8-4.こ、こ、ころされるううううっ!
仕事がたんまりと残っている状態で、引き継ぎもせずに辞めるとは、トレスの秘書としてのプライドが許されなかった。
トレスの養父がそういうことに厳しいヒトだったので、その影響だろう。
逃げなければならないのに、専属秘書は辞めたくないという、見当違いの迷いがトレスの判断と行動を鈍らせる。
トレスの秘書は自分だけしかいない、という自負も決断の枷となる。
恐怖で震えが止まらない。
なのに、今、この瞬間だけは、ルースの射殺すような視線を独り占めできているコトに、トレスは今までにない悦びを感じていた。
「では、失礼いたしま……」
帰る準備が整い、挨拶を終えた瞬間、全身に衝撃が走った。
なにかが動いた、と思うと同時に部屋の空気が揺れて、ドンという堅い音とともに背中に鈍い痛みと圧迫が加わる。
「え……っ?」
「このまま終わると思ってたのか?」
「え、え……っ?」
「お前は、色々と知りすぎた」
感情のない冷たい声。
なにが起こったのか、わからない。
執務椅子に座って書類を読んでいたルースが、いきなり自分の眼前にいたのだ。
一瞬の出来事に、トレスの思考が停止する。
魔法が使用された気配はない。
集中していなかったとはいえ、ルースが動いたことにも気づけなかった。
ルースはトレスに視認されることなく、音をたてることもなく、一気に距離をつめ、トレスを壁際に追い詰めていた。
わかっていたことだが、身をもって、ルースの優れた身体能力を思い知らされる。
自分ごときがかなう相手ではない。
トレスは抵抗する間もなく、壁に押しつけられ、両腕をからめとられて自由を奪われる。
魔術師のミラーノは、魔法でリオーネの動きを封じたが、魔法は使われていない。
ルースは体術のみで、トレスの自由を奪った。
トレスは壁とルースに挟まれ、一切の動きを封じられる。
なんとか逃れようと全身でもがくが、隙が全くない。もがけばもがくほど、ルースに動きを封じられ、ふたりの距離がどんどん近づいてくる。
ルースの呼吸を間近に感じ、トレスの心臓が激しく脈打つ。
それでも、生存本能から反射的に、拘束から逃れようと暴れるが、戒めがどんどん強くなっていくだけだった。
ルースのもう片方の手がトレスの喉元を締め付け、抗おうとする意思を容赦なく奪い取る。
(こ、こ、ころされるううううっ!)
声がでない。
動きを封じられたことも衝撃だったが、喉を締められ、呼吸が乱れ、呪文を唱えることができない。
唯一、ルースと対峙して優位に立てる魔法が封じられたことの方が、トレスには傷手であった。
逃げ道が封じられ、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
この状況、世間一般では『壁ドン』とか言って、見目麗しい男性が、意中の相手を口説き落とすときの定番体勢だとかいうらしいが、今のこの状況はそんな甘ったるいものではない。
これから、自分は、魚よりも簡単に、ルースにさくっと、あっさり殺されるのだ。
いや、美味しく食べられるように捌いてもらえる魚の方が、扱いは上かもしれない。
(あああ……)
呼吸ができずに、だんだん頭がクラクラしてくる。
このまま首を締められ、自分は一方的にルースに殺されるのだろうか。
それとも、懐に忍ばせている短刀で、急所を一突きにされるのだろうか。
いや、なぶり殺されたり、死んだほうがましと思えるような拷問をされるかもしれない……。
恐怖とともに、表現しがたい激しい興奮が、トレスの全身をかけめぐる。
ルースに見つめられ、拘束され、彼に生死を握られている……。
「あ……あ……ああっ」
震えが止まらない。
足に力が入らず、崩れ落ちそうになるが、ルースが支えとなり、そのまま、壁に縫い付けられるような格好となる。
今よりもさらに力が加わると、どうなってしまうのか、という不安と恐怖に、鼓動がさらに速く、激しいものへと変わっていく。
恐怖ではない新たな昂りが、トレスの心を支配し、ゆっくりと別の感情へと塗り替えていく。
潤んだ目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
と、同時に、喉にじわじわと加わる力が、なぜかとても心地よかった。
身体がフワフワしてきて、なんだか気持ちがいい。痺れた快感が、とめどなく溢れ出てくる。
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