8-6.最初から決まっているじゃないか……
世界がぐらりと揺れ、反転する。
景色が変わった、と気づくと同時に、「ぽふっ」と、長閑な音が聞こえた。
(どこだ……ここは?)
倒れた衝撃はさほどなく、柔らかなものに全身が包まれる。
(助かった……のか?)
安堵のあまり、トレスの口から大きなため息が漏れた。
心臓の音がうるさい。
呼吸が荒く、全身は……冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
慌てて【洗浄】魔法を発動し、自分自身と着ている服をひととおり綺麗にする。
この場所はよく知っている。
灯りのない夜の室内は暗いが、夜目が効くトレスには問題ない。
馴染みのある、森の匂いを詰めた枕に、日向の匂いがする掛け布団。ほどよい弾力をもったスプリングが軋む音。
毎日寝起きしているベッドの上に、トレスは仰向けに寝転がっていた。
自分が見ているのは、見慣れた自室の天井の板目。
トレスは独身寮の自室に戻っていた。
驚いたことに、帝都にやってきてからずっと使っている自分の寝台に、トレスは倒れていた。
この寝台は【帰還】魔法の帰還先に設定している場所だ。
(誰かが、【強制帰還】を使った……?)
ルースでない『誰か』があの場にいて、どういう意図なのかはわからないが、あの場からトレスを逃した、もしくは、追いやったのだろう。
見慣れた天井を睨みつけ、トレスは深呼吸を繰り返す。激しく咳き込み、そのたびにヒリヒリと喉が痛んだ。
助かった、とは思えなかった。
現実味のない夢のような時間だったが、夢でないことは、熱を持って痛む喉が証明している。そのまま放置していたら、痣になってしばらくは消えないだろう。
自分を掴んだ『謎の手』を思い出す。
あの手は、恐ろしいくらいの殺気を孕んでおり、トレスを一気に現実へと引き戻した。
恐怖で昂ぶっていた気持ちが、冷水を浴びせられたかのように、一気に冷める。
助かったといっても、ルースからは考える時間を与えられただけだ。
タイムリミットは、明日の出勤時刻まで。
朝イチで返事をしなければ、殺される。
ルースではなく、あの『手』の人物が、自分を殺しにやってくるのだろう。
じっくりと考えるには短いが、落ち着きを取り戻すには十分だ。
それに、選択肢は少ない。二者択一だ。
(殺されるか、犬になるか……)
天井をぼんやりと見上げながら、トレスは養父から依頼された『冒険者ギルド本部の監視』という仕事を思い出す。
冒険者ギルドになにか大きな動きがあったら養父に知らせないといけないのだが、今日の出来事を故国に知らせるつもりはなかった。
無理して知らせたところで、なにができる国でもない。
帝国の『モノ』をかすめとろうという気概が、自分の故国にはないのだ。
勇者や英雄の素質がある逸材が現れたと知らせたところで、他国のようにその人材を自国に抱え込もうなどしないだろう。
エルフ以外の種族に興味がないモノたちだ。
慣れない者が下手なことに首を突っ込んで火傷するくらいなら、大人しく何も知らずに引っ込んでいる方がよいだろう。
世捨て人と変わらないような生活を営んでいる人々に、下手な雑音は与えたくない。
それに、本当に、故国に必要な情報ならば、自分が動かなくとも、自然と彼らの耳には届く。
とはいえ、逃げるのも無理だ。
相手のレベルが違う。相手が悪すぎた。
ルースは強い。ルースが覚悟を決めて魔法を使ったら、それこそ逃げ場はないだろう。
さらに、トレスを部屋に【強制帰還】させた謎の人物は、トレスの行動を補足しているに違いない。
他人にまで干渉できる移動系の魔法が使える者は、追跡系の魔法を同時に取得している可能性が非常に高い。
逃げても簡単に追いつかれる。
これは、下手なことはするな、というルースからの警告だ。
冒険者ギルドで拘束されず、家に帰されたのは、トレスの覚悟を試されているのだろう。
「答えなんて、最初から決まっているじゃないか……」
声にだして呟く。
緊張しすぎて、頭の中がパンク寸前だった。この状態であれこれ考えても、ろくな結論がでてこない。
食事も、入浴も、夜着に着替えるのも面倒だ。
トレスは目をゆっくりと閉じる。
とりあえず、何も考えずに、もう眠りたい……とトレスは思った。
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