん!実は君に会ってみたくてここを通らないか待ってたの」


 自分のしていたことを口に出してみて、(あれ、ひょっとしてわたしのしてたことって相当ヤバい?)と思いつつ彼の反応をうかがったが、そのあと彼が口に出した内容は完全に予想外のものだった。


「あー、もしかして昔どこかで会ったことありますか?」


 わたしは不意の質問に目をぱちくりさせながらもそれに答える。なぜ彼はそんな質問をするのだろうか?


「会ったっていうかこっちが一方的に見かけただけなんだけど……」


 「東京で」そう言いかけて口をつぐむ。冷静に考えて「いついつどこそこで君を見かけました」なんて子供に話しかけるひとって危険人物以外の何者でもないじゃない!手段といい動機といいこれでは完全に変質者だ。


「……うん!よく考えたら人違いだったかな!いやー、ここに引っ越してきてから約二年、いかにわたしがインドア派とはいえ近所に全く知らない子をみかけたもんだから気になっちゃってねー」


 誤魔化せてないぞ、と心の中で思いながら早口で言い訳を述べる。

 しかし一方の彼は顔に手を当ててなにやらものを考えていた。

 三十秒か一分か気まずい沈黙だけが私たちの間に存在した。もしかしたらもっと長かったかもしれないし短かったかもしれない。

 やがて彼がこちらを見上げて口を開く。


「よろしければうちにいらっしゃいませんか?」


 どうやら距離感がおかしいのは、わたしだけではなかったようだ。



 小さいながら細かく彫刻の施された美麗な門、周囲より少しばかり高い立派な屋敷、それらと対照的に広い庭にはまばらに雑草が生えていた。門から二十歩ほどあるいたところにこれまた古風で趣のある玄関が構えてある。少年は玄関をあけてわたしを招き入れ、突き当りの部屋に案内する。その途中で少年はリビングをのぞき込み、


「お母さん!ただいま」


 そうやや声を張って呼びかけた。中には正しく藤谷婦人がおり、老眼鏡を額にあげて本を読んでいた。もう御年も九十に差し掛かるはずである。婦人は記憶にある姿より更に老けて元気がないようだった。それでいて気品をいささかも失っていないのはやはりこの人の厚みというべきだろう。しかしお母さんとはどういうことだろうか。親子というよりは祖母と孫くらいの年齢差があるように感じるが……


「おかえりなさい。買い物はどうしたのかしら?」


「ちょっと話をしたい人と会ってね。後でまた行くよ」


 そういって少年が後ろに立つわたしが婦人に見えるように身をよじる。わたしを見た婦人は驚いたような表情をうかべた。


「後藤さんのところの娘さんじゃあない。あなたこんな若い子を連れ込むなんて……」


 そう話す婦人の口調は少し非難めいている。それを少年が適当になだめようとする。わたしはそれを聞きながらぼんやりと考え事をしていた。今の婦人の発言はどうもわたしの方が彼よりずいぶん年下のような風ではなかったか?


「ふぅ、いやすみません、お待たせしました後藤さん」


 婦人をあしらった少年が話しかけてくる。そのまま彼に連れられてわたしは屋敷の奥にある彼の部屋の中へ入った。


 部屋に入ると少年が椅子を手で示し腰掛けるように促す。そのまま、お茶をいれてきますので少々お待ちを、と言って部屋を出る。少年は戻ってくるとお茶を差し出しながら話し始める。


「才媛と名高いあなたならもしかするとお察しかもしれませんが、わたしの年齢は見た目通りではありません。……あなたを招いたのもそれに関係するのですが、実は私の年齢はすでに七十を超しているのです。」


「はぁ……」


 あまりの非現実な内容に気の抜けた返事をするわたしに対して、目の前のは深刻な表情で真面目に話をしているのだと言外に訴えかけてくる。しかし、私の目にうつる彼の姿の何もかも――ひげも生えない柔肌、つやのある髪、いまだ筋肉のつききっていない体、床につかずに宙に放り投げられている足――が逆に話の説得力をそいでくる。

 いまだに冗談に聞いているかのようなわたしを見て彼は頭を掻いて再度口を開く。


「そうですよね。戸惑われるのが普通です。……分かっていただくためには私の身の上話をした方がいいでしょう」


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