後編
100本目を超えるまではとにかく苦痛だった。
自分が何を書いているのかさえ良く分からなかった。頭痛や吐き気、睡眠不足による集中力の低下。慣れない万年筆を握らされ、手は腱鞘炎になりかけていた。辛うじて椅子には座らせてもらったものの、足は縛られたままだったから、気分転換に伸びをすることさえ難しい。小さな天窓から差し込む一筋の光だけが、私に一日の始まりと一日の終わりを教えてくれた。
やがて『カンズメ』に閉じ込められてから数ヶ月が経った。
あの男は……いやあの悪魔は……毎週末『カンズメ』に顔を出し、鉄格子の向こうから包丁を突きつけ、出来上がった原稿用紙を引ったくって行った。それで、一週間分の食料や、備品を部屋に置いていく。トイレはあったが、通信機器の類はない。外部との連絡手段は皆無だった。
とにかく書くしかない。
別に何か画期的なアイディアがある訳でもない。何か主張したい立派な提言がある訳でもない。だが、苦し紛れでも何か書かなければ、書き続けなければ、私はたちまちあのイカれた編集者に殺されてしまうのだ!
200本を超える頃には、もはや日付を数えることもなくなった。
今や一縷の望みよりも諦念の方が優っていた。逃げ出す手段もない。どうせ助けなど来ない。用意された一週間分の非常食を、無計画に貪り続ける。腹が減って仕方がなかった。眠たくて仕方がなかった。だが、眠ったら死ぬ。死ぬか、書くかだ。空調もない部屋で、時に脂汗を滴らせ、時に鼻水を垂らしながら、私は必死に筆を走らせた。
一週間ごとに、原稿を編集者(と言う名の悪魔)に手渡す時、その時だけ私は生きている実感を得られた。自分でも説明のつかない、散文と自由律の出来損ないみたいな作品だったが、とにかく一冊書き終えさえすれば、少なくとも後一週間は生きていられるのだ(たまに悪魔から『良く分からない』と言う感想をもらったが、そんなことを作者に聞かれても困る。作者にもさっぱり分からないのだ。私の作品に何かメッセージがあるとするならば、それは『助けてくれ』である)。
300本を過ぎた頃、私はようやく、ようやく落ち着きを取り戻し初め、とうとう長編に取り掛かることにした。
やはり短編など、いくら書いても全く金にならない。それでは出世などできようはずもない。短編は求められていないのだ。分かってはいた。分かってはいたが、余裕がなかったのだ。自分が明日にでも殺されるかもしれないと言う状況で、ここまで書き続けられたのがもはや奇跡に近かった。
それに、長編だとある程度の構想や登場人物の設定が要る。頁を捲ったら登場人物の名前が変わっていた、では困る。もちろん日々の締め切りもあるので、書きながら構想を練っていくしかなかった。
数年後。
今日も今日とて、悪魔が来たりて笛を吹く。私はいまだに狂った編集者に監禁され、いまだに狂ったように小説を書き続けていた。
いや、数十年後だろうか?
もはや時間の感覚も分からない……その間、私はひたすら原稿用紙と向き合っていた。密かに……例えばダイイングメッセージのように小説の本文に密かにSOSの暗号を仕込み……外部に助けを求めることも考えた。だがあの男にバレた時のことを考えると、やはり恐怖の方が勝った。仮にも相手はプロの編集者なのだ。妙なことを書けばたちまち気付かれてしまうだろう。家族はどうしているだろうか? それだけが心の支えだった。娘は……もうとっくに小学校を卒業しているだろう。
「失踪届を出されていたらどうするんだ?」
ある時、私はとうとう気になって男に尋ねた。
「私が行方不明な以上、警察も捜査しているんじゃないか?」
「ふん!」
鉄格子の向こうから手を伸ばし、男は完成した原稿用紙を引ったくりながら、小馬鹿にしたように鼻で嗤った。
「残念だったな。急に連絡が途絶えたり、失踪癖のある作家なんてこの業界じゃ珍しくもねえんだよ。それに、お前のペンネームで作品は発表されているんだ。きっと家族は『どこか遠くで、自分たちを捨てて、好きな小説を書いているんだわ』とでも思っているんだろうよ」
300本過ぎからは、特に文字数も作品数も数えていない。どうせ助かる術はないのだ。仮にあの男が出世したところで、解放してくれる保証もない。それも、もはやどうでも良いことだった。しかし、長年の習慣と言うのは恐ろしいものだ。最初の頃はあれだけ苦痛だったのに、そのうち書いていないと不安に襲われるようになった。気がつくと小説を書いている。
やがて変化が訪れた。私だけでなく、悪魔の餌食になった他の作家も『カンズメ』に監禁されるようになったのだ。さすがに同部屋ではなかったが、壁の向こうから鉄格子の向こうから、啜り泣きや喚き声が聞こえ始めた。
「ダメだ! 書けっこない!」
「包丁を突きつけられながら、小説なんて書ける訳ないだろ!」
「助けて! 死にたくない!」
