第10話 渋谷区、シアター・ルチア⑨

 和水なごみ芹香せりかが、マネージャーの元家もとやろんに何かを囁いた。小さく頷いた元家は劇場の入り口に立っていた警察官に何事かを告げ、寒風吹き荒ぶ外の世界へと飛び出して行った。刑事の小燕こつばめは部下たちを集めてシアター・ルチア内を確認するための班分けを行っている。と、鹿野の手の中でスマートフォンが震えた。メッセージアプリ内『花々の興亡』グループに。気付いたのは、鹿野だけではない。窪田くぼたはさり気なく檀野だんの、和水から離れて自身のスマートフォンを覗き込み、車座になって麻雀アプリに興じていた舞台班、更には宍戸ししどクサリや不田房ふたふさ栄治えいじ穂崎ほさき星座せいざに至るまで、『花々の興亡』チーム全員がメッセージを受け取っている。自身のスマホの液晶画面が大破した檀野だけは、和水の肩に顎を乗せ、メッセージを送信した本人のスマートフォンを覗き込んでいた。


『地下です』


 和水からのメッセージには、ひと言そう書かれていた。


『どういう意味』


 宍戸が即座に反応する。


『この建物、地下がおかしい』

『何か見えてるんですか』

『はい』


 誰も余計な口を挟まない。刑事たちに隠し事をするつもりはないが、それでもやはり、今回の現場は何かがおかしい。過去の失踪事件について疑念を抱いているとはいえ、野上神社、野上葉月、それに八月踊りといったキーワードに触れていない(可能性が高い)刑事たちを簡単に巻き込むのは、抵抗があった。


『私が地下に行きます』


 檀野が和水の手首を強く掴むのが、見えた。「何言ってるの!?」とくちびるの形だけで伝える檀野を和水は肩越しに振り返り、


『私なら見付けられます』

『危険では』

『でも私にしか見えてない』


 沈黙が落ちる。何か不審なものを感じたのか、「どうされましたか」と小燕が声を上げた。和水は爽やかな笑顔を浮かべ、


「今、うちのマネージャーにイナンナのシャトルバスを呼びに行ってもらってるんです」


 とスマートフォンの画面を見せる。「バスまだ?」「電話繋がりません」という元家とのやり取りが表示されている。


「調査が終わったら、引き上げますから……」

「女優さんにまで協力してもらう必要はないですよ。バスが来たら、すぐにここを離れてください」

「いえ、でも、私たちも関係者ですし」

「そうそう。公演中止になるわけじゃないし、一応劇場内を確認させてもらってもいいですよね? 警察が一緒なら、何が起きても安心だし」


 キラキラの営業用スマイルを浮かべた檀野が追撃する。小燕が小さく溜息を吐くのが分かった。


「まあ……じゃあ、もうしばらく、お待ちください」

「はあい」


 ふたりのコンビネーションでどうにか誤魔化せた──はずだ。元家が本当にバスを呼びにいったわけではないと、鹿野にも分かった。この小芝居をするためにマネージャーを劇場の外に出したのだ。


『地下には俺も行きます』

『地下に何があるの?』


 宍戸、不田房。


『ていうか、地下があるんですか?』


 鹿野。


奈落ならく以外に』


 鹿野。

 。舞台の地下、真下のスペース、通路としても使える空間を奈落と呼ぶ。元は歌舞伎用語だという話もある。シアター・ルチアにはかなり深めの奈落があり、上演最中に奈落に飛び込んで衣装の早替えを行ったり、舞台転換の際にセリ──漢字では『迫り』と書く──を利用して役者や大道具を登場させたり、移動させたりと、何かと便利な空間だ。だが、深い奈落では事故が起こることも多い。ルチア以外の劇場でも、暗転中に舞台上を移動した俳優が奈落に転落し骨を折ったというような話も、頻繁に耳にする。


『奈落がおかしい』


 和水。

 檀野が眉を跳ね上げている。


『奈落には入りましたよ』


 薄原すすきはら

 大道具担当チームと舞台監督の宍戸、そして今ここにいない鈴井すずい世奈せなは、たしかに奈落でも作業をしていた。


『なにもおかしなことは』


 薄原。


「──そろそろ、よろしいですか」


 小燕の声がした。


「劇場内をチェックしたい。どなたが同行されるんですか?」


『上には何もない』

『いちばん下です』

『奈落には』


 和水。


『私が』


 ──和水。

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