第50話 第3回諸侯会議 江戸

空想時代小説

今までのあらすじ 

 天下が治まり、日の本は諸大名の元、安寧の世の中になると思われた。

 朝廷より武家監察取締役に任じられた秀頼は真田大助と上田で知り合った僧兵の義慶それに影の存在である草の者の太一と諸国巡見の旅にでた。越後からいっしょだったお糸は琉球で火事にあい、亡くなってしまった。徳川家光は後継ぎとして駿府にもどって、本多忠刻が亡くなったため、徳川家再興となり駿府藩の藩主となっている。平泉から供をしていた元山賊の春馬は震災にあった土佐の村で好いたおなごができて、そこに残った。それに鳴門で秀頼を弟の仇と襲った加代が姫路から同行した。そして高取城から連れてきた者どもと一緒に伊賀上野の統治にあたり、3年後、伊賀上野を義慶と加代に任せ、秀頼は再び諸国巡見の旅に出たが、信州松本で盟友真田信繁の臨終に立ち会い、諸国巡見を終え、伏見に居を移すことにした。信繁の末娘おたきといっしょである。大坂で母淀君との面談を終えて秀頼は伏見での活動を始めた。その年の秋には第2回諸侯会議を開くことができた。そして第3回諸侯会議を前にして四国探題が亡くなった。その後継ぎ問題で会議は紛糾しそうな雰囲気であった。


 諸侯会議に旅だとうというころ、おたきが女の子を産んだ。男子ではないが、秀頼は母子ともに健やかであることが嬉しかった。母淀君にそのことを知らせると喜んでくれた。孫に会うことを楽しみにしていたが、サクラが咲き誇るころ、天国へ旅だっていった。女性としては壮絶な62年の生涯であった。幼き時は二人の父と母の死に目に会い、仇である秀吉の囲い者となり、妹二人の幸せのみを願い、秀吉の側室となる。一人目の子は病で亡くし、二人目の秀頼は自分から離れ、諸国巡見にでてしまう。そこからは腑抜けの日々であった。子に見捨てられた母の姿であった。

 身内で葬儀を行い、秀頼は江戸に旅立った。海路の方が速いので、船で行くことにした。途中、駿府により家光も同乗した。


 江戸は栄えていた。13年前に来た時と比べると、ずいぶん大きな町になっている。特に水路が発達している。目安箱がうまく機能しているとのことだ。上杉家の治世がうまくいっていることに感心してしまった。

 昔は、各藩の屋敷が江戸にあったが、今はない。だが、徳川家の別邸があるという。品川の高輪にあったので、秀頼はそこに世話になることにした。

「家光殿、なぜ江戸に別邸があるのじゃ?」

「はっ、家臣のほとんどは駿府にやってきたのですが、一部の者が江戸に残りました。そこで、上杉殿に仕え、治世に貢献したということで、以前の屋敷のひとつをほうびとして賜ったしだいでござる。ふだんは江戸に残った者たちが使っておりまする」

「そうか、上杉殿も統治はその土地の者に任せよをされたわけだな」


 数日後、江戸城で諸侯会議が開催された。長宗我部春来は別室で待機している。会議は紛糾した。

「おなごに後継ぎをさせるのか。子をなしたら、婿殿が力をもつではないか。その婿にどこの馬の骨がなるかわからんぞ」

 と、生駒高俊が話を切り出した。案の定、反対派の急先鋒である。

「戦国の世ではない。統治力のあるおなごであれば、城主でもよいではないか」

 と秀宗は擁護の弁をいう。四国内の大名が2つに分かれていることが明白だ。それに他の大名が続く。

「ただの城主ではないぞ。四国探題であるぞ。他の藩の上にたつのじゃぞ」

「諸藩が何も問題を起こさねば、探題の出番はござらん。なわばり争いもなく、後継ぎ問題もうまくいけば、探題は何も言わぬ。おなごでもできる仕事じゃ」

「おなごでもとは言い方がおかしいではないか」

「男でもできぬ輩はいる。できるおなごならば大歓迎じゃ」

 春来は40才を過ぎているので、いまさら婿をとる気はない。だが、城主となれば誘惑があるやもしれぬ。いくら独り身を貫くつもりでも、どうなるかはわからぬのだ。

 会議が紛糾しているので、明日また集まることになった。秀頼が退席しようとすると、加藤忠広(30才)をはじめとした九州の大名たちが寄ってきた。折り入って話があると言う。そこで、別室で話し合いをもった。

