閑話――エレッツハイム城の悪夢(1)

悪夢(1)

 出口のない昏い闇が、どこまでも広がっていた。


 それは非情なほど静かで、冷たく、闇よりもさらに昏い闇だった。

 むせ返るほどの濃い血の匂いと、感覚を惑わす香の蠱惑的な香りに、意識と五感が朦朧とする。


 己の胸に深々と突き立てられた刃に、生きていくための力が奪われていく。


〈我を呼び出し、あまつさえ、支配しようとは……ヒトという生き物は、なんとも身の程知らずよな……〉


 闇よりも昏く、冷たい声が脳裏に響く。


 幼い……とても幼い彼には、その言葉の意味はよくわからなかった。

 しかし、この声の主は、禍言を紡ぐ危険な存在であると、本能が警告を発する。

 決して心を許してはいけない。人智を超越したモノだ。


(ねーね……。とーとー……。たーけて……。とーとー……)


 自分を森の中から見つけ、助けようとしてくれた優しいひとたちを彼は懸命に呼ぶ。


 何度も、何度も心の中で助けを呼ぶが、彼をとりまく世界に変化はなかった。


 大勢の命を一瞬で奪い取り、流血に染まった世界を作り上げた元凶。


 その闇を見てはいけない。

 その囁きを聞いてはいけない。

 その存在を受け入れてはいけない……。

 

 圧倒的な力を前に、恐怖で魂が凍りつきそうだった。


〈ヒトはいつの世も、愚かで、哀れな存在で……穢れている。それゆえに、狂おしいほど愛おしい〉


 人知を超えた存在を前に、震えが止まらない。

 襲いかかる重圧から逃げようともがくが、身体が全く動かない。

 声の出ない口から、かすかな吐息がもれる。


 そのかすかな気配に闇が反応した。

 祭壇に供えられている『供物』に、まだ息があることを認識したのか、今まで散漫だった闇がゆるりと蠢く。

 闇がひたひたと獲物へと近づく。


〈我は自由な存在。目覚めたいときに目覚め、眠りたいときに眠る〉


 とたんに空気が重くなり、部屋に漂う血の匂いが一段と濃くなった。


〈まだ目覚めのときではない……。矮小な存在が、我の眠りを妨げたのは気に入らぬが、よき供物を用意したことだけは、褒めてやってもよかったか……〉


 獰猛な嗤いを含みながら、なにかが彼の身体を舐めまわす。

 そのたびに、今まで全く動かなかった身体が、苦痛のために大きく反り返る。


〈美味よのぅ……〉


 うっとりとした声が魂に響く。

 無垢な魂が堕落する瞬間は闇にとって、最高の供物となる。


〈苦しいか? 苦しいのならば、我が救ってやろうか?〉


 それは、とても甘く、ヒトにはあまりにも危険すぎる囁きだった。


 抵抗する術を知らぬ幼い魂は、無垢なままで、その存在を受け入れることしかできない。


 それを受け入れたら、またたく間に、恐怖が別の感情へと塗り替えられていく。


 獲物の変化に闇が悦びに震え、ねっとりと舐め回すモノは、いつしか優しい愛撫へと変化していく。


 彼の助けを求める声は、いつしか歓喜の喘ぎ声となっていた。

 その真摯な声に応えるかのように、蠢く闇はさらに明確な形を持ち始める。


 ここを支配する闇は、捧げられた『供物』に底なしの恐怖ではなく、無限の快楽を与えるものへと変幻しようとしていた。


 幼い無垢な魂を誘い、惑わし、救いのない闇の中へと引きずり込もうとする。

 堕ちた神から伸ばされた闇の手が、穢れを知らぬ幼い魂を堕落へと誘う。

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