8-3.どうしたらいいんだ!

 緑の瞳に複雑な色を浮かべながら、そのまま自分の作業机に戻り、トレスは急いで片付けをはじめた。


(どうする。どうする。どうしたらいいんだ!)


 散らかった机の上を片付けながら、トレスは己の心に問いかける。


 恐怖のために指先からは感覚がなくなり、膝の震えは一向に収まらない。

 筆記具がうまく掴めず、焦燥感がさらに高まっていく。緊張のあまり、喉がヒリヒリと痛んだ。


(こ、怖い……)


 自分を見つめるルースの目線が、とても恐ろしかった。さきほどから背中にぐさぐさと突き刺さっている。


 それだけで心臓がきゅっと締め付けられ、呼吸がうまくできない。


 疑惑の目線。

 いや、これはもう、殺すことを心に決めた、獲物を狙う獣の目だった。


 あの情け容赦ない、冷徹な瞳に睨まれたら、自分など、産まれたての兎のような、無力な存在になってしまう。


 ルースなら、眉一つ動かさず、さくっと殺して、あっさり自分のことなど忘れてしまうだろう。


 なりふりなど構ってられない。

 今すぐ、即刻速攻、逃げなければならない。

 机の上など、呑気に片付けている場合ではないのだ。

 それこそ、一刻を争う事態である。


 自分の本業は冒険者だ。とトレスは心の中で叫ぶ。

 裏も表もなく、純粋な超級冒険者の戦士だ。


 社交的で、そこそこ環境適応力があり、外の世界の知識が豊富で、とにかく好奇心が強い……。非力ではないが、抜きん出た強さもない。

 エルフの血を引いているので容貌は整っているが、生粋のエルフと比べると、平々凡々な顔立ちである。特に特徴もない凡庸なハーフエルフである。


 決して、どこかの組織に仕える諜報員や工作員のような、暗部に属する特殊技能を身につけた者ではない。


 そこまでの働きをトレスには求められていなかったし、期待もされていない。

 トレスが命じられたのは、帝都の近況を故国に伝えるだけの簡単な仕事……だったはずだ。


 バレたので逃げてきました。しくじりました。と言って、泣いて許しを請うても、痛くも痒くもない。その程度の重要度だ。

 失敗を報告しても、「あっそう。ごくろうさま」とか軽く流されてしまいそうな程度の任務だ。

 

 仕事に失敗したからといって、己の生命をもって償うほどの内容ではない。

 誠心誠意の謝罪が必要とあらば、子どもたちがやってみせた土下座だってできる。

 手順はばっちり覚えた。


 依頼不達成で多少の違約金が発生するかもしれないが、殺されるほどのことはやってない。

 なにより、トレスはそこそこの期間、故国に対しても、十分すぎるくらい真面目に働いた。


 この鋭いルースを相手にして、トレスはよく保った方だといえる。


 トレス自身に悪意がなく、ルースに不利益をもたらすようなことはしなかったので、今まではお情けで見逃してくれていたのだ。

 運がよかっただけである。


 ルースはトレスと違い、その道のプロだった。

 ルースが誰に仕えているのか、トレスには見当もつかなかったが――生命が惜しいので知りたくもなかったが――間違いなく、ルースはプロだ。


 それも『一流』の上に『超』がつくプロだということは、なんとなくわかる。


 ただの冒険者ギルドのギルド長であるはずがない。

 そもそも、魔法を使うのに制限があるとはいえ、これほど優秀な人物が、なぜ、冒険者ギルドごときに長期間潜入しているのかがわからない。

 よぼど、人材に恵まれた組織なのだろうか。


 もう一度、言う。


 今は呑気に、自分のデスク周りを片付けている場合ではない。

 トレスは、即刻、逃げなければならない状況にあった。


 しかし、今、ここで自分が逃げてしまうと、ギルド長の専属秘書がいなくなる。

 ……と、トレスは見当違いのことを思ってしまった。


 ギルド長の秘書が複数いるならば、トレスの仕事を引き継ぐことができるが、ギルド長の専属秘書はトレスひとりであった。


 さらに言うと、ギルド内には、ギルド長の専属秘書が務まりそうな人物――後任――がない。


 自分がここで消えてしまえば、明日、作成しなければならない書類は、一体、誰が用意するというのだろうか。


 今日よりも、さらに詳細で複雑な書類が必要になってくるのだ。

 それを誰が作成できるというのか。

 それができるのは、自分しかいない!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る