編集者・潰野仇文の新人潰し小説講座

てこ/ひかり

前編

 ……目を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。明かりはなく、部屋の中は薄暗かった。頭が割れるように痛い。起きあがろうとしても上手く行かず、そこでようやく、私は手足を縛られていることに気がついた。


「一体……?」


 何が何だか分からない。

 ここは何処だ?

 私は……私は確か、打ち合わせの帰りだったはずだ。そう。私は作家だった。いよいよ来週から連載がスタートする、次回作の打ち合わせだった。某出版社に、来週掲載される分の原稿を持って行って……それで、確か、

「起きたか」

「……誰だ!?」


 すると突然部屋の電気が付き、死角から低い嗤い声が聞こえてきた。聞き覚えのない声だった。眩しさに目を細めていると、逆光の向こうに黒いシルエットが揺れていた。

「誰だ!?」

 私はもう一度、声を上擦らせながら叫んだ。


 意識がはっきりして行くに連れ、次第に恐怖心が湧き上がってきた。縛られた両手両足。見ず知らずの男。どう考えてもマトモな状況じゃない。この男に捉えられたのだろうか? 目的は何だろう? 金か?


「頼む……助けてくれ! 家族もいるんだ! 金ならいくらでも払う!」

「要らねえよ」

「な……!?」

「俺が欲しいのは……お前の命だ」


 逆光の向こうで、ギラリと光るものが見えた。刃渡り数十センチはありそうな包丁……得物をこれ見よがしに私の頭上でちらつかせ、男はクックッ、と嗤った。私は目を見開いた。


「クソッ! 何なんだ!?」

 急に喉がカラカラになった気がした。背中から、額から、どっと汗が噴き出してくる。


「何者だ!? どういうつもりだ!? 私は……私は誰にも恨まれる覚えはないぞ!」

「別に……俺ぁただのしがない編集者だよ」

「編集……!?」


 ということは、同業者か。動機は怨恨か。しかし……新人賞すら取れない無能に逆恨みされるならまだしも、編集者が作家を攻撃するとは、一体どういう了見だろう? 


「聞いたぜ……アンタ、ナントカっていうくだらねえ文学賞取ったんだってな」

「何が言いたい?」

 何だこいつ? 権威嫌いの文学賞否定者アンチか? 

「俺も読んだよ。いやぁすばらしかった!」


 だが男は刃物を持ったまま、突然拍手を始めた。私が酷く混乱したのは言うまでも無い。


「面白くて面白くて、捲るページが止まらなかったぜ。傑作だ! 明日仕事で朝早いってのに、つい夜更かしして読んじまった。俺ぁ思ったね。こいつはまだ荒削りな原石だが、磨けば何れ頭角を表す。文学界を背負って立つ逸材だってな」

「あ……ありがとう……?」

「だから殺す」

「は!?」


 全く意味が分からない。私が目を白黒させていると、男は眉を八の字にしながら唇の端を吊り上げた。


「困るんだよなあ。才能のある奴がこの業界に入って来てもらっちゃ。大御所作家に、名だたる文豪に申し訳ないと思わないのか? お前のせいで、この狭い業界、貴重な椅子取りゲームの席が一つ埋まっちまうんだぜ。誰かが弾き出されるってことだ。才能枯れ散らかした老耄おいぼれがなぁ。ひひひひひ!」

「……だけど、君は編集者だろう? だったら」

「それにお前の担当は、あの一ノ瀬って話じゃねえか!」

「一ノ瀬?」

 

 確かに今度の受賞作は、某出版の一ノ瀬君と二人三脚で作り上げてきたものだった。男がこめかみに青筋を浮かべながら唾を飛ばした。


「ざっけんじゃねえぞッ! 毎回毎回、人気作や話題作を全部自分の手柄にしやがってッ! じゃねえかよ!? たまたまお前の担当になったって、それだけじゃねえかよ!」

 鼓膜にビリビリと、怒号が叩きつけられる。残響で部屋が揺れた。

「アイツは何もしてねえのに。適当に作家を先生先生って煽てて、適当に原稿持ってくるだけじゃねえか。単なる運び屋のくせしてよぉ。死ねッ! あんな奴にデカい顔されてたまるかッ」