「秀頼公、諸侯会議にて話し合ってほしいことがござる」

「なんでござろうか」

「まず黒田殿から話をしてもらおう」

 そこで黒田忠之(29才)が話をはじめる。

「実は、ポルトガルの軍船が頻繁に領内や対馬に出没しております。大砲を撃つわけではないのですが、水や食料を求めてまいります。年に一度や二度ならば特に問題はないのですが、月に一度ないし二度となると見過ごすわけにはいきませぬ」

「ねらいはどこじゃ?」

「どうやら朝鮮と明(みん)であると思われる。対馬の宗殿には朝鮮から応援の依頼が来ているとのこと」

「宗殿は応援をだしたのか?」

「いえ、応援をだしたら対馬も攻められてしまいまする」

 次に、島津光久(16才)が口を開いた。父家久が高齢のため、江戸まで来ることができず、代理で来ている。元服したばかりの島津藩の跡取りである。

「父が言うには、マニラがイスパニア領になったとのこと。ポルトガルはマカオというところを本拠にしているのですが、その奥にある明(みん)をねらっているとのことです」

「うむ、その話は琉球に行った際にポルトガル商人から聞いた。いよいよ本格的に動きだしたのだな」

 秀頼のその言葉を受けて、忠広が口を開く。

「そこで、戦船の増強を日の本全体で取り組んだ方がいいと思うのだ。ひとつの藩だけでは到底できぬことだが、多くの藩が戦船をもてば、いざという時に合同で戦える」

「そうであるな。諸侯会議に出すべき案件であるな。明日、話してみよう」

 との秀頼の言葉に3人は部屋を後にしていった。


 翌日、諸侯会議は初めに、戦船建造の件が秀頼から話され、諸侯はざわついた。長宗我部家の件は後回しになりそうだったが、

「昨日の皆の意見を聞き、それぞれの立場で賛否があるということがわかった。そこで、ここで入れ札をして決めたいと思う」

 との秀頼の声に宇和島の秀宗が、発言を求めてきた。

「入れ札は、ここにいる全員でできぬか。以前のような探題の方々だけの入れ札では問題が残ると思うが・・また、入れ札で拒絶された場合、長宗我部家はどうなるのか、教えていただきたい」

「皆の意見が拮抗している状況では、全員での入れ札でもいた仕方ないと思う。長宗我部家が改易となれば、その代わりにだれが入るか、それはまた諸侯会議で話し合うことになると思う」

「秀頼公がされるのではないのか?」

「われがする気はさらさらない。今はあずかりということでおるが、しかるべき者がすべきだと思っておる」

「では、また諸侯会議をするということか?」

「であろうな・・・」

 という秀頼と秀宗のやり取りを聞いていて、そこにいた者たちは顔を見合わせていた。2日に渡る諸侯会議も初めてのことであり、まだ続くのかと思うとうんざりしている。生駒高俊は苦虫をかんだ顔をしている。新しい探題を選ぶという方向にいってないからだ。

 休憩の後、入れ札が始まった。結果、ほとんどが長宗我部家の存続を認めた。女城主の誕生である。別室にいた春来があいさつに出向いた。

「皆さま、長宗我部家を残していただき、ありがとうございまする。今後、後継ぎの育成も含め、私の全身全霊を注ぎ、領内の治世にあたりまする。また四国の諸大名の皆さまにはご協力を賜り、探題の仕事を全うしてまいりたいと存じまする。それと、私は生涯独り身で通しまする。わが夫は領民全てでござる」

 と言い切った。その声に大きなどよめきが起きていた。

 それがおさまると、戦船の話となった。長宗我部春来も探題席に連なっている。はじめに口を開いたのは、津軽信枚(のぶひら・45才)である。

「拙者が直接みたわけではないが、蝦夷の松前藩領内に異国の船がたびたび出没しているとのこと。どうやらロシアの船らしい。南の国だけでなく、北の国も異国の脅威を感じておるのだ。戦船の建造には大賛成じゃ。だが、ひとつ問題がある。どうやって造ったらいいかわからん」

