悪夢(2)
不意に涙が零れ落ちた。
心臓を刺された痛みでも、失ったものを嘆く悲しみでもない。
圧倒的な存在に庇護される嬉しさから、涙がとめどなくあふれでる。
甘美な闇の〈受け入れろ〉という囁き声に、素直に大きく頷き返す。
(たすけて……)
心が震えた。
人としてありつづけるならば、願ってはいけないモノに、あさましくもさらなる寵愛をねだる。
その切実な願いを叶えてやろうと、闇が大きく膨れ上がった瞬間、真っ白な光が世界を貫いた。
光はほんの一瞬だった。
それは、ささやかな抵抗で、すぐに、闇が支配する世界へと戻る。
〈……いまいましい。聖女が此処にふたりも紛れ込んでおったか……〉
憎悪に満ちた舌打ちが聞こえた。
〈……興が削がれた〉
ざわりと闇が動きはじめる。
〈名残惜しいが、我が顕現するには、圧倒的に贄が足りぬ。今回は、愚かな聖女の献身に免じて、退散するとしよう……〉
捨て台詞とも、負け惜しみとも違い、声はとても楽しそうだった。新しい玩具を見つけたときのような口調だ。
〈そなたは……ただ、誇るがよい。生まれたばかりの幼き人の子でありながら、そなたは長き刻を生きる我を魅了し、健気にも全霊で我が声に応えた。……が、まだ、摘み取るにはいささか若すぎる。連れ去るには幼すぎる。熟れるまで待つという愉しみができた〉
これもまた一興、と、凶悪な気配を漂わせながらも、愛おしげにゆるりと身体を撫でられる。
別れを惜しむかのような愛撫に、再び意識が闇の中へと引きずられそうになる。
〈……しかし、待つ間、他のモノに掠め取られるのは腹立たしい。そなたに侍る忠実な番犬も必要だろう。ここはひとつ、我のモノであるという、所有の印でもつけておこうか。ちょうどココによいものもあるしな〉
その言葉が終わると同時に、胸に刺さった短剣に闇が集まりはじめる。
闇色に染まった短剣が熱を帯び、じわじわと溶けていく。それは赤い液体となり、闇と混じり合って、ドロドロと蠢きながら傷口の中へと溶け込んでいく。
「い、い……やあああああっ!」
突然訪れた激痛に悲鳴があがる。
胸を刺されたときとは比べ物にならないくらいの痛みだった。全身が焼けるように熱い。
あつい。あつい。あつい。
イタイ。イタイ。イタイ。
あまりの痛みに、意識が遠のいていく。
いや、己の心を守るため、あえて意識を手放したといってもよい。
『堕ちた神』を呼ぶために用意された短剣は、多くの生命を奪い、禍々しいまでに血塗られていた。
それは呪具として能力を蓄え、強力な力を宿すこととなった。邪神のための神具へと進化していたのである。
幾本もの赤い筋が、明確な意志を持って胸のまわりを蠢き、胸の傷口を隠すかのように、ゆっくりと複雑な文様を描いていく。
芸術的ともいえる、美しくも禍々しい模様が、花が咲き誇るように広がった。
胸の大きな傷口が塞がるとともに、誰にも解くことのできぬ呪いが、魂の深い部分にしっとりと刻まれる。
そして、失われた血の代わりに、闇がたっぷりと体内に注ぎ込まれていく。
〈忘れるな。そなたは、我に捧げられた尊い供物。唯一無二の存在。それはなんぴとたりとも変えられぬ事実となった。聖女といえども、神であろうとも、これは誰にも消せぬ尊い印だ〉
文様になにかが触れる。
〈そなたは、我のためだけに健やかに育ち、我のためだけに、日々をつつがなくすごせばよい。そして、我の贄となるその日を、楽しみに待つがよい……〉
意識が途切れる寸前、嗤い声と共にそっと囁かれた呪いの言葉。
無意識の中、その囁きに己がなんと応えたのか……。
幼かった故か、恐怖のためか、その言葉は胸に刻まれた印とともに、忘却の彼方へと沈んでいった……。
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