12-3.あ……逃げましたね

「すみません。ちょっと失礼しますね」


 目立たない容貌のバーテンダーは断りをいれると、フィリアの額に手をかざす。


 と、またバチンという大きな音と、電撃のような衝撃がフィリアを襲う。はずみで倒れそうになるところを、ヤマセが背後から慌てて支えてくれた。


 バーテンダーはというと、伸ばしかけた手を離し、痛そうに顔をしかめている。


「ちょ、ちょっと、リョクラン、大丈夫?」

「コクラン、慌てないでください。護符が半分ほど一気に壊れただけです」


 赤く腫れた手をさすりながら、穏やかな口調で周囲を牽制すると、リョクランはフィリアに笑いかける。

 コクランと違って、優しそうな笑顔だった。


「周囲が慌てたら、よけいにまずいです。大丈夫です。フィリアくん、落ち着いてください。少し、貴方の魔力の色と状態を調べるだけですから。それだけです。それ以上のことはしません。もちろん、貴方に危害は加えません。怖かったら、目を閉じてもらってもかまわないですから」


 先程の不毛な言い争いとはうってかわって、リョクランは優しい笑みを浮かべている。


 そろそろとリョクランの手が再び動き、フィリアの額に優しく触れる。


「大丈夫です。ゆっくりと、ゆっくりと深呼吸をしてください」


 リョクランに言われ、フィリアは深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと目を閉じた。

 相手を思いやる穏やかな魔力に包まれる。


 「いい子だね」というリョクランの低い声が聞こえた。


「うーん。コクラン、これはかなりまずい状況ですね。今すぐ、フィリアくんをギンフウのことろに連れていった方がいいですよ」

「わかりました。では。わたしは次の任務がありますので。後のことはよろしくお願いします」


 と言って、ヤマセが唐突に消える。【移動跳躍】を使ったようだ。

 入るのは難しいが、出ていくぶんには問題ない。


「コラ! ヤマセ! 逃げるな!」

「あ……逃げましたね」


 エルフのコクランはプリプリ怒り、バーテンダーのリョクランは仕方ないと言って肩を竦める。


 じゃ、わたしも……と言って、リョクランはさりげなく立ち去ろうとしたが、コクランにがしっと肩を掴まれ引き戻される。


「ヤマセは逃したけど、リョクランは逃さないわよ!」


 目が据わっている。

 かなり本気だ。逃してくれそうにもない。


「……わかりました。有給はまた今度の機会にします。わたしはこれからフィリアくんの薬を調合しますから、ギンフウのところには、コクランが連れていってあげてください」

「え? あ……あたしが!」


 コクランがすっとんきょうな声をあげる。

 リョクランは大きく頷いた。自分ばかりが貧乏くじをひくのは割に合わない。


「コクランはギンフウの部屋に乱入するのは得意でしょ?」

「寝室は別よ! あたしにだって、分別はあるの。あんなおぞましい魔窟、行きたくないわよ。魔王城の方がまだマシ。あたしよりもリョクランの方が、よくアソコに呼ばれてるじゃない」

「失礼な。食事や酒を持ってこいと言われるだけですよ。そもそも、いまのアソコには、わたしのレベルでは、立ち入るどころか、近づくことすらできません……」

「……あーそうよね。わかったわよ」


 現実問題を突きつけられ、コクランは観念したかのようにため息をつく。


 ここは『深淵』。

 幾重にも複雑な結界が張られ、ギンフウを閉じ込めるために用意された場所。

 数多の部屋があり、複雑に繋がっているが、誰もが自在に行き来できる場所ではない。

 高レベルの移動系魔法を呼吸するよりも簡単に扱うことができる者でなければ、限られた場所にしか移動できない。


 今はギンフウの怒りが激しく、それに呼応して結界の強度も増していた。


 ほとんどの『影』がその怒気に怯え、結界に邪魔され『深淵』から遠のいている。


 エルフの美女は前髪を気怠そうにかき上げると、ひとり取り残されているフィリアに笑いかけた。


「ゴメンナサイ。待たせたわね」

「…………」

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