 当然の話である。泰平の世になったので、戦船を造る気などなかったのだ。そこに

黒田忠之が口を開いた。

「対馬の海賊退治をした時の戦船の図面がござる。それを参考にすればできると思われるが・・もし、船大工が必要ならば派遣するのもやぶさかではない」

 との声にオオーというどよめきが起きた。続いて、仙台藩の忠宗(31才)が口を開いた。

「奥州の浜にもロシアの船が出没している。今は亡くなったが、父政宗は難破したロシアの男を家来としていた」

 秀頼が捕まえた鬼のことである。忠宗の話が続く。

「そこで心配なのは、蝦夷の地勢が不明だということである。ロシアと地続きなのか、島になっているのかもわからない。それで、蝦夷の探索を許していただきたい」

 他の大名から

「仙台藩は蝦夷を領地とする気か」

 という邪推の言葉が発せられた。

「なにを申す。未開の地を調査するのは日の本全体にかかわること。どこの領地とするかはその後のことじゃ」

 との忠宗の剣幕に邪推の言葉を発した大名は首をたれている。秀頼は

「わかった。われは仙台藩に蝦夷の調査を認めることに異存はないと思うが、皆の意見はどうじゃ?」

 だれからも異存はでなかった。

 諸侯会議はこれで幕引きとなった。


 その夜、徳川の江戸屋敷でささやかな宴が催された。参加者は、秀頼・家光・幸昌・義慶の巡見の仲間と長宗我部春来である。

「春来殿、今日にてわれのあずかりではなくなった。これからはそなたの力で土佐をもっとよくされることを願っておる」

「秀頼様、なんとお礼を申し上げたらいいのか、言葉が見つかりませぬ。皆さまにも助けていただきました。まことにありがとうございます」

 と皆に頭を下げた。

「なんの、なんの。春来殿、大変なのはこれからでござる。まずは一杯」

 と盃を義慶がさしだした。

「土佐のおなごと飲み比べでござるか」

 と春来は一気に飲み干し、義慶に返杯をした。義慶はあっけにとられ、すぐに飲み干すことができなかった。

「さすが、土佐のおなごは酒に強い」

 と強がりを言っている。幸昌が

「土佐のおなごは(はちきん)というそうだ。4人の男を前にしても負けぬということじゃ」

 と言うので、家光が

「そうか、では我ら4人と飲み比べじゃ」

 ということになり1対4で飲み比べとなった。最初に倒れたのは義慶である。

「見た目だけじゃ」

 と幸昌にあきれられている。次に倒れたのは家光である。

「まだ若いな」

 そう言った幸昌が3番目につぶれた。秀頼はだいぶ粘ったが、まったく顔色が変わらぬ春来の前にお手上げとなった。男4人が座敷で雑魚寝の夜となった。


 それから数年後、長崎にイスパニアの軍船がやってきた。ポルトガルが明を攻めており、イスパニアは日の本を標的にしたようだ。事前に情報があったので、九州諸藩が合同で対処することができた。被害はあったが、イスパニアの軍船はマニラに引き揚げていった。しばらくは攻めてこないだろう。

 蝦夷の調査が終わり、大きな島であることがわかった。そこで、奥羽諸藩に統治が割り当てられた。仙台藩は蝦夷の東半分を統治することになったが、言葉が通じぬ原住民との争いや、厳しい自然の中、得るものは少なかった。代官所を建てても、それを維持することさえ難しかったのである。

 秀頼の治世は60才まで続いた。だが、男児がいなかったので木下藩は細川家に吸収されることとなった。家臣の多くが細川家からの出向だったので、特に問題はなかった。2代目武家監察取締役は、諸侯会議の上、家光となった。この職は世襲とはしないことを申し合わせたのである。


あとがき


 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今回は大坂の陣で生き残った秀頼を主人公にし、諸国をめぐる話を小説にしました。私が全国をまわって城めぐりをしていた経験を活かして書いたものです。小説の中にも書きましたが、奈良の高取城の堅固さと那智の大滝の黄金の三重の塔は必見の価値があると思います。

 読者の皆さんの旅の一助となれば幸いです。

 これで政宗シリーズ10作目となりました。空想時代小説が好きな方は、他の作品も読んでみてください。

 それと次回作はトラベル小説にもどります。「フロリダへ行こう」という小説です。旅好きの人は読んでみてください。       飛鳥 竜二


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 秀頼公諸国巡見記 続 政宗VS家康 飛鳥 竜二 @taryuji

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