最終章 『花々の興亡』

第1話 年末、渋谷区、仕込み中

 ──年末、年始、それぞれの顛末。


 先述の通り、シアター・ルチア奈落の最奥にあった祠、その更に向こう側に隠されていた扉の向こうに監禁されていた元演出助手・大嶺おおみねまいは、舌の先端を切り取られた状態で発見された。搬送先の病院で極度の脱水状態、栄養失調と診断されたが、幸いにも命に別状はなく、しかし切断された舌の修復は困難で、日常会話程度までならリハビリで回復することができるかもしれないが、俳優としては──と担当医が難しい顔をしていた、という話を不田房、宍戸、そして鹿野は救急車に同乗した檀野創子のマネージャーから聞いた。


 だが、仕込みを止めるわけにはいかない。小燕こつばめ率いる刑事チームがシアター・ルチア内部を隈なく調べる姿を横目に、ステージ上には粛々とセットが組まれていく。大嶺舞が発見された当日と翌日はさすがにすべての作業を止めて刑事たちに劇場を預けたが、正直なところ、『花々の興亡』チームにもそれほど時間が残されているわけではない。


 年末なのだ。


 通常であれば、数日〜一週間ほどをかけて仕込みを完了させ、場当ばあたり(実際の舞台装置や衣装を用いて演者が舞台上に立ち、音響、照明スタッフがイン/アウトの確認をしたり、衣装の早替えや、舞台上への入り、退場のタイミングを確認する作業)を行い、更には最終通し稽古──ゲネプロを終えて本番を待つのだが、


「年末年始は絶対休みを取るべき。年明けに約束された血生臭い本番があるならなおさら」


 と不田房が言い張ったため、ステージ上には位置が完全に決まっている装置を建て、音響・照明の各部署がスピーカーや灯体を仕込み、衣装の確認を終えて、全員が年末休暇に入る予定だった。


 普通の劇場であれば。


 シアター・ルチアはもはや、劇場と呼ぶのも悩ましいほどに異常な空間だった。チケットを購入して公演を見に来る客にもさわりが起きるのではないかと不安になる、そういう場所だった。

 それで、宍戸クサリがまた、例の弁護士の男を連れてきた。

 その日彼はスーツ姿ではなかった。白いセーターにデニム、黒いダウンジャケットという姿で現れた弁護士の市岡は「どこ?」と宍戸に尋ね、「奈落だ」という応えに「地獄みたいだな」と笑った。鹿野と和水が、奈落への同行を求められた。


「おふたりは」


 と、市岡神社の男は言った。


「向こうのビルの前でも野上神社の燃え滓に遭遇しているんですよね。なので、おそらく、をされていると思います」

「マーキング? ってなに?」


 和水芹香の質問には答えず、市岡神社の男はあの日破壊された祠の前に跪く。『野上神社』と書かれた──古びた木の板は真っ二つになっていた。


「狐か?」

「おまえんとこのだろ」


 市岡神社の男の呟きに、呆れた様子で宍戸が応じる。


「そうだよ。でもこんなに……めちゃくちゃに荒れるのは珍しいな。どういう命令をしたんだ? この奥で発見されたという女性以外に、怪我をした人はいませんか?」


 市岡神社の男が振り返った。和水が鹿野の手首を掴み、


「素直大火傷」

「おお……」

「それにもうひとり、今ここにはいませんけど、檀野さんっていう人の髪の毛が焼かれました」

「なるほど──うちと先方、


 市岡神社の男が首を傾げる。


「自分で言うのもおかしな話ですが、うちの──市岡の狐は

「えっ」

「でも、宍戸さんが稲荷神社じゃ、言うて……」

「稲荷神社、って言ったぞ俺は」

「まあまあ、言う言わないはともかくとして。とにかく神様ではないので、逆に、だからこそお札を通じて宍戸や皆さんに使を任せることができたというか──所詮はけものですからね。ルールを守って命令すれば、使役は可能です。そのつもりでお札と祝詞を渡したんだけど」


 使役、とは。


 ルチアの廊下で奇怪な女に絡まれた際、宍戸が祝詞ではない祝詞を唱えていた時のことだろうか。或いはあの日、祝詞を忘れた不田房がお札をぶち撒けてあの女を──野上葉月のような、顔のない女を激怒させていた時のことだろうか。不田房はそもそも「祝詞」を口にせず「お願いします!」と雑にお札を放り投げていたので、市岡神社の男が言うところの「けもの」も戸惑ったかもしれない。


