第11話 渋谷区、シアター・ルチア⑩
舞台上は
「じゃ、何かあったら警察の人経由で連絡し合うってことで」
「了解で〜す! ほな女性楽屋から案内しますね。あ、窪田さんは立入禁止やから!」
「俺だってわざわざ女性陣の楽屋に入ろうとなんてしないよ、信用ないなぁ……」
宍戸の言葉に明るく応じた鬼優華と、困ったように髪を掻き回す窪田広紀が刑事たちと楽屋に向かって去って行った。楽屋には、鹿野と優華が入った時点でお札を何枚も貼ってある。少なくとも今この瞬間ぐらいは、持ち堪えることができるだろう。
「調整室、案内しますねー。て言っても、私もルチアの調整室って入るの初めてなんですけど……」
完全に巻き込まれ事故であるにも関わらず、穂崎星座は朗らかだった。穂崎の背を追うようにして、刑事たちが階段を上っていく。調整室は劇場がある一階と、二階席の間にある。中二階とでも称すれば良いだろうか。上演する演目によっては調整室を使わずに、音響卓・照明卓を客席に設置することもある。だが今回の『花々の興亡』ではできるだけ全部の座席を観客に解放したいという株式会社イナンナ側の意図もあり、調整室を使用すると事前に決まっていた。
「客席行きますか。鹿野、何かあったら……」
「すぐ連絡! 大丈夫です!」
「頼むぞ」
小燕と数名の部下たちを伴って、宍戸が劇場内に通じる扉を開ける。一行の姿が消える。鹿野は我知らず止めていた息を吐き、額に浮いた汗を拭った。
「では──参りますか」
奈落へ。
ヒールからスニーカーに履き替えた檀野と、宍戸から受け取った市岡神社の真新しいお札を手に握り締めた和水が大きく首を縦に振った。
劇場地下に通じる階段を降りる。関係者以外立ち入り禁止の扉が、妙に重たく感じた。不田房を先頭に、鹿野、和水、いちばん後ろに檀野。示し合わせたわけではないが全員が足音を潜め、『何か』の出現に備えていた。
「薄原さんたちが設営開始前に──って奈落も覗いてたはずなんだけど」
不田房の呟きに、
「ですよね」
と和水が小さく応じる。
「大道具さんを疑ってるわけじゃないんですけど……」
「もう何か見えてるの?」
檀野が尋ねる。和水は僅かに首を縦に振り「明るい」と呟いた。──明るい?
明るくはない。薄暗い。非常灯がぼんやりと光を放っているだけの階段だ。地下階に辿り着く。不田房が鍵を使い、舞台の真下に当たる奈落に通じる扉を開けた。
何もない。
がらんとした寂しい空間が広がっている。
当たり前だ。まだこちらには、何の準備もしていない。
「セリ……異常なし。あ、階段もありますね」
「手すりも付いてるし、これだったら舞台から駆け降りても事故にはなんないかな」
鹿野と不田房が言葉を交わす一方で、和水はきょろきょろと薄暗い奈落を見回している。和水の右手を強く掴んだ檀野が「どうしたの」と低く尋ねる。
「ここも明るく見える?」
「見える……蝋燭とか、ないよね?」
「あるわけないよ、火事になる……」
火事、というフレーズから、鹿野は不意に最初の稽古場に灯油が撒かれていた一件を思い出す。結局犯人は分からないままだったが、誰が、何のためにあのような真似をしたのだろう。
「──ようこそ」
声がした。
本当に唐突に、低く、柔らかな声が。
檀野が和水を背に庇い、鹿野は不田房を盾にした。
野上葉月が、箱馬の上にちょこんと腰を下ろしてこちらを見上げているのが分かった。
箱馬というのは、舞台演劇で良く使われる小さな箱のことだ。見た目は横長の木箱で、舞台装置の設置の際に使用したり、単に椅子の代わりとして使ったりもする。中が空洞になっているということもあり、適当に物を収納するのに使うこともある。イナンナの稽古場には箱馬はなかったが、泉堂舞台照明の地下稽古場には箱馬が山ほど転がっている。
小豆色の和服に身を包んだ野上葉月が、漆塗りの弁当箱を差し出して微笑む。
「おはぎはいかが? 芸事上達の、縁起のいいおはぎですよ」
「
檀野が唸る。
「
「檀野さんとお話しすることは特にありません。……ね、和水さん」
名を呼ばれた和水がびくりと肩を震わせる。青褪める和水の手を、檀野が強く掴み直す。
「おはぎ、どうぞ」
「い……いらない」
「どうして? 芸事が上達しますよ? 今よりもっと演技が上手になれるかも?」
「そうやって、何人……誑かしたの?」
「ええ〜?」
和水の震える声に、葉月のきゃらきゃらと明るい笑い声が重なる。
「誑かしたなんて、失礼! みんな望んでお参りに来たんですよ」
「何の話、っていうか」
どこにいるのあんた、と檀野は言った。檀野には葉月の姿が見えていない。ハッとして顔を上げると、盾になっている不田房と視線がぶつかった。「見えますか」と口パクで問うと「いるよね」と同じ方法で返事が来る。
檀野にだけ、野上葉月が見えていない。
「さあ、さあ、さあさあさあさあ! お祭りですよ、和水さん! 野上神社の八月踊り! 見届け人になってくださいな!」
野上葉月が立ち上がる。背が高い。異様に高い。舞台の地下ということもあり天井──舞台上──がだいぶ遠くに見える奈落に於いて、鹿野だけでなく、それなりに長身の不田房や和水でさえ見上げなくてはその顔を見ることができないほどに野上葉月は大きくなっていた。
「みんなが歌って踊って神様にお願い事をする八月踊り! 楽しいですよ! なんでも叶えてあげますよ。お歌? うまくしてあげましょう。演技? びっくりするぐらい巧みに! 作曲? 誰も聴いたことのない美しい音色を。お化粧? あなたの指先で魔法が生まれる! さあ、さあさあさあさあ! 和水さん。和水さんはどうなりたい? なんでも、なんでも叶えて差し上げます」
