第4話 渋谷区、シアター・ルチア⑤

 歌唱指導担当の穂崎ほさき星座せいざ鈴井すずい世奈せなの首根っこを掴んでシアター・ルチアのロビーに現れた。その場にいた全員が驚愕のあまり何もコメントをできなかった。

 鈴井は、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた。


「こちとら台本より重いものは持たないようにして生きてるんだから、勘弁してくれない?」


 と、鈴井を宍戸に引き渡しながら、穂崎は言った。聞けば、シアター・ルチアの前でタクシーを降りた瞬間、鈴井が何事かを大声で喚きながら突撃してきたのだという。タクシーの助手席に無理やり乗り込もうとする鈴井に一旦当て身をして、それからタクシーの運転手には警察を呼んでもらったとのことで、


「もうすぐ来ると思う、警察」

「穂崎さん、助かりました」

「助かったけどこれ……警察にお願いしていい案件なのかな?」


 宍戸と不田房の声が重なる。穂崎は肩を竦め、


「とにかく彼、どう見ても様子がおかしいでしょう。救急車の方がいいかと思ったんだけど」

「いや警察で正解でしたよ……鈴井、鈴井!!」


 声をかけながら、宍戸が鈴井の頬を引っ叩く。容赦がない。ぱちぱちと目を瞬かせる穂崎にお茶のペットボトルを差し出した鹿野は、


「あの、穂崎さん。今日はいらっしゃらない予定だったのでは」

「うん、午前中別の現場の確認があったからね。お茶ありがと。事務所に戻る途中に渋谷を通りかかったから寄ってみたんだけど……」

「なるほどです。本当に、大変助かりました」

「何が起こってるの?」


 穂崎の問いかけはもっともだ。そして鹿野としても「今何が起きているのか」を正しく説明するための言葉を持っていない。伝えられることといえば、


「このお茶、檀野さんからの差し入れで……」

「え? あ、ツクルさん! 和水さんも! どうして?」

「こっちの台詞」


 眉を下げた呆れ顔で、檀野創子が笑う。


「これでほぼ全員集合ってこと? どうなってるの、素直?」

「いや……どもこも……」


 何が起きている? いったい誰の意思で?


 今日は劇場入り初日で、舞台班と外部からやって来た大道具組を中心に仕込み作業を行っていた。鹿野素直はきさらぎ優華ゆうかとともにレンタルした衣裳の仕分けやアイロン掛けなどを行っていて、ちょうど昼食時に檀野創子と和水芹香がそれぞれのマネージャーを伴い、差し入れの甘味と飲み物を持って来てくれた。それから檀野が急に身の上話を始めて──シアター・ルチアと、イナンナが所持しているスタジオ、その両方に出る小豆色の着物を着た女の話と、かつて野上神社の名物だったという『芸事上達おはぎ』について説明してくれて──


「そして、檀野さんのスマホが割れました!」

「局地的な情報すぎる」

「それはそう……でもスマホが割れたタイミングで、鈴井さんが……」

!!」


 鹿野の言葉を遮るようにして、鈴井が怒鳴った。これまで一度も聞いたことのない大声だった。ひび割れて、掠れていた。


「おれはっ、もう、もういやなんだっ!! こんなことに関わるのは……それにもう、もう、よく、!! よくなったのにっ!!」

「何言ってんだおまえ」


 宍戸が鈴井のシャツの襟をぐっと掴む。そのまま締め上げられて、「ぐえ」と鈴井が潰れた声を上げる。


「何言ってんだ? おまえ」


 誰も、止めに入ることができなかった。

 鈴井世奈は笑っていた。震えながら、どこか壊れたように、笑っていた。


「おれはもうみない──かわりがいる……」

「だから、何言ってんだって聞いてんだ! 意味が分かんねえんだよ!!」

「みえてるんだろ」


 鈴井がゆっくりと、指を差す。

 爪が朱色に塗られていることに、鹿野は不意に気付く。

 鈴井が指差す先には、和水芹香の姿がある。


「人のこと指差してんじゃないよ!!」


 ヒールを脱ぎ捨てて鈴井に駆け寄った檀野が、宍戸に締め上げられたままの鈴井の顔を平手で張った。鈴井は気絶し、宍戸は絶句した。


「見えて……る?」


 和水芹香が呟いた。その声は震えても、怯えてもいなかった。駆け戻ってきた檀野が「何?」と尋ねる。「檀野さん」と和水が応える。


「たしかに私──見えている、のかも」

「おはぎババアの話?」


 和水が首を横に振り、「それ以上に、もっと」と言った。


 サイレンの音が近付いてくる。

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