「しっかりしろ、とにかく書くんだ。誤字脱字があってもいい、とにかく完成させて、出来不出来は一週間後考えよう」
私は奴隷の先輩として皆を鼓舞した。壁の向こうにいる仲間たちと時に励まし合いながら、私たちは小説を書き続けた。だけど、突然ある者がいなくなったり、またある者が補充されたり……いなくなった者がどうなったかは、知る由もない。天窓から血のように真っ赤な夕陽が差し込んで来ていた。私たちは震えながら、この終わりのないデスゲームを生き延びるために、ただただ小説を書き続けた。
どれくらい経っただろうか。
「先生、先生!」
突然鉄格子の向こうから、懐かしい声が聞こえてきて、私はぽかんと口を開けた。
「先生! ご無事ですか!?」
「一ノ瀬君か……?」
「良かった! 先生!」
向こうから現れたのは、悪魔の編集者……ではなかった。歳を取って面影は変わっているが、かつて私の担当だった、一ノ瀬君に間違いなかった。それでも自分の見たものが信じられなくて、私は何度も目を擦った。
「どうして此処が……?」
「分かりましたよ! 先生の作品に込められたメッセージが。読み取れました。『助けてくれ』と」
「嗚呼……嗚呼……!」
今ではすっかり小説の奴隷となった私は、原稿用紙に手を走らせながら咽び泣いた。何という感激だろう。自分の作品に込めたメッセージを読み取ってくれるなんて。これほど嬉しいことはない。作者冥利に尽きると言うものだ。
「長い間お待たせしてすみません……」
「いや……ありがとう! 君なら分かってくれると思っていた」
熱いものが込み上げてきて、私は何度も頷いた。本文に暗号を仕込む訳にはいかなかったから、小説の外側にメッセージを仕掛けたのだ。つまり、タイトルに。『
熱心な読者が、本棚に私の著作を並べた時にだけ現れる、秘密のメッセージ。全巻揃えれば、犯人や、私が監禁されていると言う事実が分かると言う
「あの悪魔は……あの男は」
「安心してください。彼は連続誘拐殺人容疑で警察に追われ、逃亡中にダンプに引かれ死にました。即死だったそうです」
「そうか……そうだったのか……」
「まさかこんなことになるなんて……あの、他の作家は」
「みんな死んだよ」
私は乾いた笑みを浮かべた。監禁された他の仲間たちは、みなあの男に殺されてしまった。『カンズメ』には死臭が漂っていた。
「私が間違ったアドバイスをしたからな」
「え……」
「『主人公はこうでなければならない』とか、『プロットはこうでなければならない』とか……可哀想に、神経衰弱し切った金の卵たちは、すっかりそれを信じ込んで皆潰れてしまった。ルールに雁字搦めになって、そのうち小説が書けなくなって、皆締め切りが守れず殺されて行ったよ」
「
一ノ瀬君が驚いたように目を見開いた。私は肩をすくめた。
「仕方ないだろう? でなければ私が殺されていた。もうずっと前からネタ切れだったんだ。もうずっと、意味のない言葉の羅列を書くしかできなかった。だから奴らを騙し、こっそりネタを盗んで……それで今まで生き延びてきたのさ」
「そんな……潰野先生、あなたは」
「私が悪いと言うのか? この状況で?」
私は鉄格子の中から吠えた。
「他にどうしろと言うのだ!? ずっと監禁されていたんだぞ! 小説を書けなくなった小説家は、死ねとでも!? だが、こんな生活も、もう終わりだ。ざまぁ見ろ。私はもう一生、小説なんて書かないぞ!」
「潰野先生、やればできるじゃないですか!」
だが一ノ瀬君は、私を非難するどころか目を輝かせていた。私が酷く混乱したのは言うまでも無い。
「先生も追い込まれれば、此処まで小説が書けるんですね。正直驚きました。先生はやはり、編集者を辞めて作家になって正解ですよ。潰しが利いてるじゃないですか!」
「何? 何を言ってるんだ君は……私はもう小説なんて」
「いいえ、書いてもらいます。潰野先生にはこれからもこの中で、傑作を書き続けてください。これは編集部の総意です。
「何だと?」
「私たちは金にならない『真実』よりも、金になる『物語』を欲しているんですよ」
目を白黒させる私の前で、一ノ瀬君が屈託のない笑顔を見せた。
「多少、過剰演出になったとしても……ね。当たり障りのないことを書いたってつまらないでしょう?」
「待ってくれ。君は私を助けに来たんじゃないのか?」
「何言ってるんですか。私は編集者ですよ」
一ノ瀬君が鉄格子の向こうから、逆光の向こうから手を伸ばしてきた。
「原稿を取りに来たに決まってるじゃないですか」
その手には拳銃が握られていた。私は彼の顔が、まるで天使のように光り輝いて見えた……。
《完》
編集者・潰野仇文の新人潰し小説講座 てこ/ひかり @light317
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