「なんて理不尽な……」


 恐怖に囚われながらも、私は半ば呆れてしまった。単なる嫉妬じゃないか。なんて事はない、サラリーマン同士が出世競争で歪み合ってると言うだけの、何処にでもあるような話だった。一ノ瀬君はそんな奴じゃない。彼は真面目に、私の作品と真摯に向き合ってくれた。


 そういえば……私は不意に一ノ瀬君の話を思い出した。同業者の中にはとんでもない奴がいる、と。その編集者は、自分の出世のためなら、平気で作家の一人や二人潰してしまうと言う……。


「バカバカしい。何でそんな出世競争くだらないものに巻き込まれて、私が殺されなきゃならんのだ」

「雌鶏が死ねば、金の卵も生まれねえ。だろ?」

「……残念ながら一ノ瀬君は立派な編集者だ。君とは違ってな」


 私は次第に腹が立ってきた。百歩譲って、作家同士で研鑽(と言う名の足の引っ張り合い)をするならまだ分かる。才能のない物書きに嫉妬されるのもまぁ良くある話だろう。だが、仮にも魂を削って書いた作品が、編集者の出世の道具にされてしまうとは。


「……君は間違ってる。仕事のミスなら仕事でやり返せば良いじゃないか。なのにどうしてこんな、人の道に外れるような真似を……」

「ハッハァ! ブァーカ、仕事はなんだよ!」

「戦争?」

「そうさ。働くってのは殺し合いと同じだ。生きるってのは綺麗事じゃねえんだ。一歩社会に出りゃ、どんな仕事だって競い合い、騙し合い、蹴落とし合いさ! いいや会社員だけじゃねぇ、学生だって受験戦争だ、恋愛だって嫉妬は付き物、騙し合いの権化みたいなもんだ。テメーら作家だって、いちいち売上気にしたり評判気にしたり、延々と競争してるじゃねえか! みんな同じなんだよ。何も変わりゃしねえんだ」

「バカな……馬鹿げてる。殺し合いだなんて」

「だったらよぉ。有望な若手が他の編集者に取られるくらいなら、今のうちに殺しておいた方が良い。そうだろう?」


 男が刃の切先を目の前にかざし、私は息を飲んだ。本気だ。この男は本気で、こんなくだらない理由で、私を殺そうとしている。もっとも、崇高な理由があれば人を殺して良いと言うわけではないだろうが。

 

「待て、待ってくれ! どうか命だけは……!」

「残念ながら俺は締め切りを守る男なんだ。お前とは違ってな」

「締め切りは守るから! もう絶対落とさないから! 頼むから殺さないでくれ!」

「嘘つけ! そんな作家いる訳ねえだろ! 死ね。締め切りすら守れない奴は、誰も守れない。恨むんなら中途半端な才能でこの業界に入ってきた、自分を恨むんだな」

「こ、この作品を君にあげるから!」


 いつの間にか自然と歯がカチカチと鳴っていた。ダメだ。この狂人に正論や一般道徳は通用しない。何でもいい。とにかく時間を稼がないと。


「私の次回作だ! 僭越ながらヒットする自信がある! これを君の手柄にしていいッ、だから」

「ダメだ。その作品は、もう一ノ瀬と打ち合わせしているんだろう?」

 男は無情にも首を横に振った。ゆっくりと、光る刃の切先が私の目と鼻の先に近づいてくる。


「内容がバレちまってる。ンなもん持ってたら、すぐにお前が書いたって気付かれて終いだ」

「だったら……新作を書く! それでどうだ!?」

「新作?」

「そうだ。まだ何処にも発表してない……いや! まだ構想すら練ってない、正真正銘の新作だ! それで君を必ず出世させてみせる! それなら良いだろう!?」

「……一週間だ」

「何……?」


 刃物が私の鼻の手前でぴたりと止まった。逆光の向こうで、男がじっ……とこちらを見下ろしながら囁いた。


「一週間やる。それまでに完成させろ」

「い、一週間で!? 一冊分書けと言うのか!? それはあまりにも……」

「書けないのか? 他の超一流処は、当たり前にこなしてる分量だぜ。だからテメーはその程度の才能だって言ってんだ。テメーの命なんてこれっぽっちも惜しくねえ」

「わ……分かった! やろう!」

 私は歯軋りした。締め切りを守れる自信はないが、しかし、こうなったらやるしかない。

「いややらせてください! お願いします!」

「ヒャーッハッハッハッハァ!」


 こうして私は、文字通り命がけで、小説を書くことになった。


《後編へ続く》

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