「通常」


 市岡神社の男が続けた。


「神社のあった場所に何か新しく建物を建てる際には、奉遷──ご神体を移動させる儀式を行い、たとえばこの規模の大きな建造物なら、そうだな……屋上とか」

「屋上」


 宍戸が鸚鵡返しに発声する。市岡神社の男はひとつ頷き、


「屋上がないなら建物の最上階の奥の方とかね。とにかく、人に踏まれない場所に新しく神様の居場所を作るのが早い、と俺は認識しているのだけど」


 しかしここは地下だ。奈落だ。

 野上神社のご神体を奉遷したとして──その神の上を大勢の人間が行き交うことを禁じるのは不可能な場所に、野上葉月はいた。


「どう解く?」


 宍戸が尋ね、市岡神社の男は肩を竦めた。


「謎解きは俺の仕事じゃない。ヒントはそこら中に転がってるんじゃないの? まあ俺は、宍戸たちの公演が終わるまでの期間、この霊道を塞ぐだけ。知り合いに死人でも出たら気分が悪いからね」


 霊道、と市岡神社の男は言った。そうして何やら儀式を行うのに宍戸、鹿野、そして和水は付き合い、


「一旦塞いだけど、すぐ破れる程度のものだから。絶対触っちゃダメだよ。本番で、この──奈落? も結構使うんだよな?」

「そうだな。衣装の早替えや、あとは役者の退場時に地下に飛び込む演出が何回か」

「じゃあ全員に伝えておいて。ここに野上神社の残滓があることをって。頼むよ、宍戸」


 市岡神社の男はそう言い置いて、去って行った。


 奈落から地上に戻った鹿野を不田房が、和水を檀野と優華がわっと声を上げて迎える。


「鹿野大丈夫だった? 何も見なかった?」

「はい、私は何も……」

「和水さんは? 和水さんは大丈夫なん!?」

「うん、いや、ええっと……」

「大丈夫じゃないの!? ないなら言う! 早く言う!!」


 迫る檀野の顔をじっと見詰めながら「宍戸さん」と和水はぽつりと声を上げた。


「あの人、って言ってましたよね」

「ああ」


 あの人。市岡神社の男。


「じゃあ、忘れます。でも今だけ、言います」

「いいよ。せっかくなら全員で情報共有して、せーので忘れよう」


 幸いにも市岡神社の男の登場により仕込みは中断しており、舞台班、音響班、照明班、それに照明班の応援で駆け付けた泉堂せんどう一郎いちろうと彼の部下たち、更には刑事の小燕こつばめ煤原すすはら──『花々の興亡』に関与するほぼ全員が、ロビーに集合していた。


「野上神社の神様は、まだ、


 和水が言った。「どこに」と檀野が尋ねる。和水は首を横に振る。


「どこにでも」

「……建物自体がやばってこと?」


 尋ねたのは不田房だ。和水は首を縦に振ろうとして、それから困ったように傾げる。


「それこそ私は素人だから何も断言できないんだけど……建物自体が、やば。それはそうかもしれません」

「なんだか良く分かりませんが」


 口を挟んだのは刑事の小燕だ。


「この劇場はあまり良い場所ではないみたいですね」

「えっ、刑事さんもそういうの信じるんですか? 意外!」


 キャッキャと声を上げる不田房を一瞥した小燕は溜息を吐き、


「野上葉月に関しては逮捕状が出ており、指名手配犯扱いになっています。株式会社イナンナからも大嶺舞への加害行為についての被害届が出てますから。野上葉月という人間は──間違いなく存在していますよね」


 それは問いではなく、確信を込めた確認だった。誰ともなしに「ああ」「いたよ」「いましたね」「でも……」と声が上がる。


「野上神社。野上葉月。それに八月踊りという言葉。それらを全部『偶然』で片付けられるほど、落ち着いた人間じゃないんですよ、私は」


 刑事さんめちゃくちゃいいっすね、と軽口を叩こうとする不田房の後頭部を宍戸が引っ叩き、


「ご理解いただけて嬉しいです。ということで全員、『花々の興亡』の千穐楽まで気を抜かないように。それから……死なないように」


 死なないように。

 冗談でもなんでもない、本気の響きだった。


「鹿野」


 不田房が耳元で囁いた。


「俺、命懸けで演出するの初めて」

「私もです」


 そうしてまた──年内最終の追い込み仕込みが、始まる。

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