「対価はなんだ?」
不田房の声が響く。結構な大声を出したはずなのだが、奈落にいる四人──そして葉月以外には届いていないようだった。四人は、葉月に包まれていた。葉月はもう、ひとの形をしていなかった。真っ暗な闇があった。檀野が和水を抱き寄せた。葉月の笑い声が弾けた。
「王子様気取りですか? 檀野さん! イナンナの人間がそれをすると、バッカみたいですねっ!」
「意味不明なんだけど! 本当になんなのあんた! 誰なの!?」
「──誰?」
闇が、黙った。
「わ、た、し、は────────────」
あの声だ。笑い声だ。
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
「おまえたちが────────────」
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
「おまえたちが崇めた、神だ!」
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
「あんたみたいな神様がいるわけないだろ、
「檀野さん、ダメ!!」
檀野が吠え、和水が悲鳴を上げた。
暗闇が瞳を細める。「ああそう」。溜息混じりの声。
「化け物、化け物、そうですか……では、化け物になりましょう。そろそろ飽きがきていたところです。清蔵も不誠実。恨むなら、わたしではなく清蔵を」
一閃。和水を抱きかかえたままの檀野が後退りをしなければ、顔に大きな傷が残っていただろう。鋭い刃で薙ぎ払われ、栗色の髪がひと房床に落ちる。
闇がそれに手を伸ばし、掴み、口に運び、飲み込む。
「檀野さんは綺麗。でも檀野さんは性格が悪い。だから要らない。和水さんがいい。和水さんも綺麗。それに怖がり。次の10年は、和水さんにお願いするわ」
「えーい!!」
不田房がヤケクソになった様子の大声を上げた。薄紙に包まれた市岡神社のお札を、暗闇に向けて力いっぱいぶん投げたのだ。
「祝詞思い出せねえ!! 狐の神様お願いします!!」
「は!? こんなところまで狐を!? 全部書き換えたのに、全部……全部!!」
野上葉月の声が裏返り、それから低く──太くなる。あの老婆の声だ。イナンナのスタジオが入っているビルの前。喫煙所で煙草に火を点けた鹿野に向けて放たれた、地の底から這い出るような、ひび割れた音。
ケーン、という甲高い響き。動物の──狐の鳴き声。
闇が裂ける。引き裂かれてボロボロになる。目の前に、薄暗い奈落が戻ってくる。
野上葉月が仁王立ちになっていた。なぜそれが野上葉月だと分かったのか、鹿野にも、おそらく不田房にも分からなかった。
顔がなかった。
目も鼻も口もなく、ただ暗闇だけを宿した顔の女が、ぐちゃぐちゃに乱れた小豆色の着物を着、髪を振り乱しながら迫ってくる。
「寄越せ! わたしに顔を寄越せ!!」
市岡神社のお札は機能している。女の足取りは重い。「檀野さん下がって」と鹿野は声をかけ、不田房を盾にしながら辺りを見回す。
何かがあるはずだ。この奈落に、何かが。
「素直」
和水が声を上げる。
「祠がある!」
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
「おまえええええええええ!!」
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
咆哮。もしかしたら、舞台上や客席にいる面々にも届いたかもしれない。
野上葉月の背後に、箱馬の後ろに、本当だ、小さな、祠のようなものが。
「不田房さん!」
「おん!」
市岡神社のお札は、野上葉月に踏み付けられる度に文字をかき消されていく。艶のある和紙に包まれているお陰だろうか、どうにか無事な一枚を受け取った鹿野は、ほとんど飛び込むようにして祠に突っ込んだ。
『野上神社』
古びた木の板に、そう、書かれている。
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
「ああああああ!!」
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!
悲鳴。だが野上葉月はまだ諦めていない。
手を伸ばす。和水の顔に向けて、爪の剥がれた手を伸ばす。
「檀野さん逃げて!」
檀野の胸を押しながら和水が叫ぶ。不田房が駆け寄ろうとする。間に合わない。
野上葉月の手が、和水芹香を全身で抱き締めた檀野創子の栗色の髪を掴む。
何かが焦げる音がする。
焼け焦げた髪の束が、コンクリートの床に落ちる。
落ちる。
「ふざっけんなよ野上葉月!」
檀野の怒声を背に、鹿野は『野上神社』の文字の上に市岡神社のお札を叩き付ける。手のひらが焼ける。燃える。野上葉月が──この祠に祀られているなにかが抵抗している。灼熱。激痛。だが離さない。まだ終わっていない。まだ終われない。
「
囃し立てるような笑い声が、唐突に止んだ。
鹿野は、お札を押し当てていた手をゆっくりと離す。手のひらの皮がべろりと捲れているのが分かった。血の匂いもする。肉が焼ける匂いも。あ、焼肉食べたい。
──祠の向こうに、木製の扉がひっそりと佇んでいることに、唐突に気付く。
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