幕間⑤
インターミッション 奈落
不田房栄治が自身のスマートフォンを使って宍戸クサリに連絡を取ろうとしたが、なぜか圏外になっていた。魂を抜かれでもしたかのようにぺたんと座り込んだ檀野創子に肩を貸した和水芹香が「刑事さんを呼んできます」と言い残して地上に通じる階段を上がっていった。鹿野素直は手のひらから血を滴らせながら祠の奥にあった木製の扉に手を掛ける。「鹿野」と不田房が呼ぶ。「大丈夫です」と振り返らずに応じる。鍵はかかっていない。というか扉そのものがほとんど腐って、壊れてしまっている。手のひらは見ない。どれほどの大惨事になっているのか、目視で確認する方が怖い。痛みはない。痛すぎるからだ。扉を押す。開かない。中に何か──或いは誰かがいるようで、引っかかって動かない。仕方なく、木が腐って壊れた隙間に指を突っ込み、強引にひき開ける。バキッ、と嫌な音がして扉が壊れた。
扉の中には、大嶺舞がいた。
ひどく狭い空間だった。鹿野よりも長身の大嶺が膝を抱え、顔を俯けることでようやくぴったり収まることができる、その程度の広さしかなかった。
大嶺は両方の腕と足を縛られていた。縄のような──いや、違う。紐だ。赤い紐。歌唱稽古のためのスタジオに現れた女の黒髪を結えていた赤い紐だと、反射的に気付く。
声を掛ける。「大嶺さん」。答えはない。死んで──まさか、という嫌な予感が背中を駆け上がる。「不田房さん」。震える声で呼ぶ。不田房は、すぐ近くにいた。
「大嶺さん? これ大嶺舞さん?」
「そうです……でも、」
「大嶺さん! おい、大嶺さん! 俺だよ、不田房! 演出家だ! 大丈夫か!?」
鹿野が場所を譲ると、不田房は大きく声を張り上げて大嶺舞の肩を揺さぶる。蒼白の顔、薄い瞼を閉じていた大嶺の体が──ひくり、と痙攣するように揺れた。
「なんだこの紐……げっまたお札!!」
裏返った声を上げた不田房はしかし、大嶺舞の身体中にベタベタと貼られた大量のお札、『野上神社芸事上達守護』と書かれた黄ばんだ紙に臆する気配はない。
「不田房さん、私も」
「鹿野も怪我してるんだし引っ込んでて。ていうかこのお札すごい、なんかめちゃくちゃ古いな。どこから調達してきたんだ? クソッ」
吐き捨てながら剥がしたお札を手の中でくしゃくしゃに丸め、床に捨てたその手で大嶺を拘束していた赤い紐をも引き千切る。不田房とはこういう男だ。いざとなると、良くも悪くも何を仕出かすか分からない。
念の為、足元に落ちたお札を一枚だけ拾ってポケットに入れた。
「んっ……なんか、臭い……?」
不田房が大嶺の体を横抱きにする。瞬間、強い臭いが鹿野にも伝わった。
「漏らしてますね……かなり長くここに閉じ込められていたのでは」
「まーでも俺が汚れる分には問題なし! 風呂に入れば解決! それより救急車、119番して鹿野!」
「はい、あ、でも、ここ圏外……いや……?」
取り出したスマートフォンはしっかりと電波を受信している。シアター・ルチア内のwi-fiもきちんと機能しているようだ。
扉を壊したからだろうか。それともお札を剥がし、赤い紐を切ったからだろうか。
顔を上げ、辺りを見渡した。ここは奈落だ。シアター・ルチアの舞台地下。『花々の興亡』でもフルに活用されるであろう地下空間。
つい先ほどまでの異常な空気は、もう少しも残っていなかった。
身に着けた白いワンピースを糞尿で汚した大嶺舞を抱え上げた不田房が、再びくふんと鼻を鳴らした。
「まだなんか臭いが……」
「あんまり言ったら可哀想ですよ」
「じゃなくて、鉄……血の匂いか……?」
「血? あっこれですか?」
と手のひらを翳して見せると不田房は「ぎゃーっ」と声を張り上げ、
「鹿野も病院! 即病院!」
「分かってます、さすがに痛い……」
足音が聞こえてきた。宍戸を先頭に、刑事の
「刑事さん! 救急車呼んでください、大嶺さんの様子がおかしい!」
「もう上に到着しています、担架もありますので彼女──が、大嶺舞さんなんですか? 行方不明の?」
小燕が眼鏡の奥の瞳を大きく瞬かせた。頷いた不田房の腕の中で、大嶺舞が身動ぎをする。良かった、生きている、生きて──鹿野の安堵は、次の瞬間恐怖に変わる。
「あ……ぇあ、う……」
僅かに開かれた大嶺の口の中に、大量の血が溜まっている。それが頬を伝い、不田房の腕を汚し、コンクリートの床にボタボタと滴った。
大嶺舞は舌の先端を切り取られていた。
以前のように言葉を発し、会話を交わすのは困難であろう、と搬送先の病院で診断が下された。
祠の奥にはもうひとつ、奇妙なものが残されていた。宍戸が発見した。
『奉納』と書かれた黄ばんだ白い紙包。中には
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