8-5.おまえは……犬だ
一方、トレスと対峙しているルースには迷いはなく、刃のように鋭く怜悧な気配をまとっている。
トレスの意識が遠のいていけばいくほど、ルースの目は冷えたものへと変化する。
鈍色の瞳は夜の闇よりも昏く、いかなる感情も宿していない。
途切れそうで、途切れない意識の中、ルースの冷ややかな目だけが、トレスにははっきりと見えた。
心臓がぎゅっと握られたような、苦しみと恐怖にトレスは喘ぎ声をもらす。
子どもたちと自分、どちらがルースにとって役立つ存在か……といった考え方は、根本のところで間違っていた。
トレスはルースの目を見て、そのことに気づかされる。
ルースは、そのふたつを天秤にかけて選択することなど、決してしない。
最初から、彼の中には、子どもたちしかいなかった。トレスは比べる対象ですらない。天秤にすら載せてもらえない、道端の石のような存在だった。
トレスという異分子が、子どもたちにとって不利益をもたらす存在だと認識されれば、ルースは迷うことなく、トレスを消し去るだろう。
表情が消えたルースの顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。
慈愛のかけらもなく、とても残忍な、蔑むような表情なのに、なぜか、それがとても美しく、心を激しく揺さぶられる。
(ああ……気持ちいい……)
もう少し、締め付けが強くなっても、全く問題ない。
むしろ、もっと、力を込めて、喉を握りつぶしてほしくなる。
もっと、もっと、今よりも強い刺激が欲しい。
この瞬間だけは、ルースは自分だけを見てくれている……。
恐怖も度がすぎると、快感へと変化するという。
「…………」
端正なルースの顔がぐっと近づく。トレスは目を見開き、思わず彼を凝視した。
己のおかれた状況も忘れ、トレスはしばしその美貌に見惚れてしまう。
ゆっくりとした動作で、ルースはトレスの左耳に、己の口元を近づけた。
左耳に温かな息を感じ、回復薬の匂いと血の香りが、トレスの鼻孔をくすぐる。
震えが止まらない。
トレスのわかりやすい反応に、ルースは再び笑みを浮かべた。
「トレス。おまえは……犬だ」
「え…………?」
一瞬、頭の中が真っ白になり、ゆっくりと、ゆっくりと、ルースの言葉が、トレスの心のなかに染み込んでいく。
(い……ぬ?)
なんのことだろう?
と、呼吸がままならないぼんやりとする頭で、トレスは必死に考える。
ルースの甘く優しい言葉が耳元で反響し、その声に身体が震える。
「わたしの犬になるのなら、このまま飼ってやってもいいぞ。特別に、わたしが手ずから躾けてやる」
「え?……」
「わたしの犬にならないのなら、おまえはいらない。消えてもらう」
「い、いぬ?」
(いぬになればいいのか? いぬにならなかったら……消える?)
トレスが嗤う。
(いぬになったら……)
自分が、犬になったら、自分はもっとルースの側に近づくことができるのだろうか?
犬にならなかったら、自分はルースにとって、不要な存在になってしまう。
それは嫌だ。とトレスは思った。
(いぬになりたい……)
「そうだ。犬だ……」
危険な熱を帯びたルースの声が、トレスの思考と感覚を徐々に奪っていく。
「駄犬はいらない。犬には首輪をはめ、鎖で繋ぐ。這いつくばって餌を喰うんだ。飼い主の言葉のみを聞き、飼い主だけを見て、飼い主のためだけに存在する犬になるんだ……」
ルースに柔らかな声で囁かれる。
それは、とても甘く、心を揺さぶる魅惑的な声だった。
ルースが求める犬になりたい、とトレスは思った。
耳元に甘やかなルースの息がかかり、全身が総毛立つ。
「飼い主に忠実な犬はいいな。つねにしっぽを振っている。主人しか目に入れない。腹を見せて甘えてくる。愛情を注げば、決して逆らわない……」
首がさらに圧迫される。苦しくて、なにも考えられない。
ルースの誘うような言葉だけが、心に響く。
「あ……あ……っ」
「……返事は明日まで待ってやる。よく考えるんだな」
(え……?)
突然、殺気が消え、ルースがすっと離れた。
全身を縛り付けていた拘束が、急に緩む。
支えを失い、倒れると思った瞬間――。
別の誰かが、自分の手を乱暴に掴み取っていた。
(な、なに?)
強い力で腕を引かれる。
空間がぐにゃりと動く感覚に、トレスは慌てた。
哀れなハーフエルフは、抵抗することもできぬまま、唐突に部屋から消え去ったのである。
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