12-1.本日はこれにて帰宅します
「ちょっと、コクラン、離してください。わたしは帰ります!」
「いやよーっ。リョクラン、こんな場所にあたしをひとりきりにしないでぇーっ」
カウンターの前で男女ふたりがもみ合っている。
ひとりはエルフの女性、もうひとりはバーテンダーの恰好をした男性である。
立ち去ろうとしている男を、エルフの女性が懸命に引き止めていた。
「コクラン、泣き落としは無駄です」
「だってぇ……」
緑の目にうっすらと涙を溜めながら、妖艶なエルフの美女コクランは、バーテンダーを恨めしげに見上げる。
こんな顔で迫られたら、心を動かされない男はいないだろう。
だが、リョクランと呼ばれたバーテンダーは、表情を一切変えることなく、コクランに捕まれた腕をすげなく振り払う。
「勤務時間が終了しましたので、本日はこれにて帰宅します。大量に溜まっている未消化の有給を使わせていただきますので、しばらくはここには来ません」
「それが駄目だっていってるのー!」
「有給くらい使わせてください。今まで使ったことがないんですから」
「だめ! 有給はだめ! 今はだめ! 有給は暇なときに取得するものなの!」
「それが今でしょ! 誰もココに来れない状態なのに、わたしがココにいる意味がありません!」
「意味なら、十分にあるわよっ。あたしの話し相手!
「…………」
リョクランの冷ややかな目が、コクランに注がれる。
子どもじみた主張に、とことん呆れかえっているようであった。
「……しつこいオンナは嫌われますよ!」
「失礼ねっ! あたしはオトコにもオンナにも苦労してないわよ! 大人気なんだから!」
「慕われていると従えているとは違いますよ!」
「言い逃れはみっともないわよ! そもそも、こんなときに有給なんか使って、リョクランは何をするつもりなのよ!」
「貴女が経営する出版社の担当に、レシピ原稿を渡すためですよ。貴女が引き止めてばかりだから、まだ半分もできてません! いい加減に原稿をあげろと、催促がうるさいんですよ!」
「いーじゃん。そんなもの落としちゃえ! 社長権限で許す!」
「貴女が許しても、発売が遅れたら、読者が許してくれません!」
激しい口論が繰り広げられている。
「お、おう……いきなり不毛な現場に出現してしまったな」
狭い『酒場』の入口で、ヤマセとフィリアは呆然と立ち尽くす。
ヤマセは、フィリアを連れて酒場の入口前に【移動跳躍】した。
移動先に店内を選びたいのだが、ヤマセの魔法練度では、『深淵』の複雑な結界に阻まれて酒場の入口までしか移動できない。
ヤマセは金属製のドアノブに触れると、口の中で【開呪】の呪文を唱える。
カチャリと鍵が開いたのを確認すると、ヤマセは重々しい木の扉を開けた。
しかし、扉を開けた先で、このような痴話喧嘩が繰り広げられているとは予想しておらず、ヤマセはあたふたと狼狽えてしまっていた。
もともと、自分は間の悪い男だな、と思っていたのだが、今ではそれは確信になり、ついには、同僚からも指摘を受けるようになっていた。
ヤマセは五年前の事件で『遠くを視る目』を失った。
とはいうが、つい最近までは『遠射』の能力を奪われたのだと誰もが思っていた。
だが、今回、フィリアとセイランの魔力相性の良さを見抜けなかったことから、ヤマセが『エレッツハイム城の悪夢』から帰還するために奪われた対価は『見極める目』『遠くを視る目』である可能性が高くなったのだ。
『見極める目』は標的だけではなく、移動先の状況を察知するのにも無意識のうちに使用していたようである。
改めて思い返してみると、五年前からヤマセはこのテのトラブルによく巻き込まれるようになっていた。
痴話げんか、乱闘、密談中、など、各種様々なお取込み中、いわゆる、遭遇したくない現場に移動してしまう確率がぐんと増えた。
今回でトラブル渦中転移記録の連続遭遇回数を更新したことになる。
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